大文字屋の憲ちゃん (当面は 石巻 地震) 

RIP 親父 けんちゃん 石巻 地震

GWの帰省 to 石巻 地震がありましたが大文字系は無事です。(97)

2011-06-01 12:00:32 | 日記
5月2日から4日かけて石巻に行っていた。

5月1日

21:00。相変わらず「これから被災地行ってきます」スタイルで家を出る。小田急線で新宿に22:00到着。23:30発の夜行バスに乗るため新宿住友ビルのチェックイン場所に行くと(今回も前回と同じバス会社だった)、50mほどの列ができていた。ビル内の床に坐りこんで出発待ちする人も多い。驚いた。

考えてみればGWで、メディアでもボランティアラッシュなるものが予測されていたので、当然といえば当然なのだが、この時は東北新幹線の東京-仙台が復旧していたので、夜行バスがそれほど混むことはあるまいと高をくくっていた。私自身は大地震からの復旧直後の新幹線運行に少なからぬ不安を感じていたので、また実際何度かストップしていたので今回もバス利用した。

チェックインスペースにある開放PCを待ち時間に使ってみた。ネットは使えるが通信量の大きいサイトは使えぬ設定になっていた。メールや文字中心のブログ、ニュースサイトぐらいは見られる。自分のブログの更新をしようとしたらエラーが出た。

夜行バスにも慣れ、特に問題なく乗車。定刻発車。満員。佐野PAと安達太良PAでの休憩をはさみ、2日5:30頃仙台に到着。

今回は一匹狼ボランティア平塚号ではなくミヤコーバスで石巻を目指す。6:55に発車。道は混雑が予想されたが、さしたる渋滞もなく40分程で三陸道を通りぬける。ところが、石巻市内に入ってからが渋滞で、蛇田付近から石巻駅前まで約1時間かかり結局8:30過ぎに石巻駅到着。

この日は朝からよく晴れていた。

駅は1か月前は閉鎖されていたが、この日は石巻-仙台の代替バスが運行されていた関係もあって駅舎は開放され定期も購入できるようになっていた。

駅前にはバスが頻繁に発着し、人の通りも多かった。市役所に寄って覗いてみると、1Fでは罹災証明書の受取のために早くから人が立ち並んでいた。順番待ちに長時間かかるのだろう、あらかじめ整理券と椅子が用意されていて、みんなそこで順番を待っていた。

駅前の通りには石川県や鹿児島県の被災地支援ボランティアのユニフォームを着た方が見受けられた。

魚民あたりで重機を使った道路工事が行われていた。駅前の道路全体が、以前よりも泥や瓦礫はなくなってきれいになった印象を受けた。ただ地震によってできたと思われる道の段差はまだほとんど手つかずであった。

店を再開しているところは少ないようだが、「5月×日より再開」とか「再開準備中」という貼り紙がちらほら見られた。

駅前付近をさっと歩いた後、鈴木くんのお宅に向かう。

実は今回の帰省前に実家に連絡したところ、大文字屋は5月1日と2日は丸森に行く予定で、帰りが何時になるかわからないとのことなので、とりあえず鰐陵(石巻高校)柔道部の鈴木くんのお宅に夕方ぐらいまで御厄介になることにしていたのである。

鈴木くんは震災後はじめての帰省で1週間ほど滞在とのこと。鈴木くん自身、今回の震災で肉親を亡くされ、お仕事でも取引先の会社が複数被災するなど、心労とその対応で極めてキツイ状況にあったようだ。ようやく時間がとれてんも帰省である。また今回の震災の避難所である湊小学校に無償で入浴施設を提供している「グリーンエナジー」さんの社長さんと旧知で、こちらの来石に備えることもあっての帰省である。鈴木くんによるとグリーンエナジーさんは「バイオ技術でダイオキシンとCO2を出さずに廃棄物を燃焼させるすぐれもの焼却システム」を開発されており、湊小の入浴施設もそれを利用したもの。瓦礫処理と燃料調達の一石二鳥システムである。

→ グリーンエナジーさん

電話で鈴木くんの在宅を確認、鈴木くん宅に9時半頃到着。まずはこちらのお宅の被害状況をうかがった。幸いなことに大きな被害はなかったそうだ。何でも亡くなったお父様が、建てる際に土台を1mほど高くしたそうで、それも津波を考慮してのことで、「この辺りでうちに水が上がるとしたら、ほかもだめだろう」というぐらい念の入った備えだったようだ。

鈴木くんは4月28日に帰省してから、湊をふくめてあちこち歩いたそう。日和山に行ったら鰐陵Tシャツを来た女子高生が部活の練習で来ているのを見かけ、「お、おめら鰐陵が。おら〇回生だど。」と声をかけると、「キャー、先輩よろしくお願いします」と言われたとか言われないとか、「おー、がんばれよ」と言ったとか言わないとか。なるほど隔世の感の出会いである。

湊は満潮になると道路が冠水するので危ないとも。そのため湿気も去らず、匂いもあると。まあ石巻はもともと魚の匂いがする町なので、今はむしろ少ないんじゃないかと言うと鈴木くんは笑っていた。

そのあたりの話をしていると、「グランドホテルで鯨肉の炊き出しがあるので行きましょう」というので行ってみることにした。

グランドホテルは4月初めの段階で6月頃の再開を目指しているとのことだったが、この時点では7月再開が目途になっているというこだった。

11:00過ぎのグランドホテル前にはすでにかなり(200人超)の人が集まり、整理券が配られていた。私は食べるつもりはなかったが、整理券を渡されそうになったので辞退。私としては「炊き出しをおれらが食ったらまずいだろ。だいたいこれだけ並んでるんだから食べるまでに1時間ぐらい待つし」ということだが、鯨肉炊き出し食べてみたいという気持ちはちょっとはあった。

この炊き出しは大興水産㈱さんによるもので、アイスランドのナガス鯨の竜田揚げ丼。会場には「応援物資」の無料配布も行われていた(カセットコンロ用ガスボンベ、衣料品など)。

→ 鯨肉の炊き出し

→ 応援物資無料配布 

グランドホテルから市内を散策してみた。サルコヤ前の観慶丸はガラスが破れたままで、あまり様子は変わっていなかった。アイトピア通りや橋通りや広小路ではガス工事が行われていた。弘前ガスなんていう車も見られた。広小路の小柳町寄りの野良ネコは衰弱が進んでいた。他の野良にだいぶ痛めつけれているようだ。道には少なくなったとはいえまだ泥や瓦礫が残っていた。商店も復旧のための工事を行っているところはほとんどなく、まだ片づけが一段落して、そろそろ清掃に入ろうかというところが多いようだ。

京屋さんの横にセブンイレブンの移動販売車が営業していた。なにせあの辺りは商店がない状態なので、住民はもちろんボランティアの方も重宝するのではないか。後で恵美ちゃんに聞いたところでは、2月頃に釜港付近に開店したばかりのところにいきなりこの震災で営業不能になったため、そのスタッフが急遽こちらで稼働とのこと。

一旦鈴木邸に戻ろうとした道すがら、営業している店を見かけたのでランチすることに。「鳴海」やさんという。

>「鳴海」やさん

外からは狭苦しい飲み屋さんに見えたが、入ると中はゆったり座れ、掃除も行き届き、活気ある店だった。やきとり丼も500円としてはなかなかボリーミー(そんな日本語あるか?)で味も良い。ボランティアの人もかなり利用していた。また行きたいと思える感じの良い店だった。



*    *    *    *



腹ごしらえができたので、午後は本格的に撮影することに。

再び橋通りから門脇方面に向かう。春潮楼前のあの船は既にというかようやく撤去されていた。内海橋の入り口脇の漁船は解体中。(翌日には撤去完了。)

川沿いの中央町から門脇町に向かう通りは、まだ大きな漁船が道を塞ぎ通行止めなので、一旦広小路に入り、浜町さん付近を撮る。

滝川さんは、建物内から流し台やら冷蔵庫やらを搬出・清掃している。

門脇1丁目~2丁目付近は、一か月前は漁船や瓦礫が道を塞ぎ一目で通れないのが分かったが、この日はそれらが撤去されていた。それでも通行止め表示が出ていたが、人は通れるようなので直進すると、前回見られなかった被災の状況を見ることができた。門脇2丁目に抜ける道は一応車が通れるように瓦礫が撤去されていた。

重機作業中でそこから先へ進めなかったので、一旦通行止め表示の場所まで引き返してから、川沿いへ出た。前回の撮影の際、ズームをもっと活用すべしと反省していたので、湊方面中心にズームを使って撮影した。そうして門脇2丁目に出た。1か月前との比較である。

4月2日 → 5月2日

ようやく門脇から中央方面への通りがよくなった。西光寺と称法寺に向かう。どちらも瓦礫の撤去は進んでいた。

〇西光寺 4月1日 → 5月2日

〇称法寺 4月1日 → 5月2日

称法寺の本堂は傷みが激しいようだが、補強材が入れられていた。新築ではなく補修して使うということだろうか。昔の木造建築の技術は凄まじいものがあるが、法隆寺ほどではないにしても、元からあるものが残っている限り生かす方向なのだろう。

宮大工は、樹齢数千年の木を、育成状況から建てた後の変形の具合まで予測して適材を適所に使い、細部も傷み具合を計算に入れて設計する。解体修理した際も、使える材は再利用する。だからすべての部材について記録している。樹齢の分だけ木を材として生かすというのが基本理念だ。

宮大工の技術については『木のいのち 木のこころ 天』(西岡常一著、塩野米松・聞き書き、草思社)にくわしい。現在は新潮文庫から「天・地・人」全巻収めたものが出ているようだ。

称法寺の墓地は1か月前とほぼ変わらぬ状況だった。まだ墓石と瓦礫が散乱し、墓の位置が確認できない。

称法寺から日和山方向に目を向けると、階段脇のテニスコートでテニスをしている人たちがいた。少しほっとした。

この日は称法寺から、なぜか門脇小学校の方に足を延ばした。おそらく、その付近に鯉のぼりがあって、それが目に入って、そちらに足が向いたらしい。

門脇小学校は津波のあった日に全焼し、写真も度々目にしていたが、実際に目で見ると、何とも言えない感じがした。それと周囲に山積・散乱した錆びて赤茶色になった自動車の残骸。

雲雀野海岸方向に目を向けると、瓦礫を整理をしている大型重機と、瓦礫の「壁」が二階建ての住宅の屋根ほどの高さで海沿いに続いているのが見えた。



この時はじめて、今まで見てきた門脇の被災状況がほんの一部でしかないことを実感した。そして今回の震災被害の全体の大きさを思った。石巻だけでもこれだけの被害があり、しかも、こういう地域は同じ石巻だけでも湊や渡波、釜港をはじめとしてまだまだある。そうして東北・関東全体を考えると、まさしく気の遠くなる規模だ。(関東は千葉あたりでもかなり被害を受けているのにあまり目を向けられていない地域がある。)

そういうことを思っていると、カメラのバッテリーが切れた。実はこの時スペアを持ってくるのを忘れていたので、この日は一旦撮影を強制終了で鈴木邸へ戻ることに。(ゆえに上の写真①②③は翌日3日に撮ったもの。)

15:00頃に日和山に登り、さとう商店のいしのまき焼きそばを食べようとしたが売り切れ閉店であったので、金兵衛茶屋で石巻焼きそばを食べた。食べていると店に「すいません、NHKの者ですが、先日の鶴瓶さんのロケのことでお聞きしたいことがあるのですが…」という男性が入ってきた。どうも鶴瓶がNHKの番組でアポ無しで来たらしく、その時のことや店のことをいろいろ訊いているのである。店の歴史や震災後ほどなく営業再開した際のエピソードなど、店主も現れて話していた。

この時「放送は一応23日の予定ですが、延期になる場合もありますのではっきり決まっていません。」と言うのを聞いていたが、私自身はすっかり忘れていて、5月23日の放送は見逃してしまった。昨日30日のは見た。司会の女性がボロ泣きして番組最後の閉めができず、鶴瓶さんとさださんが二人でフォローしてましたね。番組冒頭には恵美ちゃんが大文字屋の店の前でヒデマルヤさんご夫婦と泥かきしているシーンが映ってましたし、見どころ満載でした。

NHKの人が店を去った後の、店の人の話によると(若い女性店員さん)「カメラで知らないうちに撮られて、いつのまにかテレビに映っている」ことがかなりあるそうで、ぼやいているのか自慢なのかよく分からなかったが、とにかくメディアはよく来ているようだ。

店内ではいつのまにか客が私一人になり、それを差し置いてお店の人同士でいろんな話題が出て、川開き開催についてもいろいろあったらしく、どこかの会議で開催しない方向の意見も出たとのこと。理由は専ら近隣市町村に配慮した「自粛」で、そういう説に傾いた部分を批判されてもおりました。

まあ、それはともかく石巻焼きそばを味わって、鈴木邸に17:00頃帰還。その頃すでに坂本くんとも連絡がとれていて、18:00より会食することに。場所は立町のDOUGHというお店である。

→ DOUGH

坂本くんは職場の石巻中央公民館が避難所になっているためそちらの対応を行っている。避難所だよりを作成するなど被災者の生活のため心を砕いておられることは、河北新報などでも紹介された通りである。避難所管理のため2勤1休(一日目に通常勤務した後、そのまま避難所に泊まり込み、翌日そのままもう一勤務して、翌日1日休む)という変則勤務態勢になっているので、これもたいへんである。たまたまこの日はお休みだったので来てくれた。

料理3品+飲み放題(2時間)で3,000円をオーダー。(というか、それしかなかった。)

坂本くんは津波で車がダメになったと言っていたが、どうやら保険が利くらしい。これまで入っていなかった地震保険に今年はじめになってたまたま加入し、それが今回の震災に適用されることになったそうだ。それについては担当する保険会社の人の勧めと震災後の迅速な連絡・対応にたいへん感謝し評価していた。また、市役所に被災者や避難所にまつわる種々の要望をいくらしても、担当部署の人がまったくその方面に疎いと、役所の人の配置に疑問を投げかけていた。(たとえば仮設住宅の話をしても担当者に建築についての知識が無いために全く話が進まないなど、枚挙にいとまがないらしい。)

鈴木くんは安住淳くんが同級生であるから、彼についてはいろいろ言いたいことがあるようで、菅さん来石の際の言動や復興関連での動きなどずいぶん批判していた。私としては、同級生であるのだから、ご不満ご立腹はもっともながら、同級生として大事にしてやってほしいというようなことを言った。

話がはずんで酒もすすんで、2時間はあっという間に過ぎ、店を出ると、私は大文字屋に21:00までに帰ると言ってあったので、鈴木くん宅に荷物を取りに戻り帰宅する旨言うと、鈴木くんは「次行きますよ、次ぃー!」と止めることができず、結局荷物は翌日取りに戻ることになり、2軒目に…

→ KIYO (翌朝撮影。マルシン質店から駅寄りに少し行ったところ、平塚達也くんの実家の焼き鳥こやなぎさんの近くである。)

鈴木くんの住中時代の同級生キヨさんの店。キヨさんは宮水の柔道部ということで、「それじゃ俺とも試合やってたかもしれないね。」かなり前に大内ツァン(宮水柔道部顧問)が亡くなったことなど昔話をする。

すると女性の三人組が来店。こちらも住中同級生の方で、しかも坂本くんの保険の担当の方もいらっしゃったようで、坂本くんの保険話に火が付き、これも止まらなくなった。わたしゃわたしでタイムリミットだったので、お金を置いて物凄い勢いで店を出て、大文字屋のシャッターをくぐったのである。その後のことは記憶にない。


*    *    *    *


5月3日

5時30分起床。早速鈴木くん邸に荷物を取りに行く。6時頃に鈴木くん邸に到着。荷物を引き取る。聞けば昨夜は1時頃まで飲んでいたとのこと。元気ですね。

鈴木くんにはお世話になり多謝。

帰路に昨晩通った小柳町近辺を撮る。帰宅後大文字屋の倉庫内を撮る。汚泥が完全に撤去されて板倉もきれいになっていた。店ではまだ冷蔵庫が斜めになっていたが、配達の商品が並べられていた。営業は再開されていたのである。後で聞いたところでは何軒かお得意さんから連絡があり、配達依頼があるとのこと。つまりは再開する飲食店が出ているということである。まだ固定電話が通じないので携帯で注文を受けている。電話の状況は詳しく知らないが、光回線を利用していたので、電気が復旧しないと電話も通じない。電気は復旧していたが仮復旧状態であったので、ルーターのような機械がまだ無いために固定電話が通じないのか、光回線自体がダメージあるのか、そのあたりは不明である。

軽く朝食をとり、4月の帰省写真をキクちゃんに渡す。筆記用具とお手紙セットと「手回し充電ラジオ付懐中電灯」(2個)といっしょにお土産である。

この日は11時から楼欄さんのラーメン炊き出しがアイトピア集会所で行れるので、キクちゃんの付添として一緒に食べた。いつも元気な楼蘭さんのマスターがこの日も元気にラーメンを作っていた。京屋さんのオック(2年先輩)や鳥文さんのお三方もいらしていたので、勇姿を撮らしていただきました。

→ 楼蘭さん オック 鳥文さん

楼蘭さんのラーメンで元気をつけて、この日も撮影に出かけた。前日バッテリー切れを起こした門脇小前から日本製紙近く、門脇5丁目西端付近から日和山に登る。市女高からつつじ園を通ると、すでに葉桜だったが、種類によっては満開の桜が見られた。お花見している家族連れも見られた。工房かざみどりは無料コーヒーサービスを続けていた。御児神社裏の東家から中瀬や湊地区を撮影。

山を下りて中央1丁目付近を歩く。中村旅館さんは建物の傾きがかなり激しくなって見えた。一本裏の旅館さんの通りはかなり片付けが進んでいた。

内海橋を通る。丸光側から見て右側の歩道は津波で途中から手すりが破断していて危険であった。車道も一部通行不能で、橋の上でガードマンが片側交互通行の誘導を行っていた。湊側はよく確認しなかったが、山側の歩道が全体崩落していた。岡田劇場は残骸が多少残っていた。萬画館は地震で数十センチ動いたので使えないと聞いていたが、この翌日にイベントが行われる予定で、実際行われたようなので、部分的には存続可能なようだ。ただ今後の詳しいことは決まっていないようだ。

萬画館 → 震災前 震災後

※ 震災前の萬画館の写真はtstakaさんのアルバムから拝借しました。→ 7年前の石巻市内を撮った写真です。

中瀬にはまだ足を踏み入れていない。時間があったら次回は歩いてみようと思う。



*    *    *    *



この日はキッチンじゃが芋に行く予定を立てており、16:00に予約を入れておいた。忠典くんは透析だったので様子を見てと言っていたが、結局見合わせることに。恵美ちゃんの運転で私とキクちゃんと三人でキッチンじゃが芋に向かった。

かつての中央2丁目のキッチントリオ以来、ほぼ40年ぶりのお店訪問ということになる。大街道から少し山下駅方向に入るとお店があった。駐車スペースに車を置き店内に。

本当にお久しぶりのOくんのお母さんとの再会である。何かお話しぶりを聞いていると、ほとんど昔と変わらない感じだ。

聞くところでは、津波は来たものの高さはそれほどではなく、店にはそれほどダメージはなかったとのこと。バイクが一台だめになったことと駐車スペースに津波が運んだ砂礫がついて取れにくい程度だったようだ。とにかく無事で何より。

お店は先週初めというから4月25日ぐらいからの営業再開ということだった。

そんな話をしながらメニューを見て、シーフードピザとナポリタンとアサリスパゲティ、ドリンク、テイクアウトにミックスピザとパスタをオーダー。

因みにママさんは避難中に配給の食糧は一切受け取らなかったとのこと。自分は食べなくても平気だし、もっと困っている人がいるのだからその人たちのところに回してほしいと言っていたそう。ウーン、うちのキクちゃんとは大違いである。と、話している人がだれかと思えば、Oくんの弟さんのみゆきくんであった。これも懐かしい。

聞くと現在東京在住で、このGWお手伝いにきているらしい。夜行バスに何度も乗ったらしく、今はバス用枕?やお尻がいたくならない座布団など携行しているとのこと。

私の同級生であるOくんの大学進学後のお話やお父さんのセスナパイロット時代のお話などいろいろうかがった。

店内に一人男性客が入ってきてコーヒーを飲んでいる。誰かに似ているなと思っていたら、どうも話を聞いているとOくんのお父さんのお兄様らしい。それはかつて大文字屋が納品していた石巻飯店の御隠居さんでもあるという。ふーむ、そうであったか。道理で似ているわけだと納得。

というか恵美ちゃんがそのあたりかなり詳しくて、びっくりした。まあ私よりもう石巻歴が長いから当然か。

料理が到着した。パスタは麺細めで、ソースはあっさり、麺の歯ごたえがよい。石窯で焼いたピザは薄くパリッとしていて、シンプルだが後を引く。

自然に食べられてしまう。何気なく食べてしまう。そういう自然さの料理である。

たしか小学生時代であったキッチントリオでのイタリアン体験は、味の記憶としては明確なものが残っていなかった。むしろ遊びに行った時の店内に漂うバターやチーズやトマトなどの濃厚な香りが印象的だった。だから今回の実食であらためてイタリアンを記憶に残したいと思った。それが実現して満足している。

この日は再開間もないためかメニューも限定されていたようだ。再訪して他の料理もトライしてみたいと思った。(特にミートソース。)

こうして1時間程さわがせた後、ママさんのお見送りを受け、ピザとパスタのおみやとともに、大文字屋号は帰宅の途に就いた。

※ 感激のあまりか、写真を撮るのを忘れしまいました。次回行ったら撮ります。



*    *    *    *



帰宅後、じゃが芋のピザとパスタを忠典は「ウメ」と言いながら平らげた。透析直後は激しい運動直後のように腹が減っているので、本当に味が分かっているかどうか分からないが。翌日の予定について忠典を交えて話をした。私は恵美ちゃんに被災後仙台に新居を構えた女川のおばちゃんおんちゃん宅を訪問したい旨の話をしており、もともと丸森に帰省していた勝さんと仙台で落ち合うことにしていた恵美ちゃんと忠典の方ではそれに異存はなかった。ただ忠典が「それなら松島の享さんにも会っていけばいいっちゃ」と言い出した。私の方では、そこまで考えていなかったし、時間的な余裕があるのかどうか分からなかった(特に勝さんの予定の面で)ので、それはハード過ぎないか、無理があるんじゃないかという話をした。恵美ちゃんも同意見だった。ところが忠典がやけに松島行にこだわり、しまいには、「だったらあんだらだけで行ったらいっちゃ!」と言い出す。(どうにも文字に起こすとラムちゃん口調で緊迫感ゼロというかむしろ笑えてしまうが。)「いやいや、そうじゃなくて…」と何度か堂々巡りの末、私としては「どうも兄貴は松島に寄りたい(というか私に寄らせたい)らしい、それと、時間的には大丈夫らしい」と分かって、「分かった! 俺はそれでいい。ただ、恵美ちゃんの話も聞かねど。だいたい恵美ちゃんは自分の都合だけでなく、兄貴の体も心配して言ってんだがら。」ということで、結局恵美ちゃんも納得(ということで)、松島(きょこちゃん)→仙台(ずんこちゃん)→仙台(勝さん)ルートに決定。結構疲れる話し合いであったが結構楽しいけんかでもあった(苦笑)。特に私の話の途中に何度も割って入る忠典に「あんだ、ちょっとだまってらい」と何度も声を出したキクちゃんにとって、いい運動になったかもしれない。

→ その後のみんな

そういうわけで、この日は翌朝に備えて早めに準備、就寝した。

*    *    *    *

5月4日

6時半起床。朝食。8時に恵美ちゃんの運転で松島・仙台に出発。

鰐山から大街道へ出た後、釜工業港方面を通る。このあたりも津波の水がかなりきたエリア。道路を挟んだ住宅街は、土地が低いので、津波で入った水がなかなか引かなかったことだろう。門脇・雲雀野・南浜町を合わせた面積の数倍の広さで被害を受けている。本当に広い。

仙石病院に寄った後、松島へはスムーズに出た。はじめに信子おばちゃん・アコちゃん宅に寄る。信子おばちゃんは憲ちゃんの一周忌以来、アコちゃんとは通夜以来。被害が少なかったことをお聞きし、あまり時間もないので、残念だったがお宅へも上がらず、享さんのいるセンターへ。

松島海洋センターの近くにあるセンターに享さんを訪れる。簡単な入館手続きを済ませ、お部屋へ。おんちゃんはベッドに横になっていたが、起きていた。週刊誌をベッド脇に置いていた。恵美ちゃんと忠典と私で声をかけた。はじめは私のことがわからなかったらしく、孫と勘違いして、この間のサッカーの試合はどうのと言っていた。やがて私とわかったらしく、30数年前に私と東京で待ち合わせて丸ビルあたりで鰻を食わせた話などをしてくれた。私はおんちゃんの体の状態についてはほとんど知らなかったので、どの程度の時間話していていいのかわからず心配だったが、ただおんちゃんはずっと話していて(写真を撮る時はVサイン)、その意味で体は元気そうだった。30分程おじゃまして、また来っからと言いながらおいとました。

→ きょこちゃんと愉快な仲間たち

享さんのいるセンターから45号線へ出ると、五大堂などの見える通りに。情報では開いている店が少ないと聞いていて、実際その通りだったが、観光客はそこそこいるようだった。

今度は仙台市宮城野区の淳さん宅へ。

女川の大文字屋は被災し、鉄筋コンクリート3階建て(4階?)の建物ごと流された。おばちゃんもおばちゃんも何とか避難し無事であった。おんちゃんは最初は車で避難しようとして危なかったらしい。1週間ほど避難所暮らしの後、上杉さん(モコちゃん'sハズバンド)が女川まで車を飛ばして仙台のお宅に引き取ったのである。(これもすごいが。)現在は近くに家を借り、新居としている。

玄関で出迎えを受け、ハグと握手で再会を喜んだ。忠典と恵美ちゃんは勝さんとの待ち合わせ場所に向かい、私だけお邪魔することに。新居は新築ではないが清潔感があった。聞くとかなり傷んでいたのを事情をご存知の大家さんが念入りにリフォームしてくださったとのこと。また町内の方々が次々と家具を持ち寄って下さり、生活に必要なものはかなり早くそろったとのことである。

お宅にはモコちゃん's sonの良太くんも来ていた。

お茶をいただきながら、被災時の話をうかがった。最初に避難したところが安全ではないらしいということでさらに避難したこと。おんちゃんは車で避難する途中に津波に追いつかれそうになって車を捨てて間一髪逃げたこと。1週間だが避難所での生活。だれかが言ったとおり「戦争津波くぐりぬけてきた二人、全然参ってない」。おばちゃんおんちゃんは、たいへんだったことを明るく元気よく話していた。

おんちゃんは朝日新聞の一面に載った津波直後の女川の写真を見せてくれた。この写真は初めてみた。(私は朝日をとっているが、震災直後から1か月ほどまともに読んでいなかった。ネット情報が速く新聞では遅すぎると感じていたからだ。)

私は「チリ地震津波の時に、うちのオヤジ(憲ちゃん)が女川の片づけの手伝いに行ったら、女川のおんちゃんが呆然としていて、オヤジがとにかく片づけようと言って、ドロにまみれた缶詰を一個一個みがき始めたという話を聞いたことがある。そういう体験をした女川の大文字屋がまさかまたこういうことになるとは夢にも思わなかった。」と言ったら、「ほんとにねぇ!」と言っていた。

→ のぶちゃんとずんこちゃん

おばちゃんおんちゃんらしい明るくたくましい声を聞き、よく言う言葉だがこちらが元気をもらった感じだ。1時間ほどお話しした後おいとまし、おんちゃんに中野栄の駅まで送ってもらった。道々訊くと、仙台あたりにも山の会の仲間がいらして最近もそちらの方面で会ってきたとのこと。まだご不自由もあるだろうが、着々と新しい生活を組み立てていらっしゃるようだ。

JR仙石線は仙台-東塩釜間で運行が再開されていて、私は中野栄駅から乗車し、仙台から新幹線はやてに乗り換え(まだUターンラッシュ前で席に余裕があった)、4日夕方に自宅に戻った。仙台駅では「愛宕の松」を買ったがかなり美味かった。

本当は3日に夜行バスで仙台を立ち、4日午前中に帰宅の計画だったが、それを3日朝に忠典に話すと「聞いてねえっちゃ」と言うので、時間的に余裕もあったので帰りを延ばした。

*    *    *    *

今回の帰省で感じたのは「ギャップ」である。同じ被災地でも、避難所で配給を受け衣食住+職の目途が全くたっていない人がいれば、震災後も震災前と同様の生活をしている人もいる。また被災者と行政のコミュニケーションギャップ。

マクロからミクロまでいろんな場面でギャップが生じている。必要なことはギャップを認め、それを埋める努力すること。できるのはそれだけなのだから。

*    *    *    *

今回の震災で諸外国から支援の手が差し伸べられ、それによって逆に海外で被災した地域の情報を知り得た部分がある。台湾、中国(四川)、そしてインドネシアのスマトラ沖地震である。特に14万人以上が犠牲になったスマトラ沖地震の津波は、日本がそれを教訓とせず、対岸の火事扱いしてしまった。

バンダアチェを襲った津波の瞬間

スマトラ沖地震で今現在においても教訓にできることは、本震の3か月後に本震に近い規模の余震と津波が襲い、大きな被害を出している点だ。3月11日から3か月後といえばちょうどこの6月である。もちろん、それに限らず再び大きな地震と津波が来ることを想定し、対策をとっておくことが必要である。

*    *    *    *

最後に。4月の帰省では1000枚以上写真を撮ったので、今回はもう撮るところはないだろう、100枚ぐらいかな。そう思っていたら、500枚ほど撮っていた。実はバッテリーを充電する部品を忘れて充電できず、スペアのバッテリーに交換しただけだったので、かなりセーブして撮ったのだが、それでもこの枚数である。充電できていたら何枚撮っていたことか。今後は充電器を持っていかない方が賢明であろうか。









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