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いろいろなブログを貼っていくつもりです。
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チャンドラ・ボース

2016-04-01 08:14:46 | 歴史
テレビにだまされないぞぉ||さんのブログです

http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/2002794/2010487/105319915


引用
日本では「インド独立の父はガンジー」と習うだけで、チャンドラ・ボースの事を知る人は少ないと思います。あのチャンドラ・ボースの供養の様子を東京の寺でやっていてビックリ!




実はこの蓮光寺、インドの歴史に埋もれたある人物の遺骨が眠っている。



 
皆様、こんばんは。ヘンリー・ストークスです。

このシンポジウムは1943年の11月5日、6日に東京で開催された大東亜会議の70周年を記念して開催されております。

このような歴史的な瞬間を皆様と共にできることをたいへん光栄に存じます。

20世紀で最も驚くべき展開は、500年続いた植民地支配、その禍が終焉を迎えたことにあります。

白人による支配が霧散してしまいました。
誰もがまったく予想しなかったことです。

1930年代末に「インドの独立はいつになるか」と問われたネルーは、「70年代には実現するかもしれない」と答えました。

つまりそれは、「私の亡き後に」という意味です。

ところが1940年代初頭には、インド人たちの間に独立の気運が突如として高まりました。
なぜ独立の気運が高まったのでしょうか。

答えは簡単です。
第二次大戦が勃発し白人の植民地支配500年のドラマに出現した新興勢力が、白人の植民地支配に痛烈な打撃を与えたからです。
 
その新興勢力こそ、日本でした。
 
インド独立のタイムテーブルは、ネルーの「70年代に達成できるかもしれない」というものから、一気に第二次世界大戦の終焉時へと短縮されたのです。

ここで、歴史の時間を20世紀から17世紀初頭まで少しもどしてみましょう。

インドでは、イギリスが1600年に東インド会社を設立し、植民地支配に着手しました。

イギリスはマドラス(1637年)、ボンベイ(1661年) 、カルカッタ(1690年)に東インド会社を進出させました。

イギリスの侵略は、プラッシーの戦い(1764年)、マイソール戦争(1799年)、シーク戦争(1845年)と続き、

1957年から59年にかけては、反イギリス民族闘争で 有名な「セポイの乱」が起こりました。

こうしてイギリスがインドを抑圧支配する中で、1868年、日本で明治維新が起こりました。

ほぼ同じころに、インドでは独立のために戦った歴史的な人物が生まれています。



1869年にはマハトマ・ガンジーが生まれ、
1897年には、チャンドラ・ボースが誕生しています。

1877年、イギリスが直接インド全土を統治するインド帝国が成立し、ビクトリア女王が「インド皇帝」として即位しました。



つまり、ボースはイギリスのインド植民地支配の絶頂期に誕生したのです。

ボースは今でもインドで「ネタージ」と呼ばれています。
ネタージとは「偉大な指導者」という意味です。

日本の支援を得て、ボースはINAを結成しました。
Indian National Army インド国民軍です。



非暴力主義でイギリスの植民地支配と戦ったガンジーと 対照的に、ボースは司令官として戦闘を率いました。

1943年5月16日、ボースは来日し、嶋田海軍大臣、永野軍令部総長、重光外務大臣などと面会し、



その上で、東條英機首相と会談しました。



ボースは日比谷公会堂で講演しました。
そのメッセージは当時のアジアの人々の気持ちを代弁していました。

「私が小学校に通い始めた頃に、アジア人の国が世界の巨人・白人帝国のロシアと戦いました。」

「このアジアの国はロシアを大敗させました。 そしてその国こそが、日本だったのです。」

「このニュースがインド全土に伝わると、興奮の波がインド全土を覆いました。」

「インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦、 日本海海戦の勇壮な話が、沸き立っていました。」

「インドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を素直に慕いました。」

「親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしましたが、できませんでした。」

「その代わりに市場から日本製の品物を買ってきて、 家に飾りました。」




ボースは「日本はアジアの希望の光です。」とハッキリ語っています。

ボースはこう続けます。「このたび日本はインドの仇敵のイギリスに宣戦しました。」



「日本はインド人に、独立のための千載一遇の機会を与えてくれました。
われわれはそのことを自覚し、心から日本に感謝しています。」

「ひと度この機会を逃せば、今後100年以上にわたりこのような機会が訪れることはないでしょう。」

「勝利はわれわれのものであり、インドが念願の独立を果たすと確信しています。」



重要なのは、言葉より行動でした。
ビクトリア女王が「インド帝国」皇帝に即位して66年目にあたる1943年10月、自由インド仮政府が樹立されました。

シンガポールでの大会で、ボースは満場の拍手をもって、仮政府首班に推挙されました。



ボースは「チャロ・デリー」 つまり「デリーへ!」と、 進撃を宣言し、人々はその メッセージを掲げて行進 しました。



祖国インドへ向けた歴史的な進撃の開始でした。

インド国民軍INAの将兵は日本軍とともに、インド・ビルマ国境を越え、インパールを目指し「チャロ・デ リー!」と雄叫びをあげ、進撃しました。



「われらの国旗を、レッド・フォートに掲げよ」そう言ってボースは将兵たちを激励しました。

自由インド仮政府は、日本とともに、イギリス、アメリカに対して宣戦布告をしました。

同年(1943年)11月5日より6日間にわたって、東京で大東亜会議が開催されました。

これは人類の長い歴史において「有色人種によって行われた最初のサミット」となりました。

東條首相、満州国の張景恵国務総理、中国南京政権の汪兆銘行政院長、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのピブン首相代理であるワイワイタヤコン殿下の首脳が一堂に会し、ボースはインド代表を務めました。

今日、日本の多くの学者が大東亜会議は日本軍部が「占領地の傀儡」を集めて行った国内向け宣伝だったと唱えています。

dangerしかし、そのようなことを言う日本人こそ、日本の魂を売る外国の傀儡というべきです。

会議では大東亜共同宣言が満場一致で採択されました。

ボースは「この宣言がアジア諸国民のみならず、全世界の被抑圧民族のための憲章としようではないか」と訴えました。

ボースは、日本は「全世界の有色民族の希望の光だ」と宣言しました。

この500年の世界史は、白人の欧米キリスト教諸国が、有色民族の国々を植民地支配した壮大なドラマでした。

そのなかにあって、日本は前例のない国でした。
第一次世界大戦の後のパリ講和会議で、日本は人種差別の撤廃を提案したのです。

会議では各国首脳が、国際連盟の創設を含めた大戦後の国際体制づくりについて協議しました。

人種差別撤廃提案が提出されると、白豪主義のオーストラリアのヒューズ首相は、「署名を拒否して帰国する」と言って退室しました。

議長であるアメリカのウィルソン大統領は「本件は平静に 取り扱うべき問題だ」と、日本に提案の撤回を求めました。

日本で外務大臣も務めた日本代表団の牧野伸顕男爵は、ウィルソン議長に従わず採決を求めました。

イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアなどが反対しましたが、出席16カ国中11カ国の小国が 賛成し、圧倒的多数で可決されました。

あろうことかウィルソン大統領は「全会一致でない」として、この採決を無効としました。

牧野は多数決採択を求めましたが、議長のウィルソン大統領は「本件のごとき重大な案件は従来から全会一致、少なくとも反対者なきによって議事を進める」と採択を無視したのでした。

人種差別撤廃提案が11対5の圧倒的多数で可決したにもかかわらず、ウィルソン大統領はこの議決を葬ったのです。

今日の文明世界ではありえないことです。いまアメリカの大統領は黒人ですが、そのようなことは当時は全く考えら れないことでした。

日本人も白人ではなく有色民族です。
同じ有色民族として誇りある日本人は白人の植民地支配を看過することができ なかったのです。





引用以上



日本と欧米諸国どちらの方に理があるのでしょうか?力づくで、他の国の人々を奴隷にする、どこに道理があると言えますか?日本の戦争目的が、世界から植民地主義の廃止にあるとすれば、日本は戦争の目的を果たしたと言えるでしょう。



昭和元禄落語心中♯11を見ながら






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