氣まぐれ剣士の言いたい放題

氣まぐれ剣士が剣道その他を思うままに書いています。
一度のぞいてください。

205 幸せのヒント

2005-09-15 23:16:55 | Weblog
気まぐれ剣士の言いたい放題

205 幸せのヒント

 幸せのヒント 「相手の問題」

人から非難された場合には、一時的に腹が立ったり、悲しかったり、悔しかったりします。しかしその非難の原因が
   相手が自分に嫉妬しているのかもしれません
   相手が何かを誤解しているのかもしれません
   相手には人を非難する悪いクセがあるのかもしれません
   相手には自分が知らない何か深い事情があるのかもしれません
   相手がその時たまたま機嫌が悪かっただけかもしれません

 相手が勝手に嫉妬するのも、誤解するのも、悪いクセも、深い事情があるのも、機嫌が悪いのも、「相手の問題」です。
 相手の問題でそんなに自分が振り回されるのはあほらしいですね。「この非難は相手自身の問題」とさらりと受け流すことができたら、相手の非難も気にならないかもしれませんね。


幸せのヒント 「イヤな気もちになることをするよりも」
 
 ただ不平・不満・グチを言っているよりも
   自分にできることは、すぐにやってしまったほうがいい
   自分にはできないことは、すぐに人にお願いしたほうがいい
   どうしようもないことは、不平・不満・グチを言ってもしかたがない

 頭ではわかっても、実際にはなかなかできないことも多いのですね。
不幸を嘆いているよりも、すすんで幸せになれることをできたら。
不幸を数えて暮らすより、幸せを数えて暮らしたほうが楽しいですね。


幸せのヒント 「遠くの幸せ」

  自分がもっていない幸せ、誰かがもっている幸せ、
  身近にない幸せ、将来の幸せ、理想の幸せ、・・・

 「あなたにとっての幸せとは、何ですか?」
 そう聞かれて、身近にある幸せを答える人には幸せな人が多く、遠くの幸せを答える人には幸せでない人が多いようです。
 中には、「幸せ」というと、自分が持っていない幸せしか考えられない人もいます。
 しかし、「幸せは、今、ここにしかない」と言われます。
 「感じることができる幸せは、今、ここにある」ということなのでしょう。
 将来にも、遠くにも幸せはあります。その時になれば今ですし、そこへ行けばここですから。また、将来の幸せ、遠くの幸せをワクワクしながら目指し、その過程の幸せを味わうこともできますね。自分が目指した幸せに到達できれば、大きな幸せを感じられるでしょう。

「幸せは、いま、ここにある」ということは、「自分のいるところ、いつでも、どこにでも幸せはある」ということかもしれません。


幸せのヒント 「人を喜ばせると」

  好感を与える、好意をもたれる、感謝される、
  尊敬される、支持される、協力を得られる、
  お返しをしてもらえる、代価をもらえる、・・・

 人を喜ばすことは、何らかの形で自分に返ってくるかもしれません。人を喜ばすこと自体に、喜びを感じられる人も多いでしょう。
「人を幸せにすれば、自分が幸せになれる」
「多くの人を幸せにできれば、それだけ自分が幸せになれる」
 このような考え方をしてみるのもいいのではないでしょうか。

以上

204 トマトとメロン

2005-09-14 21:09:52 | Weblog
気まぐれ剣士の言いたい放題

204 トマトとメロン

相田みつおさんの「トマトとメロン」です。

トマトにねぇ いくら肥料をやったってさ、メロンにはならねんだなぁ
トマトとね、メロンをね、いくら比べたって、しょうがねんだなぁ
トマトよりメロンのほうが高級だ、なんて思っているのは人間だけだね

それもね、欲のふかい人間だけだな
トマトもね メロンもね、当事者同士は、比べも競争もしてないんだな

トマトはトマトのいのちを、精一杯生きているだけ
メロンはメロンのいのちを、いのちいっぱいに生きてるだけ

トマトもメロンもそれぞれに 自分のいのちを、
百点満点に生きているんだよ

トマトとメロンをね、二つ並べて比べたり競争させたりしているのは
そろばん片手の人間だけ、当事者にしてみれば、いい迷惑のこと

『メロンになれ メロンになれ、カッコいいメロンになれ!
 金のいっぱいできる メロンになれ!!』

と 尻ひっぱたかれて、ノイローゼになったり、やけのやんぱちで、あれたりしている『 トマト 』がいっぱいいるんじゃないかなぁ・・・

剣道でも尻をひっぱたかれている子がいるかもしれませんね。
学校で先生に絞られ、終わればすぐ塾へいかされ、塾のない日は剣道では、疲れてしまいますね。おまけに、指導者からも、親からも叱咤激励されては、息つくヒマもありません。せめて剣道ぐらいはのんびりやらせたいのだけれども・・・

 わが団が強くないのは、子供の個性に合わせたゆとり剣道の証?・・・と気まぐれ剣士は言い訳しています。

 次回もお楽しみに

以上

203 小石がダイヤに

2005-09-13 21:48:59 | Weblog
気まぐれ剣士の言いたい放題

203 小石がダイヤに

  こんな話があります。ある日、ツイている人ばかりが集まるところに神様がやってきたそうです。みんなは神様がすごいことを話すのだろうな、と固唾を飲んで待っていました。すると神様は、「みんなで小石を拾いなさい。そうすれば、明日喜び、また悲しむであろう」とおっしゃって立ち去ったそうです。

みんなは神様のいうことがわかりませんでしたが、せっかくだからと、いくつかの小石を袋に入れて持ち帰ったそう です。すると翌日の朝、袋の中の小石はすべてダイヤモンドになっていたそうです。みんなが大喜びしたのはいうまでもありませんが、もっと拾って袋に入れておけばよかったと悲しんだというわけです。

 この話は現実を非常にうまく捉えた話ですね。
今現在私たちが取り組んでいること、経験していること、これは小石を拾うことを表しています。そして、それが時と共に素晴らしい学びや教訓、つまりダイヤモンドに変わるということです。
 今経験していることが、楽しいことであれ、悲しいことであれ、やがては自分の心の糧となり、血や肉となり、人生に非常に大きく役に立つということです。

 ですから、いま小石を一生懸命拾えば拾うほど(いろいろな経験を積めば積むほど)、ダイヤモンド(心の糧、体験、教訓) という収穫も大きなものになります。

 今経験している仕事、人間関係、無駄なものは一切なく、 すべてがダイヤモンドになる原石である・・・。

 深い話ですね。

 気まぐれ剣士も女房殿にこう言ってやりたいですね(言えないけれども)。
“炊事、洗濯、家事、育児、どれをとっても無駄なものはないんだよ。それが人生に大いに役立ち、ダイヤなんかなくったって、おまえ自身がダイヤのように輝けば良いんだって”
 でも、きっと女房はこう言うでしょう。
“でも、やっぱり本物のダイヤがほしいって”
おそまつ様でした。
次回もお楽しみに
以上

202 ルビンの壷

2005-09-12 21:28:08 | Weblog
気まぐれ剣士の言いたい放題

202 ルビンの壷

 皆様、「ルビンの壷」という絵をご存じでしょうか?
 白い紙に、シルエットで中程がくびれた壷が描かれています。 ところが、これは一種のだまし絵になっていて、ふたりの人間の横顔にも見えるようになっているのです。

 面白いのは、「壷があるよ」と言われてこの絵を見れば壷だけが見えますが、 「人の横顔だよ」と聞いて絵を見れば、もう横顔だけしか見えなくなってしまうことです。

 実際には、「壷」と「横顔」両方の要素が描かれているのですが、そのふたつを同時に見ることはできません。どちらかを見ようとすると、もう一方は見えなくなってしまうのです。
 面白いですね。両方同時に見えてもよさそうなのに、本当にどちらか一方しか見えないのです。

 ひょっとしたら私たちは、ものごとをちゃんと見ているつもりでも、自分のなかにある偏った見方をしてしまっているのかも知れません。
 
例えば
 「失敗」=「自分の無能さの結果」
 あなたには、そう見えますか? でも、こんな見方もできますよね。
 「失敗」=「自分の課題を教えてくれた貴重なきっかけ」
 「失敗」=「自分の望む結果への新たなスタート」
 そういえば発明王のエジソンは、電球のフィラメントを発明した時、何千回も失敗してそうです。でも、エジソンは“失敗したのではなく、何千ものフィラメントに適さない物質を発見したのだ”といったそうです。失敗ではなく発見と思えば勇気も湧くし、勢いもつきますね。見る方向、考え方を少し変えるだけで、ずいぶん気が楽になるかもしれません。

 気まぐれ剣士も、試合で負けたときは、自分を責めるよりも相手を誉めるようにしています。“よく俺に勝った。大してものだって”。こう考えれば、自分も傷つかず、相手にも失礼にはならないですよね。でも、相手にしてみれば、気まぐれ剣士に勝ったところで嬉しくもなんともないでしょうね。ごもっともでございます。

いかがでしたか。
次回もお楽しみに
                                                                     以上

201 チャンスとピンチ

2005-09-11 10:40:51 | Weblog
気まぐれ剣士の言いたい放題

201 チャンスとピンチ

「ピンチ」と「チャンス」は、コインの裏表と同じで、どちらか一方では存在することは出来ないようです。「ピンチ」と「チャンス」は同じ現象を見た時の、その人の捉え方の違いに過ぎないのですね。
どんな現象を見ても、「チャンス」と捉えることも出来ますし、「ピンチ」と観ることも出来ます。 アタマは理由付けの名人ですから、「チャンス」なら「チャンス」の理由を、「ピンチ」なら「ピンチ」に相応しい理由を一生懸命考えて、納得させてくれます。
 
 でも、そのどちらかが正解で、どちらかが間違っているワケではありません。それは単に解釈の違いであって、どちらが「良い・悪い」という問題ではありません。
 もちろん、自分の心地良さに従って、全ての現象を「チャンス」と捉えることも可能ですが、そこに「無理がないか」をしっかり観察することは、とても大切な視点です。
 
 本当は「ピンチ」と感じているのに、それを無理矢理「チャンス」と信じ込ますのは、単なる「力技」です。それはブレーキを踏みながら、アクセルを踏んでいるようなもので、ここにポジティブ思考の限界があるようです。
まずは「ピンチだ」、「チャンスだ」と意味付けする前に、その現象を事実として、しっかり観ることが大切かも知れません。「ピンチ」にしろ、「チャンス」にしろ、その現象に特別な意味付けをして、特別扱いしていることに変わりはなく、そういう意味では、どちらも偏った見方と言えそうです。

 「ピンチ」に陥ったと思ったら、無理矢理「チャンス」に変える前に、「ピンチ」から逃げ出さず、「ピンチ」にどっぷりと浸って、しっかりと「ピンチ」を感じてみたらいかがでしょうか。

 実は、「ピンチ」は、あなたの中にある「恐れ」や「不安」が出て来ているサインだそうです。そういえば、不安が的中するって事ありませんか。この役だけは絶対に当たってほしくないとか、あの人だけとは一緒になりたくないと思っているときに限って、当たってしまうものなのですね。

 こんなときは、その役を嫌がるのではなく、なぜその役が嫌なのかを誤魔化さないで、しっかり感じ切ることが出来れば、「ピンチ」は、単なる「普通」の出来事に変化するかもしれません。

 気まぐれ剣士も、事務局を仰せつかったときは、嫌で嫌で仕方なかったですね。自分の世話もできないのに、人様の世話ができるわけないって。
 
 でも、今になってみればやって良かったと思いますよ。何が良かったかって、人様の喜びが自分の事のように喜べるようになったことです。人には言いませんが(ここでは言ってますが)、“昇段試験にうかるのも、大会で優勝できるのも事務局のお陰だ”と心では思っています。だってこれくらい思わないと事務局なんてやってられません。つい、本音が出てしまった気まぐれ剣士でした。
 いかがでしたか。
 次回もお楽しみに
                                  以上