県南地区の美術部の行事でキリコ展を見に行った。ガルシア展からもうほぼ一年たったのか。早いですね。
さて、キリコ展の感想の前に言いたいことは、いくら写真で知っていたような気になっていても、現物を見ると感覚が変わるということはよくあるということだ。かつて感受性が敏感になっていた時期にピカソ展を見た。彼の絵には、お先真っ暗感が潜在していたことを知った。そもそも友人の死からピカソ芸術は出発しているわけだから。感受性は主観そのものあるから証明は不可能ではあるが。
キリコにあるものはなんなのだろうか。たしかに絵の具の染みや盛り上がり方やキャンバスの歪みなどからキリコ健在時期の時空をなんとなく想像することはできる。それらは二次元の幻ではなく三次元の臭いをもった世界だ。
色々作品を見たあげく、けっきょく「敗北感」という言葉が浮かんで定着してしまった。キリコ芸術の中にはなんらかの敗北のエッセンスがないだろうか。
例えば敗北的に倒れている柱が多い。対して垂直線が勝利として脅迫観念的である。垂直線の勝利と水平線の敗北。だから垂直の物体が地面に長い影を落とす構図こそはキリコの独創中の独創ではないかと思えた。垂直物体の謎があの影にはあるのではないか。
例えば東京都で脅迫的な垂直物体はスカイツリーだ。高ければ高いほど価値があると決めたのは誰なのか?岩手山より富士山が偉いのはけっきょく高さ故だろう。それはどことなく偏差値教育や数本位のギネスブックに似ている。
キリコ展に戻ると、去年のガルシア展と同じく、常設の松本竣介のほうが遥かに芸術の質が高いぞ。と思えた。
あの美術館で海外作家の特別展示を見たあとに、常設の松本竣介を見ると、「やっぱり、松本竣介のほうがはるかに凄いじゃないか。」と確認してしまうのだ。色彩の命、線の叫び、どれもこれもキリコより凄い。
キリコは松本竣介に敗北していたのか。意外とそうかもしれない。システムよりも人間の実存そのものに向かって松本俊介の絵は叫んでいますから。これは多くの美術部員が同意するところであろう。
キリコのおかしなところは上手く行った絵を再びなんども模写しているところだ。自分からしたら、阿呆じゃないかと思う。過去の自作を模写する暇があったら新しい絵を描いたほうがはるかにいいじゃないか。時間がもったいないよ!
このように、キリコには革新的なところはあるにしろ、まるでユダヤ教の律法学者のように同じ轍を踏み続けることをよしとする逃避的保守主義者の片鱗もあるのだ。それがあの敗北感と敗北臭のする絵に帰結しているのかもしれない。
学生時代にキリコの自伝を読んだことがある。テレポーテーションをする不思議な男であるとか、画家どうしのオリジナリティーをめぐる戦いとか、ダリの「天才日記」にも負けない反時代的著述に共感した思い出がある。なかなか面白い本でした。また再出版を希望します。
ちょっと話それましたが、垂直線と水平線の意味は非常に深い。左のキリコの垂直線を見たあとに右の松本竣介の垂直線を見てみてください。両者が同じ意味で垂直線を表現しているか否かを。水平線に関しても同様にやってみてください。両者がどのように世界観を扱っているかを。
ちょっとはっきり口に出せませんが、労働の感覚が関係している気がして来ました。
坂本 智史 談
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