大文字屋の憲ちゃん (当面は 石巻 地震) 

RIP 親父 けんちゃん 石巻 地震

20120801 川開き帰省 PART Ⅱ  to 石巻 地震ありましたが大文字系は無事(115)

2012-08-29 00:35:53 | 日記

2012年8月1日、帰省した。これはその記である。

8月1日AM7:00。快晴。

自宅周辺をジョギングするスタイルで出発。荷物は大きめのショルダーバッグ一つ。小田急線生田駅にてAM07:06発各駅停車新宿行に乗車。途中成城学園前駅で急行に乗り換え、7:36新宿着。JRみどりの窓口で石巻までの乗車券と新幹線特急券を買い求め、駅構内のドトールで一服後、中央線快速に乗り、東京駅で東北新幹線はやて17号(8:28発)に乗車。
10:20頃仙台着。今回もS-PAL地下で米八のおこわ弁当3つと、向かいの店で牛タン弁当1つ、東北海の幸山の幸弁当(正式名称忘れました)1つ、スポンジ状の抹茶生地で小豆餡を包んだドラ焼き的なお菓子2箱(店の名前忘れました)を購入。10:51発仙石線快速高城町行に乗車。松島海岸駅で代行バスに乗り換え(ほぼ満席、土産手荷物の多い私迷惑多大(汗)、矢本駅で再度仙石線車両に乗り換え、石巻着は13:00ちょうどぐらいであった。

石巻駅に着くと、ホームも駅前も祭らしい女性の浴衣姿が彩っていた。立町商店街の入口にさしかかると、パレードを終えたばかりの鼓笛隊のメンバーが三々五々、心地よい疲れに身をゆだねるように穀町方面に人の流れを作っていた。

私はいつものように中嶋外科を左に曲がり、質のマルシンの通りを寿町に抜けて、大文字屋に到着した。裏手から店に入ると、キクちゃんがいた。兄とエミちゃんは仙台方面に出ていて帰りが遅くなるとのこと。店の正面には出店が出ていて、茹でた枝豆や唐揚げ、飲みものを売っていた。これは店のお得意さんから頼まれて、場所を提供していたらしい。秀丸屋さんもお店を出していて忙しそうであった。 アイトピア通りではまだパレードの続きがあったので、獅子舞と神輿行列を動画撮影した。(後ほどup予定)

後で調べたら前者は「金華山 龍(蛇)踊り〔じゃおどり〕」、後者は「縄張神社みこし」であった。「縄張神社」は千石町(グランドホテル付近)にある小さな社で、川村孫兵衛が測量に使った縄が奉納された縁(ゆかり)が有るそうで、前日には祭りも執り行われている。

その後2階の仏壇で憲ちゃんに挨拶。お昼を食べていなかったので、土産の弁当を一つ食べ、菓子折の1つを持ち、焼き鳥小柳さんに向かった。

石中同窓生の平塚達也さんが津波で亡くなり、その御実家であるこちらにうかがったのがちょうど一年前の川開きである。お店を再開される話もあったのでそろそろかと思いうかがってみたのだ。お店の前から2階に向かって「こんにちはー」と声をかけると、「はい?」と返事があり、「ダイモンジヤですぅ」と呼ぶと、お母様の声で「アラァ!」と1階に下りて来られた。お土産をお渡しし、近況をうかがってお暇しようと思っていたが、いきなり「ウチのお父さん、亡くなったんだよ」、「え、…」、「あがらい」ということで2階に上がらせていただいた。(たまたま妹さんもいらしていたので、一緒にお話をさせていただいた。)

お父様は今年1月上旬に倒れられてそのまま入院、その後ICUで治療を続けた後、4月下旬に亡くなったのだそうだ。昨年訪ねた時には、大病後とはいえ、床に伏すこなく普通に生活され、2時間ほどお話もさせていただいたので、お元気かと思っていたのだが。意外だった。

お母様の話では、達也くんのことがかなり辛かったのではないか、毎日起きると仏壇に向かうが、戻ってくるといつも目が濡れていたという。お父様は私が小学校時代に見た印象でも男気のある人だったし、実際達也君が小学校高学年の時、弟さんをちょっといじめて泣かせると、お父様は達也君の元に歩み寄り黙って達也君の頬を平手打ちして壁に吹っ飛ばしたそうだ。しかし幼い頃から達也君のことは目に入れても痛くない可愛がりようで、子供服はいつもピッタリサイズを着せて連れ歩いたそうだ。お父様も老後を迎えられ達也君に期待するところ大であったろうから、いろいろな意味で落胆があったことは想像に難くない。そういうことがこの一年にあって、お母様としては店の再開は考えていないと言う。お話をうかがっていて「考えられないだろうな」と思った。仏壇には達也君の遺影とともにお父様のそれが並び、菩提寺である牧山の梅溪寺には墓も調い、今お父様は達也君と共にいるのである。「お父さん、達也と一緒に話でもしてんだべよ。」もし黄泉の国があるのであれば、あちらで達也君と楽しくやってくださいよと、お父様には言いたい気がした。

小柳さんを辞すると既に5時を回っていた。四釜商店で挨拶がてら晩酌用の日本酒を買い、帰りに立町通りを歩いてゆくと、まだパレードの一部が続いていた。何踊りというのか知らないが山笠音頭みたいな踊りの列に出くわしたので動画撮影(後で調べたら「はねこ踊り」というらしい。これも後ほどup予定)。

いったん大文字屋に戻り、キクちゃんと店の前で売っている唐揚げなどを買って食べる。今晩は売場を貸していることもあるので、キクちゃんは店に残ることにして、私は花火の動画撮影をしたいと思っていたので、これ幸いと川岸に向かった。

花火の打ち上げは昨年から中瀬で行われているが、これは2年前まで打ち上げ場所になっていた開北橋付近が震災後に仮設住宅の建設地になった関係であるらしい。中瀬も建物がだいぶなくなったことが花火打ち上げには好都合となったが、これはその理由を考えれば喜ぶべきことでは勿論なく、中瀬で打ち挙げられる花火には、川の恵みへの感謝だけでなく、鎮魂と復興の祈りも込められることになる。とまあ、堅苦しく言えばそういうことになるけれども、実際この花火大会を観ていて、子供たちが無邪気にその美しさや力強さに嘆声をあげるのが、いかにも川開きらしく、花火師たちの工夫や遊び心も含めて純粋に花火は楽しむものだとも思った。

花火は今年もきれいで迫力があった。中央1丁目佐藤整形外科さん前川岸から見たそれは、風向きから多少煙に遮られたが、ギャラリーが敢えて大きく拍手をすると、アナウンスも「皆様の温かい拍手が何よりでございます」と応え、心の通う花火大会でもあった。

花火大会は煙待ちで予定より10分以上長くなり、私が大文字屋に戻ったのは9時近くであった。店を閉め、キクちゃんとロンドン五輪を見ながらお弁当を食べ、私は四釜商店で買った墨廼江を飲んだ。(純米吟醸蔵の華、精米55%、AL16-17度)果実酒のような酸味と、苦味・辛味が複雑に絡み合ったこの蔵らしい味わいで、楽しめた。兄とエミちゃんが帰ったのは10時頃。私が床に就いたのは12時頃であろうか。

8月2日AM6:50。快晴。

慌てて起きた。実はこの日は朝7時に約束があったのだ。

この3月に古川在住の方から、長面(ながづら)の松原荘のチラシが出てきたので送りたい、住所を教えてほしいという問い合わせがメールであった。

長面は雄勝の北、北上川河口、追波湾に面した地。

こちら 

昨年の津波で壊滅的被害を受けた地区の一つである。松原荘はその海水浴場に面した三陸の海の幸が堪能できる民宿(といってもかなり大きい)であったが、津波の直撃を受けた。松原荘のご主人の息子さんが私の高校の一年後輩の同級生で、その縁で、ブログでご家族の安否情報を呼びかけたことがあった。古川(宮城県大崎市)の方はそれをご覧になったらしい。

その方の話では、お父様が釣りでよく松原荘を利用されていたそうで、そのチラシが荷物の中から出てきて、懐かしい、松原荘の方が健在であればお渡ししたい、とのことだった。

その後経緯があって、そのチラシを私が保管することになり、結局今回帰省する私がお渡しすることになった。できれば1日にお渡したいと思っていたが、連絡がままならず、また松原荘は民宿ではないがお店を再開されていたので、朝が早い。それでこの日私が朝7時にお宅にうかがって、手渡しすることになった。

何とか顔だけ洗って、お住まいまで走って辿り着くと、若いほうのご主人が出迎えてくれた。早速品物をお渡しし、簡単にいきさつを説明、近況をうかがい、仕事前で忙しかろうと思い早々に辞去した。

松原荘は現在は鹿又の渋谷商店の建物で料亭として営業しているそうである。おそらく→こちらかと思われる。

目下、民宿を再開するための準備を進めているが、市や国からの補助金が大企業優先のためか、なかなか認可されないとのこと。震災からの復旧のため設けられた「グループ化補助金」の問題点についても言及されていた。

※グループ化補助金 → 被災した中小企業の施設や設備の復旧を支援する補助金。中小企業がグループを組んで復興事業計画を作り、県の審査で「地域経済・雇用に重要な役割を果たす」などと認められれば、国が2分の1、県が4分の1を上限に補助する。
( 2012-01-19 朝日新聞 朝刊 宮城全県 2地方 )

成果
問題点

宿の再開までまだ時間がかかりそうだが、お店は営業されているということからか、ご主人の表情はたいへん明るく生気があった。一日も早い宿の再開を願うものである。

チラシを送って下さった方には、その後お渡しした旨の連絡を入れ、喜んでもらうことができた。なお、その方からは「おまけ」として「人魚印 北海の香り 磯納豆」なるものを一袋同封してもらっていたので、それは酒のアテにさせてもらった。たしかにクセのある味だが美味しかった。「地元の産物ですが、かなりマイナーば食べ物です」とメモにあった。因みに製造者は「株式会社 不二化学食品工場」(宮城県大崎市古川北町)である。

 

さて、早起きは三文の徳である。時間があるので、南浜町の称法寺に行ってみることに。花も線香も用意していなかったので、墓の草取りでもするつもりで向かったのである。

住吉公園のあたりから、橋通り、門脇を通って、称法寺へ。行く先々で建物の解体が進み更地が多くなっているが、その反面、小さな工事は業者不足で進まず、本来なら修繕・再建されるべき建物も壊れたまま放置されるケースもあるようで、なかなか複雑な様相を呈している。

この日も夏らしくよく晴れていた。北上川岸から牧山方向を望むと、うっすら朝靄がかかってなかなか良い眺めだった。

寺に着いて墓の方に向かうと、さて、場所が分からない。4月の帰省では場所がようやく分かったと喜んでいたのにどうしたことか。原因は「草」である。草といっても1mに達せんとする立木のような草があちこちに屹立していて先が見えない。何とかそれを掻き分け掻き分けして、ようやく墓を発見したがそこも同様の草が蔓延(はびこ)っている。そういうわけで、小一時間ほど草取りをして、何とか墓が見えるようになった。それにしても、こういう草は少なくとも私が子供時代にはこの辺に生えていなかった。少なくとも生えているのを見たことはなかった。実は最近石巻のようすを伝えたブログの写真などに、この背の高い草がしばしば映っている。震災後にどこかから種子が飛ばされてきて大量発生でもしているのだろうか。

草取り墓参を終えて、日和山に登り、公園のアヒルを見て9時過ぎに大文字屋に戻る。エミちゃんが作っておいてくれたご飯とみそ汁を美味しくいただき、市役所で用達をして帰るだけとなった。市役所での用は少し面倒だったがなんとか片付け、キクちゃん兄、エミちゃんに挨拶して帰宅の途に。駅横の喫茶店で金華サイダーなるものを飲み、石巻線に乗る。

帰途といっても、この日は温泉に一泊する予定を立てていた。場所は中山平温泉。駅でいうなら鳴子の一つ先である。赤坂憲雄氏の「東北学」で古の東北における「木地屋の漂白」に関心をもったのと、私自身10年以上前に秘湯巡りをしていて、その後すっかりご無沙汰していたので、久しぶりに行ってみようというものであった。(宮城には行きたいと思っていたランプの宿があったが、水害で水没、廃業してしまった。)

石巻から中山平温泉には、石巻線で小牛田へ行き、小牛田から陸羽東線で鳴子温泉駅、その次が中山平温泉駅である。ところで、この日は石巻を昼過ぎに出る形になったが、普通に乗り換えると小牛田で1時間、また、陸羽東線が新庄行と鳴子温泉止まりとがあって、この日の接続で行くと鳴子温泉駅でまた1時間待ちになるようだった。これはたまらんと、もう少し調べると、小牛田から古川まで行く列車があるのでそれで古川まで行き、列車待ちをすることに。新幹線停車駅だから、売店の一つぐらいあるだろうと。また、宿からは送迎が中山平温泉駅と鳴子温泉駅の両方に出ているので、鳴子温泉駅に来てもらうことに。これはどちらも正解で、古川駅は店がいろいろ待ち時間を過ごすのが楽であったし、宿の送迎も途中で鳴子渓谷に寄りその奇観を楽しむことができた。(落石事故が相次いで下の遊歩道はここ数年運営中止のまま、もったいないと宿の人は残念がっていた。)

 

泊まった宿は「琢秀(たくひで)」。眺めの良い露天風呂が複数あり、泉質は何時間でも入っていられるような穏やかな湯。変に観光地化していない静かな良宿であった。(翌日に帰りの新幹線車中でトランヴェールを見ていたら、秘湯・名湯として大きく紹介されていた。)すべての風呂に入るのに深夜までかけて6回ほど入浴した。それでもあまり疲れなかった。まあ、温泉に行って疲れても仕方ないのだが。

 

8月3日AM7:00

翌日は宿の勧めでコケシ工房を訪ねる予定だったが、たまたまお休みだったので、鳴子駅前を散策し、早稲田大学の学生と教授で作ったという早稲田桟敷湯という共同浴場に立ち寄った(時間がなく入浴しなかったが)。古川12:06発やまびこ54号、仙台12:26発はやて22号に乗り換え(この特急券は1枚でまとめて買える)、そうしてこの日は15:30、おとなしく帰宅。温泉での一泊もあり随分とリフレッシュできた帰省であった。

 

付記1

陸羽東線の停車駅ではSUICAやPASMOが使えない駅がある。石巻からPASMOを使って鳴子温泉駅で降りた私はまずその場で現金精算し、精算書を受け取る。PASMOには精算履歴が記録されないので、次に最初に降りたPASUMO利用可能駅で、精算書を提示し、カードに記録してもらうということになる。

付記2

鳴子、中山平温泉はどちらも暑かった。夕方5時で30°超であった。宿の人によると「ここは気候的には山形と似てますからね」とのこと。うーん、私の避暑の目的はアテが外れたのである。

付記3

今回はじめて気づきましたが、石巻線には冷房がなく、扇風機だけです(当然みなさん窓全開)。私は昭和中期かと面白がって乗ってましたが、暑さに弱い人は避けた方がよいかもしれません。

 

(了)

 


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