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モダンアートはCIAの武器だった

2011-09-17 00:19:56 | 情報

青森県、あるいは全国の美術部の皆さん、こんにちは。もう秋が到来し、三年生は受験準備が現実的になってきた頃だと思います。

美術界のある側面を紹介してこうと思います。社会に出ると、極めて複雑怪奇な出来事に直面することもあるでしょう。もしその不条理な世の中を理解する上で、なんらかの一助になればと思います。

 前回のブログで紹介した、欧米美術界における具象美術の圧殺という事態はなぜ発生したのか? ロバート ウィリアムズは明らかにしていませんが、元CIA職員が実名で明らかにしていることは、アメリカ現代美術の基盤を作った組織がCIA自身であったということです。抽象表現主義とCIAの関係は広く知られたものであり、抽象芸術が圧倒的にサポートされた結果、具象的リアリズムが危機に瀕したのは当然の理屈です。下に紹介する記事は米ソの冷戦時代における文化プロパガンダの実体の片鱗を伺わせるものですが、この記事にも書いていないことは、冷戦終了後のCIAの方針についてです。果たしてアメリカ政府の工作実行機関 CIAは今でもアート界で活動しているのでしょうか?それは機密文書が公開される数十年後に再び明らかにされるのかも知れません。

                 坂本




イギリスのニュースサイト The Independent における1995年10月22日の記事より引用
 http://www.independent.co.uk/news/world/modern-art-was-cia-weapon-1578808.html 
・モダンアートはCIAの武器であった 
Revealed: how the spy agency used unwitting artists such as Pollock and de Kooning in a cultural Cold War 

Frances Stonor Saunders 

数十年間、芸術界においては噂かジョークでしかなかったが、事実として確認されたことがある。アメリカ中央情報局=CIAは、ジャクソン ポロックやロバート マザウェル、あるいはウィリアム デクーニング、マーク ロスコといった芸術家によるモダンアートを冷戦時代に兵器として使用した。ルネッサンス時代の君主のように、しかしそれは秘密裏であったが、CIAは20年間に渡ってアメリカ抽象表現主義絵画を育成し世界中に広めていたのである。 

 この関係性はありえないようにも見える。それは大多数のアメリカ人がモダンアートを嫌い軽蔑していた50年代と60年代における時期のことだからである。 トルーマン大統領は当時の一般的な見方をこういう表現で要約している。「これをアートと呼ぶなら、自分はホッテントッドだ、と言うのと同じだ。」 
 芸術家達に関して言えば、彼らの多くは元左翼であり、マッカーシズムによる赤狩時代、かろうじてアメリカに受け入れられたに過ぎず、そして普通にはアメリカ政府の援助を得られそうもない人々だったことは間違いない。 


 何故CIAは彼らを援助したのか? なぜならソ連とのプロパガンダ戦争において、この新しい芸術運動はアメリカの創造性や知的自由といった文化的力の証明になるとされたからである。ロシア美術は共産主義のイデオロギーの制服によって縛られ、太刀打ちできなかった。 

 この方針の存在は何年にも渡って噂され議論されてきたのだが、現在、元CIA当局者によって初めて確認された。芸術家達には知られないまま新しいアメリカ美術はlong leash「ロング リーシュ」として知られる長い手綱によって密かに援助されていた。その計画は Stephen Spender が編集を務め、同じくCIAが援助した Encounterジャーナルのケースと似たところがある。 

 冷戦のため、アメリカの兵器庫の中に文化とアートを含める決断は1947年CIAが設立されてまもなく採用された。いまだ多くの西洋の知識人や芸術家たちから共産主義の影響力は恐れられており、そこで新たな諜報機関が設置された。それはPropaganda Assets Inventory=貴重品一覧表宣伝機関といったもので、ピーク時には800を超える新聞、雑誌、公的情報機関に影響を与えることが可能であった。彼らはジョークでそれをワーリッツァー・ジュークボックスのようだと言い合った。CIAがボタンを押すとそれはどのような曲でも思いどおりに調整して世界中に聞かせることが可能だったのである。 

 次に重要なステップがやってきて、1950年、International Organization Division(IOD)がTom Bradenの下に設立された。この部署はGeorge Orwellの「動物農園」のアニメ版を援助し、アメリカジャズミュージシャンやオペラリサイタル、あるいはボストン交響楽団の国際ツアーを支援した。そのエイジェント達は映画産業や出版会社に配置され、あるいは名高いフォーダーガイドのために紀行作家として活動することさえあった。そして今、判明したことによれば、それはまたアメリカのアナーキーなアヴァンギャルドムーブメント、抽象表現主義を支援していた。 

 初めのうちは、よりオープンな試みが新しいアメリカ美術を支援するために行われた。1947年に国の機関が企画し資金援助した「アメリカの前衛美術」という国際巡回展はソ連が指摘するところの「アメリカは文化的に砂漠である。」という批判に反論する目的もあった。しかし展覧会は国内においては怒りを買うことになった。それはトルーマンのホッテントット発言を引き出し、あるいはある辛口の国会議員にこう言わしめた。「俺はこのゴミ屑の類いに税金を払っているただの馬鹿なアメリカ人だ。」 
巡回展はキャンセルせざるをえなかった 

 アメリカ政府はついにジレンマに直面した。この俗物主義はMcCarthyのヒステリックな前衛美術に対する批判とあいまって甚だ気まずい状況をもたらした。アメリカは洗練された文化的に豊かな国であるという考え方を台無しにするものであった。 あるいはまた1930年代以降固まりつつあったパリからニューヨークへの文化的優位性の移動というアメリカ政府の方針を妨害するものであった。ジレンマの解決のためにCIAが動員された。 

 この関係は見た目よりもそれほど奇妙なものではない。当時、その新たな諜報機関はおもにイェールやハーバードの卒業生が配置され、彼らの多くは余暇を使って美術品をコレクションしたり小説を書いたりしていた。それはMcCarthy やJ Edgar HooverのFBIに支配されていた政治的世界と比べると自由主義の避難所であったのである。ニューヨーク・スクールを作ったレーニン、トロツキー主義者の飲んだくれ達を賛美すべき立場の公的機関があったとするなら、それは結局CIAであった。 

 今までこの関係を証明する直接的な証拠は無かった。しかし初めてかつての当局者のDonald Jamesonが沈黙を破った。はい。と彼は言った。諜報機関は抽象表現主義をある機会と看做していた。そしてそれに着手したのだと。 

「抽象表現主義に関しては、私としてはこういうふうに言ってみたいのですが、つまり、CIAはニューヨークやソーホーで何が未来に起こるのかを見るために、それを発明したのだ!と。」彼はジョークを言った。 
「しかし、私達が実際にやったことは違いの認識のためだったのだと思います。つまり抽象表現主義との比較によって社会主義リアリズムがさらに型にはまった閉鎖的なものだと認識させるためです。そしてこの関連性はいくつかの展覧会で利用されました。」 

「ある意味、私達の理解が支持されたのは、当時のモスクワは酷い状態で、強固な画一性のために、いかなる不従順も公に非難されていましたし、そのため、彼らがあれほど手荒く非難したものは何であれなんとかして適切正確に支援する価値があったのです。」 

アメリカの左翼アヴァンギャルド達のための収入源を探したもののCIAはパトロンが見つからないことを確認せざるを得なかった。 
「こういった事柄に関しては、二つか三つの間隔距離をおいてなされなければならないのです。」 Mr Jameaonは説明した。「それで、Jackson Pollockの身元や背景を明確にするための如何なる質問も無かっただろうし、例えば、彼らを組織の中に巻込きこむことはなかったでしょう。それから彼らは政府に対する尊重の念はほとんどありませんでしたし、接近はできないままでした。特にCIAに関してはなおさらでしょう。もしワシントンよりモスクワになんとかして近づきたい、と思う人物を利用するのなら、たぶんそっちのほうがはるかにうまくいったでしょうね。」 

これがロング リーシュというものだ。CIAのキャンペーンにおける重要拠点がCongress for Cultural Freedom 自由文化会議となった。知識人、作家、歴史学者、詩人、そして芸術家による広大な会合は1950年にCIAとそのエイジェントによって設立され運営された。それは西側においてモスクワとその同調者からの攻撃から文化を守るための足がかりとなった。そのピークにおいては35カ国に研究室をもち、2ダース以上の雑誌を出版し、それにはEncounterも含まれていた。 

自由文化会議は抽象表現主義の潜在的値打ちを高めるための理想的なフロントをCIAに提供することとなった。公的なスポンサーによる巡回展、雑誌が新しいアメリカ美術に好意的な批評家達にとって格好の場となった。そして芸術家も含め、そのことは誰も知ることはなかった。 

1950年代、組織はいくつかの抽象表現主義の展覧会を併合して行った。最も重要なものは「アメリカの新しい絵画」というものであった。それは1958~59にかけて全てのヨーロッパの重要都市を回るものであった。さらに影響力の強かった展覧会は「アメリカ合衆国のモダンアート」(1955)であり、「20世紀のマスターピース」(1952)であった。 

抽象表現主義が巡回展するには高予算が必要であった。億万長者や美術館は博打に参加した。そういった動きの中でもっとも有名なのがネルソン ロックフェラーである。彼の母親は他の協力とともにニューヨーク近代美術館を設立していた。「ママのミュージアム」とロックフェラーが呼ぶところの館長として彼は抽象表現主義の最大の支援者の一人であった。彼は抽象表現主義のことをフリー エンタープライズ ペインティングと呼んでいた。彼の美術館はほとんどの重要な展覧会の計画とキュレーションのために文化自由会議と契約を結んだ。 

 近代美術館はまた他のいくつかの関係においてCIAとリンクしていた。CBS放送の社長であるWilliam PaleyはCIAの創設者であり、美術館の国際的プログラムのための委員会のメンバーであった。委員長のJohn Hay Whitneyは戦時中の諜報機関であるOSSで働いていた人物である。そしてTom Bradenは1949年における美術館の高官でありCIAの国際機関部門International Organizations Divisionの最初の長官であった。 

 Mr Bradenは現在80代でありヴァージニアのウッドブリッジに住んでいる。家は抽象表現主義作品で覆われており、無数のシェパード犬で周囲をガードしている。彼はIODの目的について詳しく話してくれた。 

「我々はあらゆる人々、作家、音楽家、芸術家、を一つにまとめようとしたのです。何を書くべきか、何を言うべきか、何をすべきか、何を描くべきかを厳しく規制するソ連のような固い壁を無くし、アメリカを含めた西側が自由な表現と知的成果を追求しているということをデモンストレーションするためでした。それは諜報機関が持ったもので最も重要な機関だったと思います。そして、またそれが冷戦時代演じた役割は巨大だったのです。」 

彼の部門が秘密裏に活動していた理由はアヴァンギャルドに対する一般の反感があったためだと言った。 

「我々がやろうとしていたことのために相応しい委員会を得るのは大変難しかったのです。アートを広める、演奏会を広める、雑誌出版を広める。それが秘密活動にしなければならない理由でした。オープンさを押し進めるために我々の存在は秘密でなければならなかったのです。」 

 このことが今世紀におけるミケランジェロにとっての教皇の役割のようなものだとすることが、なおさら相応しい。 

「それは教皇、あるいは多くの資金を持つ誰かを要するものでした。芸術を認めさせ、支援するために。」とMr Braidenは言う。 

「数世紀たったのちに人々はこう言っています。見てご覧!システィーナ礼拝堂だ。歴史上もっとも美しいクリエイションだ! 文明はこうしたミケランジェロを支援したような金持ちや教皇の問題に曝されてきたといえるでしょう。しかし金持ちや教皇が居なかったら、私達が芸術を目にすることはなかったのです。」 

抽象表現主義はこういったパトロン無しにも戦後、有力なアートムーブメントであり続けたであろうか? 答えは恐らくイエスだろう。よって、抽象表現主義の絵を見る事がCIAに騙されることにつながるという考えは間違いであろう。 

大理石の銀行、空港、市のホール、会議室、重要なギャラリー、といったあらゆる場所に見ることができるこの芸術の結果を見るならば、冷戦の戦いがそれらを促進させたことで、それはある種の合い言葉、あるいは人々の文化とシステムの証票となった。彼らがあらゆるところに展示したことで影響力をもち。それらは成功の証となったのである。 

CIAと現代美術に関した話の全体は チャンネル4で今度の土曜日の午後8時から放送される。この番組の第一話は今夜映される。 Frances Stonor Saundersは冷戦時代の文化面に関して本を書いている。 

 1958年の巡回展「アメリカの新しい絵画」はパリで開かれ、ポロックやデクーニング、マザウェルを含んだその他の芸術家で構成されていた。テートギャラリーは次回、この展覧会をやることに強い興味をしめしたが、予算が無かった。遅い段階でアメリカの資産家で美術愛好家のJulius Fleischmannが金をもって乗り出し、そしてロンドンで展覧会は開催された。 

 Fleiscmanが提供した金は彼の懐からではなくCIAのものだった。それはFarfield ファーフィールド基金呼ばれる本体から引き出されたもので、Fleischmannはそこの会長だったのである。しかしなお資産家によるチャリティーを目的としたものであったにも関わらず、その基金はCIA財源のための秘密のパイプをもっていた。 

テートギャラリーや芸術家、あるいは一般には知られない形で、この展覧会のロンドンへの移動は冷戦時代の巧妙なプロパガンダによって得たアメリカの税収をもとに行われたのである。元CIAの Tom Bradenはいかにしてそのようなファーフィールド基金のパイプができたかを説明した。 

「誰かニューヨークにいる有名な金持ちのところへ行くとしますよね。それでこう言うわけです。基金を設立したいんです。と。それでこれから何をしようとしているのかを言って、秘密遵守を約束します。それで彼はこう言うでしょう。もちろん、やりましょう。と。そしてレターヘッドを公表してそこに彼の名前がのるわけです。極めてシンプルなやり方です。」 

 Julius Fleischmannはよくこの役割に就いた。彼はニューヨーク近代美術館の国際プログラムの委員会の席につき、CIAに近い幾人かの大立て者も関わっていたのである。

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