大文字屋の憲ちゃん (当面は 石巻 地震) 

RIP 親父 けんちゃん 石巻 地震

帰省2010.03.20,21(その2+石巻焼きそばPart2+JR新宿駅「味彩」の焼きそば)

2010-04-15 17:36:39 | 日記

称法寺で墓参を済ませ、例のごとく門脇町を北上川沿いの通りに出て、中瀬を右手に見ながら帰路に就く。時間に余裕があったので、また日和山に寄り道をする。前回の帰省の際は旧市役所東側の坂を登ったが、この日はそこまで行かずに東南の山肌に石段を見つけ、そこから登った。住所でいうと門脇二丁目2と4の間の通りを入ったところである。

登ってしばらくすると祠(ほこら)があった。祠といっても周りがコンクリートで固められていて随分と頑丈そうな造りである。立て札に「自力龍王大権現」とあり次のような覚書があった。

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自力龍王大権現(昭和六十一年九日吉日)…九軒町といわれていた当町内に昭和六年夏度重なる火事の際、有志相よりて祈祷師に占ってもらったところ火伏せの神がおろそかになっていると御宣託を得て、早速その建て直しを図り、町内守護神として現在地に建設し、毎年慰霊の祭りを行って来た。

…昭和四十一年四月七日小雨の日の午後一時半頃、突然背後の山肌が山頂より崩れ、祠は土石に埋没してしまったので町内有志相はかり同年九月再建したのである。 

昭和六十一年九日吉日 自力龍王現講

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(『自力龍王大権現』の名称は日蓮宗久円寺谷川日明上人の命名とのこと。)

こちらの祠を右に見ながら急な石段を登って日和山の山頂に着く。山頂といっても十分も登れば着くのだ。公園内の碑などを見て歩くと、見落としていたものがあった。

「フランク安田顕彰碑」である。

フランク安田(安田恭輔 1868~1958)は石巻市に生まれ、後にアラスカに渡り、イヌイット救助に尽力した人である。イヌイットはカナダ北部、アラスカなどに住むエスキモー系先住民族の一つ。碑には彼の功績と「2008年8月、アラスカ・ビーバー村に於いて、石巻市民を交えフランク安田没後50周年メモリアルポトラッチが執り行われた。」とある。顕彰碑はこの行事に際して建立されたらしい。(「ポトラッチ」はアメリカ西海岸の先住民族の言葉で、「祭り」「儀式」を意味する。)

フランク安田を描いた小説に新田次郎の『アラスカ物語』があり映画化もされていて(1977年東宝)、新田氏が取材に来石した際の歌碑もあった。

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北上川の尽きるところのかすみには
なおとまどいの青き波かな

新田次郎(本名 藤原寛人)大正元年現長野県諏訪市に生まれる。小説家。昭和三十一年『強力伝』で直木賞受賞。NHK大河ドラマになった『武田信玄』の原作者で吉川英治文学賞受賞。『アラスカ物語』の取材のため昭和四十八年七月石巻を訪れ、当時石巻市社会教育課長だった市史編纂委員の橋本晶氏が案内を務めた。前掲の歌は帰郷後橋本市への礼状にしたためていた作である。

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新田次郎は元々気象庁に務めていた気象学者。毎日の勤めの後、夜の二時間を創作の時間にあてていて、夕食後二階に上がる際「戦いだ、戦いだ」と呟きながら階段を上がっていったと何かで読んだことがある。満州で終戦を迎え、ソ連軍に捕虜とされ、中国共産軍にて一年間抑留生活を送っている。彼の『強力伝』(ごうりきでん)は私の専門分野で言うと平成三年度に駒場東邦で出題されたので、私としてはなじみがある。

妻の藤原ていも作家で、上の満州引き揚げ体験を『流れる星は生きている』に書いている。

子供は藤原正彦(数学者、エッセイスト)。あの『国家の品格』を書いた人である。この本は彼の妻が彼を評して言うように「半分は正しいが半分は間違っている」と私は思う。国語教育に関してもよく発言しているが、これも同様である。彼の書いたもので面白いのはまず『若き数学者のアメリカ』のようなエッセイ群である。(数学者のエッセイとしては広中平祐の『生きること学ぶこと』が最もお勧めだが。)そしてこの人で最も面白かったは2001年(平成13年)NHK教育テレビ「人間講座」でインドの数学者ラマヌジャンを扱った回である。数学者の研究や発見が生活に密着していて、その人物の人間性と不可分に結びついていること、数学者の数奇な運命、そして数学の公式の説明不能な美しさ、それらについて熱っぽく語っていたのが印象的で私の記憶に残っている。この講座は後に『天才の栄光と挫折-数学者列伝』として出版されている。(これをきっかけに小川洋子は『博士の愛した数式』を書いた。)

文学談義が続いてしまうが、前回の帰省を書いた際に宮沢賢治の碑の話をしたが、その碑の内容を転記したので、ここに記しておく。

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宮沢賢治

われらひとしく丘にたち

青ぐろくしてぶちうてる

あやしきもののひろがりを

東はてなくのぞみけり

そは巨いなる盥の水

海とはおのもさとれども

傳えききしそのものとあまりにたがふここちして

ただうつつなるうすれ日に

そのわだつみの潮騒の

うろこの国の波がしら

きほひ寄するをのぞみゐたりき

※盥…たらい

宮沢賢治 作品省略

明治二十九年岩手県花巻町(現花巻市)に生まれる。大正三年盛岡中学校卒業。大正六年盛岡高等農林学校農学科(現岩手大学農芸化学科)卒業。詩人童話作家、農業科学、鉱物研究者。、童話では『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』、詩『雨ニモマケズ』は代表作。賢治が明治四十五年五月二十七日中学校四年の修学旅行に北上川を川蒸気で下り、石巻の日和山から生まれて初めて海を見て強い感動を受け、その折の印象を詠んだものである。

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フランク安田と新田次郎の碑は公園南側の桜の多いあたりにあるが、宮沢賢治の碑はつつじ園側の茶店の下辺りにある。



ここまで歩いてきて小腹が空いたので、茶店で団子でも食おうかと思ったら、あの「石巻焼きそば」の幟(のぼり)が見えた。石巻焼きそばの全貌がイマイチ見えていないこともあって、昨日に続いて食べてみることにする。(因みに前日の店は市役所1Fエスタ内「わのぜん」というらしい。)

茶店は2軒あるが、どちらにも幟が立っている。つつじ園側から2軒の店の間の石段を登ると、すぐ入口があったのでそちらの店に入ることにした。サッシの入り口に大きな色紙に「サトウ売店」と太マジックで手書きしてある。

石巻焼きそば500円とみそおでん400円を注文。おでんは三角のこんにゃくおでんである。あっさりしていて味噌味も程よく5切れを一気に食べた。いつも思うがこういうおばあちゃん(この店はお二人)のやってるお店というのは、なぜこうも味が「ちょうどよい」のだろうか。年季なのだろうが、本当に感心してしまう。

さて「石巻焼きそば」登場である。見た目は普通のソース焼きそばで、色がやや薄い茶色に見えた。麺は普通の太さで前日の「わのぜん」のような太さはない。麺に豚バラ肉とキャベツとモヤシ(だったと思う)を炒めたものがあえてあり、青のりがさっと振ってあった。

食べてみた。麺はやや細く柔らかめだが弾力はあり、ソースの味は薄いが胡椒が利いているのかひりっとした辛味が心地よく舌に残った。炒めた豚バラ肉と野菜は目立たないが申し訳程度ではない存在感を主張していた。

美味しくて(腹も減っていたので)一気にいただいてしまった。

全体としては家庭的な味という印象だが、それは「わのぜん」と比べての話で、粗を見つけるのは難しいぐらい丁寧に仕上げられていた。そういえば厨房(といってもとても狭いが)に大きめのガスコンロがあり、そこでおばあちゃんがジュウジュウ炒めている音がみそおでんを食べている間によく聞こえてきていた。

石巻焼きそばを地元の名物としてアピールしていこうという動きがあるという話は、昨年の父の葬儀の際、火葬場と葬儀会場を行き来する車中で矢本の俊二さん(トヨさんの長男)や仙台の智彦さん(春彦さんの長男)から聞いたのだが、その時は「ん?」と思っただけで、「茶色い焼きそば」と言われても「焼きそばはみんな茶色いだろ」、「二度蒸しではじめから茶色い」と言っても「美味しくなきゃ意味ないじゃん」などと思っていて、正直あまり心を動かされなかったが、実際食べてみて、これは悪くないんじゃない? と思った。

この日はよく晴れて3月下旬としては暖かい日だった。「サトウ売店」での午餐は心地よく日向ぼっこしながら、まだ咲かないツツジや松の木の緑と空の白青を楽しみながらのものとなった。この店からは海は見えないが、つつじ園の方に視界が開けているのでこれはこれで気持ちがいい。



サトウ売店を出て3時過ぎに大文字屋へ戻る。この日はミっちゃんもみゆきさんもお昼までだったので、私が少し店番をしながら裏の倉庫の2階に上がって遺品探しなどをした。もりやさんに領収書を届けるなどお手伝いをした。もりやさんの旦那さんは髪は白いが相変わらず眼光鋭く若々しかった。

はじめは兄が仙台に行くのでその車に便乗することになっていたが、兄が昼前に出ることになったので、私は夕方石巻から電車で帰ることになった。

出かけるまでの時間、店番をしながら母と四方山話をした。今回の漏水事故の経緯や、その後の保険会社の調査のようす、保険会社の調査が最も状況が悲惨な時だったのでよかったとか、どの保険が適用されてどの保険が適用されないかとか、建物補修だけでなく休業補償ももらわないと合わないとか、等々の話があった。

今回の事故で2階を改築することができた。以前に「ベル」さんが入っていたテナントスペースを居住スペースにしたのだ。これを所謂「焼け太り」と見る人もいるかもしれない。

今回の事故は真冬に起きた。漏水のために電気と電話がストップした。とりわけ電話がストップしたのは、営業上致命的である。2階3階は水浸しで寝る場所もなく毎日ホテルまで往復した。退院直後だった恵美子さんは、結局再入院を余儀なくされた。この事故の直後に私がたまたま電話をした時の母の第一声は「死にそうだ!!」であった。

なお、いろいろな保険をかけていたのは父、憲ちゃんである。

店は正面シャッターを閉めていて静かだったので、母と話していて少しホッとした感じがした。



この日は夕方6時頃の仙石線に乗り、7時半の新幹線「はやて」で東京へ向かうことに。

電車に乗る前に、石巻駅前の「観光物産情報センター」というのが気になっていたので寄ってみる。日本酒の「日高見(ひだかみ)」と「墨廼江(すみのえ)」が置いてあったので4合の純米酒を1本ずつ買う(どちらも1,260円)。

仙台で乗り換えの際に「伊達絵巻」というお菓子を知人への土産に7個入りと12個入りを1箱ずつ買う(それぞれ680円と1440円)。仙台土産では「萩の月」が有名らしいが、私の記憶が「伊達絵巻」を呼んでいて、保存もこちらの方がよいかと思って買った。

東京駅で中央線に乗り換え、新宿駅に着く。一服したくなったので、JR駅構内のドトールに入ろうと思ったが、立ち食いそば屋が目に入り、焼きそばを見つけたので、食べてみることにした。もちろん、石巻焼きそばと比較するためである。

新宿駅南口改札内の「味彩」である。焼きそば400円を券売機で買い、カウンターに券を出す。店内はそこそこ混んでおり、「ちょっと待ってください」と店員に言われて、3分ほど待つ。3分後、出てきた焼きそばは、期待に違わぬ立ち食いそば屋の作り置きして温め直すためだけに炒められたボソボソした焼きそばである。普通にソースで茶色く、キャベツやモヤシなどの少量の野菜と微量のお肉である。

味は石巻焼きそばと比較すべくもないのはもちろんだが、「早い、安い、まずい」を立ち食いそばの醍醐味と考える私としては、今回のように「3分待たされる」のは極めて遺憾なことである。(「石巻焼きそば」よ、比較してゴメン!)

それやこれやで、生田の自宅に着いたのが11時半過ぎであった。

今回帰省の列車内で読んだのは向田邦子の『あ・うん』である。最近『阿修羅のごとく』というのも読んだ。どちらも向田の作品で父の遺品である。詳しくは後日書くつもりである。

後日、「観光物産情報センター」で買った「日高見」と「墨廼江」を飲んだ。「日高見」は果物の甘い香りがして、純米酒だがキレがよく軽快な飲み口である。「墨廼江」は飲む前に香る香りは少ないが、飲むと、甘味・苦味・酸味・辛味が絡み合った、複雑な香りが鼻腔に立ち昇ってくる。味わい深い大人の酒である。やはりどちらもいい。



というわけで、今回の帰省は終わったのである。




付記1

往路で出発時刻に遅れたと書いた。私は新幹線の指定席予約をパソコンや携帯電話で行っているのだが、この時はパソコン(JRの「えきねっと」というサイト)で予約済みであった。切符は駅の指定席券売機で発券する(そうすると割引になる)。クレジットカードを入れて予約番号を打ち込むのである。列車に乗り遅れたり、券売機から発券手続きをしないとどうなるかというと、契約は成立しないが、一旦口座から料金が引き落とされてしまい、その後に払い戻し請求手続きをこちらからすることになる。

今回は予約した列車に間に合いそうにないので、次の列車に予約を入れたが、最初の予約に関しては取り消しが効かないので、そのままにしていた。

JR新宿駅で発券する際にVewプラザのカウンター受付の方に確認すると、奥の方でなにやら相談の上出てきて、「発券しないと引き落としの請求が出ますが、こちらで0円で発券すると、発券したことになり、実質の請求されなくなるので、そのように処理しましょう」と言われ、そのようにしてもらった。お蔭で面倒な手続きがなくなり助かった。親方日の丸気質というか役人気質が抜けないというイメージが強い(私にとっては)JRであるが、今回は柔軟な対応であった。係りの人、ありがとう。


付記2

石巻焼きそばについて、その後ネットで調べると、いろいろ出てきたので、紹介しておきます。

①「石巻焼きそば」のサイトです。

>http://iyakisoba.blog73.fc2.com/

②「わのぜん」の様子(上のサイト内)。

>http://iyakisoba.blog73.fc2.com/blog-entry-15.html#more

>http://blog-imgs-29.fc2.com/i/y/a/iyakisoba/20090404124800999.jpg

③最後に「サトウ売店」のようすを綴った他ブログの記事

>http://kazenofukumamani.blog.eonet.jp/kaokun/cat4617946/index.html


付記3

「12月5日帰省」の記事のコメント欄に私の同級生の毛塚功一さんよりお便りをいただき、私の返信コメントも入れましたので、興味のある方はご覧になってください。


付記4

母の話によると、3月22日(日)は、午前中に仙台の春彦さんとカヨさんが顔を出してくださった。カヨさんは近く郷里を訪ねるとのこと。

昼に女川の淳こちゃんと信子さん、矢本の英雄さんとトヨさんがいらして、お食事して行った。淳こちゃんと英雄さんはかなりメートルが上がってタクシーでお帰りになったそうである。
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