米軍の上陸があるとされていた宮古島では、
敵の上陸地点に兵力を集中し、一挙に敵を壊滅させる
「水際作戦」を立てた。
万が一、敵の上陸を許した場合は、
野原岳(のばるだけ)周辺の陣地間を複雑な迷路や枝状の通路で
繋ぐ複郭陣地で持久戦を展開することも計画していた。
そのため、敵上陸地点を地形から判断して、
①平良港
②下地村宮国から嘉手苅
③白川湾
の3ヶ所と予想し、それぞれの地点に水際陣地、特攻艇秘匿壕、海軍砲台などを
構築し兵力を集中展開した。
そのため小さな宮古島に約3万人の将兵が配備され、
ほとんどの兵種の部隊が展開していた。
結果的に米軍の上陸はなかったが十・十空襲や
五・四艦砲射撃などによる被害と、飢えやマラリアで、
住民を含めた多くの命が失われた。
宮古諸島に配備された日本軍は、捕虜となることなく
組織的に武装解除して降伏している。
そのため任務を終えて帰還するまでの間、
慰霊塔の建立や戦後の政治、軍事情報などの情報誌の
発行といった、沖縄本島では見られない
日本軍の戦後があったという。
持久戦に持ち込むために掘られた野原岳の地下壕は
複雑で今だにすべては解明されていない。