#534: 吟遊詩人逝く

2013-06-02 | Weblog
先月(23日)ジョルジュ・ムスタキの訃報が届いた。
享年79歳だった。

1934年、政情不安定だった母国からエジプトに亡命していたギリシャ系ユダヤ人の両親の元にアレキサンドリアで生まれたという。
父親は書店を経営していて比較的裕福な家庭だったことから、フランス系の学校に通ったが、民族間の差別などのトラブルがあって、17歳の彼は学校が嫌になり、嫁いでいた姉を頼ってパリに出る。
これが、後年コスモポリタンとして自らを「地中海人」(Mediteraneen)とみなすようになる第一歩となった。

1957年にムスタキは友人を介して当時40歳を過ぎていたエディット・ピアフと出会い、やがて彼女のために曲を書くようになり、ピアフのアメリカ公演にもギタリストとして同行している。
1959年に、彼の作詞した“Milord”(ミロール)は、マルグリット・モノの書いた軽快なメロディーと、ピアフの見事な歌唱力で大ヒットし、ムスタキの名は一気に広まった。
ミロール(Milord)というのは、英語の“My Lord”をフランス語風に言い換えたもので、男性に向って「だんな」というくらいの呼びかけの言葉である。
ムスタキが書いた詞は、その「だんな」に呼びかける売春婦の歌であった。

おいでよ だんな 寄っていきなよ 外は寒いだろ
ここは暖かいよ 気楽に だんな くつろいでいきなよ
抱いてあげるから 好きにさせてあげるから
あたしのことは 知らないだろうけど
あたしは あんたを よく知っているんだよ…

ピアフはこの歌を陽気にシャレっ気タップリに歌い、彼女の不滅の傑作のひとつとなっている。



私の孤独 / サラ / 17歳 / ポルトガル / 僕の自由(Live) / 太陽と音楽の恋人 / もう遅すぎる / 二つの望み / サッコとヴァンゼッティ / 明日のタンゴ / フラメンコ / 悲しみの庭 / 異国の人 / ジョルジュの友達 / 愛のシャンソン / 傷心 / 内海にて / 若い郵便屋 / ヒロシマ / 3月の水 / 生きる時代 / おじいさん / 幼年時代 / 希望 【全24曲】

このアルバムは、ムスタキの“THE BEST...GEORGES MOUSTAKI”(邦題は「私の孤独、異国の人/ジョルジュ・ムスタキその愛、その詩」)というLP2枚組の日本盤である。
10年ほど前だったと思うが、確か神田神保町の三省堂本店で開催された「古レコード&CDセール」で見つけて保護したもの。
ジャケットの帯までついて、きわめて状態が良い美品だったので、とてもラッキーな買い物であった。
彼の主要なレパートリーがこれにほとんど収録されているのである。

ムスタキは1960年頃から自分でも歌い始めたが、本格的な歌手デビューは68年にピア・コロンボのために書いた“Le Meteque”(邦題「異国の人」)を自ら歌った69年からである。
「よそ者」「ガイジン」とでも訳すべきある種差別的なニュアンスのある言葉らしい。

僕の口はガイジンの口 ユダヤ人やギリシャ人の口
髪はぼさぼさ 眼は蒼くて夢見るように見えるけど
もう夢をみたりはしない 手は泥棒の手
ミュージシャンや浮浪者の手…

フランスではタブーともいうべき「ユダヤ人」という言葉を使い、ムスタキの自画像を描いている。
前年にパリで起きた五月革命(ゼネスト)の熱気の中で、自由を求める時代の要請によって、彼は広く表現者として世に認知されるようになった。

69年の“Le Temps De Vivre”(邦題「生きる時代」)では、「生きる時代をつかもう、自由になる時代を愛する人よ…おいで聞いてごらん、五月の壁の上で言葉が震えるのを、いつかすべてが変わるんだと、僕たちに確信を与えてくれる」と唄った。
五月革命の「すべてが可能で、すべてが許される」というスローガンを題材にしたのである。

その一方で、72年のブラジル訪問によって、伝統的なシャンソンだけではなく、サンバ、ボサノバ、フォルクローレなどのラテン音楽に触れ、その音楽観を一変させた。
アントニオ・カルロス・ジョビン作の「3月の水」(Agua De Marco)にフランス語の歌詞をつけて“Les Eaux De Mars”としてカヴァーするなど、その音楽的視野も一気に広がった。

政治の季節は終わったとされる70年代に入って、“En Mediteranee”(邦題「内海にて」)では、「アクロポリスの上で、空は喪に服し、スペインでは自由という言葉が口にされないが、人々は相変わらずアテネやバルセロナに憧れる」と、独裁政治が続いていたスペインやギリシャの民主化運動にメッセージを捧げた。
さらに、74年の“Portugal”では「理想なんて実現しないと思っている人々に、ポルトガルにはカーネーションが咲いたんだと言ってやってほしい」とヨーロッパで最も長期にわたって続いたポルトガルの独裁政権を倒した軍事クーデターによるカーネーション革命を祝福した。

また、同年、スペインの独裁者フランコ危篤のニュースが流れると、“Flamenco”という歌を作った。
「誰が最初に歌うだろう、自由のハーモニーを、だれがフラメンコを歌うだろう、フラメンコのないスペインで、その日はお祭り騒ぎになるだろう、僕はそこへ行ってフラメンコを聴きたい」と歌い、スペインとフランスの間の外交問題になるなど物議を醸した。

♪ ♪

ムスタキはプロテスト・シンガーとしての硬派の顔を持っていたが、声高な絶叫とは全く無縁の淡々と語りかけるように歌った、アコースティック・ギター1本抱えながら。
“Hiroshima”(ヒロシマ)という曲では、平和への祈りをこう歌っている。

鳩とオリーヴの枝により 囚人の苦悩により
何の役にも立たない子供により
多分 あしたには来るだろう

毎日の言葉で 愛の身振りで 怖れと飢餓で
多分 あしたには来るだろう

死んだ者すべてにより まだ生きてる者すべてにより
そして 生きようとする者たちにより
多分 あしたには来るだろう

弱い者と強い者で
意見の合った者たちすべてで
わずかの人数かも知れないけれど
多分 あしたには来るだろう

踏みにじられた夢のすべてにより
見捨てられた希望により
ヒロシマからもう少し遠くに
多分 あしたには来るだろう

平和(La Paix)が

しかし、何と言ってもムスタキといえば、74年テレビドラマの主題歌ともなってヒットした“Ma Solitude”(邦題「私の孤独」)であろう。

しばしば孤独とともに 眠ったものだから
孤独というものをほとんど友達のように感じていた
孤独は影のように忠実で 私から離れようとしない
世界のすみずみまで つきまとう 
私は決して一人じゃない 私の孤独と一緒だから…

「私は決して一人じゃない、私の孤独と一緒だから」というレトリックは何やら哲学的で、精悍な顔立ちを隠すもじゃもじゃの髪とひげだらけの風貌と相俟って、古代ギリシャの哲学者か、悟りを開いた仙人の風格である。
彼が「現代の吟遊詩人」と呼ばれたのはそんなところからも来ているのだろう。

今夜は彼の冥福を祈って、彼の歌声を聴きながら、「私の孤独」をかみしめることにしよう。

♪ ♪ ♪

雑踏の中で感じている孤独 (蚤助)

それにしても、シャンソンとかカンツォーネのアルバムは日本のレコード会社は出さないね。
ムスタキのアルバムもほとんど見かけない。
もっとも、今の日本ではそんな音楽は売れるような環境でないのが残念である、ホント。


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4 コメント

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なっつかしいですね。 (蝉坊)
2013-06-02 16:03:29
もう40年ぐらいになりますか?
学生自分にもらってきたモノクロテレビにかじりついて毎週視ました「バラ色の人生」。仁科明子さんと寺尾聡さん。
仁科さんはアイドルでした。今からすれば何という変わりよう。
かくいうこちらも還暦すぎて薄汚れてきましたね。
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私の孤独 (蚤助)
2013-06-02 23:12:10
「バラ色の人生」というテレビドラマが放送されていたころは、貧乏学生だったので、あまりテレビなど観る余裕はありませんでした。
ほとんど私の記憶から飛んでいるドラマですが、なぜか「私の孤独」だけはよく耳にしていました。
もっと昔のテレビはよく覚えているのに、なぜかこのドラマはあまり記憶にはないのです。
不思議だなあ(笑)。
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私の孤独 (伊閣蝶)
2013-06-04 23:02:45
ムスタキさんが亡くなったことを、蚤助さんのこの記事で知り、やはりショックでした。
「私の孤独」、私もドラマの方の記憶はほとんどありませんが、この曲は耳にする機会が多く、仏語は全く分からないのに、口ずさんでいたことを思い出します。
もう一つ、「ヒロシマ」の方は、今でも歌声喫茶などで歌い継がれていますね。
この曲も忘れがたいものがありました。
心よりご冥福をお祈り致します。
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Ma Solitude (蚤助)
2013-06-05 11:07:33
“Non, Je ne suis jamais seul avec ma solitude”(いや、私は決して一人じゃない、私の孤独と一緒だから)というのは、とても印象的なフレーズでした。
若くして亡くなった大塚博堂とか、「青葉城恋唄」のさとう宗幸が、ムスタキのファンで、彼の歌を日本語で歌っていたことなどを思い出します。

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