大文字屋の憲ちゃん (当面は 石巻 地震) 

RIP 親父 けんちゃん 石巻 地震

帰省2010.03.20,21(その1+石巻焼きそばPart1)

2010-03-30 12:12:06 | 日記
2010年3月20、21日帰省した。これはその備忘録である。


今回の帰省の目的は、お彼岸の墓参および恵美子さんのお見舞いである。

20日午前10時頃に家を出たが、生田駅に着く直前の駐輪場で忘れ物に気づき、一旦家に戻り、再び駅へ。そのため何だかんだと出発が1時間ずれた。東北新幹線「はやて」で最短時間(生田→石巻4時間5分)で到着するには10分遅れは1時間遅れを意味するのだ。(乗り継ぎの関係上。)

因みに忘れ物というのは実印。これは、大文字屋が石巻青果市場に提出する書類に必要なもので、今回の帰省直前に依頼されていたものだ。石巻青果市場は以前とシステムが変わって現金取引になったそうで、大文字屋にとってもいろいろたいへんなようだ。今回の書類は憲ちゃんの死亡による名義変更。

遅れついでに、生田駅前にある亀屋万年堂でナボナ(12個入り×2)を買う。土産用である。兄(忠典)に聞くと、「ナボナはお菓子のホームラン王だ!」という昔の王貞治のコマーシャルを知らなかった。

15時12分、石巻に到着。

まず新しい石巻市役所(旧さくら野百貨店)に寄って父の戸籍謄本を市民課で入手。これは元々石巻商業高校での父の卒業年度の確認のために必要になったものだが、この内容を見て分かったことがいくつかある。母(喜久子)との婚姻日(昭和33年12月26日)と、母の両親の名前である(千葉孝蔵、イチ)。その他詳しくは、父のプローフィールVr.2の形で後日記事をあげる予定。

なお今回石巻商業高校への現地調査は前述の時間の遅れにより断念した。

新しい市役所は、広々としてスペースに余裕があり、印象はよかった。ただし1階エントランスを入ると、いきなりテナント街になり、受付が脇の方にあるので、慣れないと分かりにくい。1階のテナントスペースには服飾店や食堂、スーパーなどが入っている。

兄(忠典)の話によると、こういったテナント入居の背景には、石巻駅周辺住民の要望があったようである。蛇田地区への人口遷移により、商店街の閉店や移転が相次ぎ、日常の買物に遠出しなければならない状況が生じている。そのため、ふだんの特に食料品の買物ができる店舗が望まれたようである。

私は戸籍謄本入手のついでに、この1階の食堂で、噂の「石巻焼きそば」を見つけたので食べてみることにした。

目玉焼き付きで500円である。食堂といっても、カウンターからテーブルまではセルフサービスであり、デパートの軽食スタンドや立ち食いそば屋をやや大ぶりにしたような店なので、ちょっと高いかなと思った。出てくるまでに5分ほど時間があったので、まわりの客を見ていると、買物帰りの主婦らしきご婦人がラーメンを食べていたり、近所の毎日訪れるらしいおじいちゃんが「おじいちゃん、できましたヨ~」と女性店員さんに呼ばれてたいやきを食べていたり、いろいろである。客足はちょろちょろであるが絶えないようだ。

出てきた「石巻焼きそば(目玉焼き付き)」は、見た目はまず目玉焼きがずいぶんきれいに焼かれていることだ。通常目玉焼きをつくると、黄身の部分に白い膜がはるが(これは私が蓋をして蒸し焼き状態にするせいかもしれないが)、それがなく、黄身の黄色い色がきれいに出ている。半熟の焼き加減も良い。

麺は、予想していたより太麺であった。これにモヤシとキャベツと豚バラ肉が一緒に炒めてある。その上に目玉焼きがのっかっている。

食べてみた。麺は非常にしっとりしていて、適度な歯ごたえがあり、ソース味の甘過ぎず辛過ぎずのたれが程良くからんでいて、美味しかった。たしか石巻焼きそばの石巻焼きそばたる所以は「麺の二度蒸しにある」と聞いたことがあるので、この麺のできには納得である。とにかくていねいに上品に(ソ-ス焼きそばにしては)つくられているという印象だった。

500円は安くはないが高くはない。地方では、人口の多い都会のように薄利多売が成り立たないので、都会よりも値段が高いものが珍しくない。それを考えれば、悪くない価格設定だと思う。

ということで、石巻焼きそばで寄り道して、4時半ごろ大文字屋にご到着である。

早速2階にあがってみると、工事はほぼ終わっていたようで、資材も道具も見当たらない。仏壇のある居間は新しい畳が入り、すっかり片付いていた。もとの母と父の寝室は新しいフローリング張りになっていた。テレビのある応接間の方は、従業員さんの休憩スペースにテーブルや食器が置いてあった以外は、以前と同じで、それほど散らかっている感じでもない。ただ、床の掃除がされていないようだったので、掃除機をかけ、雑巾がけをしておいた。

新しく住まいに改築したスペース(建物南面、アイトピア通り側)は全面フローリング張りで、新しいバス・トイレも完成しており、掃除もほぼ終わって使える状態になっていた。(トイレは既に使っていた。)残っているのは、カーテンの取り付けだけとのこと。

3階は階段を掃除する際に少し覗いて見たが、水漏れで壁面の塗装が泥状に床に流れ出しており、これをきれいにするにはプロのお掃除屋さんが必要ではないかと思った。よって、今回は手付かずのまま。(上がり口のところだけ雑巾で拭いておきました。)

まあこれでお客さんが来てもノー・プロブレムと安心。

(ただし1階の居間は、兄がねぐらにしていてブタ小屋状態であり、立ち入るのは大変危険である。今頃はもう片付けられているだろうが。)

今回は大文字屋に泊まることもできたが、あまり片付いていないという理由で兄がサンプラザホテルに部屋を取ってくれていた。夕食は石巻グランホテル内の懐石料理「石亭」で母と兄ととる。この日兄は透析(週2回)に出かけていたので、食欲がないそうで、はじめはウーロン茶を飲むだけだった。母と私はビールのジョッキと懐石コース料理、それと酒の肴を何品か。キスの天ぷら、フキノトウの天ぷら、などが旨かった。鯨の刺身は解凍途中のまま出てきたので困った。(時間をおいて食した。)

兄は途中から天丼を注文して食べていた。透析直後というのは、血液がきれいになっているので、激しい運動の直後のようで、食欲がないのだそうだ。そのあたりのロジックはちょっと分かりにくかったが、おそらく透析によって血液中の老廃物が除去される際に、エネルギー源も除去されてしまうので、ちょっとフラフラするのではないかと理解した。兄の場合、腎臓以外の臓器に何の問題もないので、カロリーは十分に摂取した方がよいと医者から言われているそうだ。このあたりは糖尿病などの場合と違うとのこと。

それにしても空きっ腹に天丼というのは、五十のオッサンの食事としてはどうかと思う。この間の帰省の際には、市場内の食堂でカツカレーを食っていたが、体を使う仕事であり外食が多いことを考えても、「もう少し野菜を食えや」と言いたくなる食事内容である(揚げ物が悪いとは言わない)。と思いつつ、無粋と思い言わなかったので、今度は言おうと思う(苦笑)。

メニューに日本酒とあったので、男性のホールの人に銘柄を聞くと「墨廼江」だというので、「墨廼江の何ですか?(純米、吟醸、大吟醸などの種類)」と訊くと、いったん調理場かどこかに調べに行ってくれて、「純米吟醸です」というので、「じゃあ一本ください。」と注文。旨かったので都合2合飲す。10時半頃に店を出る。

この夜はそういう訳で母とホテル泊。母は「明日はクルミ(くるみ豆腐づくり)あるから、家で寝た方がいんだげどなァ~」と兄が聞いたら激怒しそうなことを愚痴りながら11時頃寝た。私は、酔った頭でこのブログの携帯更新を試みたが、送信されるもののサイト上に反映されないので諦めて2時頃寝る。





翌21日は午前6時起床。母は6時にホテルを出る予定が、ぐずぐずして7時頃になった。私は3日前から仕事で徹夜だったので、二度寝して、8時半頃朝食をとる。朝食サービス時間ギリギリの9時半近くに母がくるみ豆腐づくりを終えてホテルにもどり朝食をとる。

私はホテルを出ると、一度大文字屋に寄り、お手伝いに来てくれているみゆきさんと3月いっぱいで退社となるミっちゃんにお菓子を差し入れ。「あらぁ、そんなごどしねくていいのに~」と言うミっちゃんに、「いやあ~、気持ち、気持ち。」と私。お二人にはそんなどころではなく世話になっているのだ。

この後、恵美子さんのお見舞いに佐藤外科に向かう。佐藤外科を訪れるのも何十年ぶりかである。建物の場所は変わっていないが、玄関口は白を基調として明るくなってかなり様子が変わっていた。ただ「外科」の騒然とした雰囲気はかすかに残っていた。

恵美子さんの部屋は2階の奥と聞いていたので、エレベーターで2階へ。部屋にたどり着く前に廊下で恵美子さんを発見。お見舞いの菓子折を渡し、そのまま廊下のソファで話す。けがのこと、お店のこと、兄のこと、母のこと、恵美子さん方のおじ様のこと、などなどお話しした。けがは右足の小指付近の骨折で、複雑骨折ではないとのこと。私は金属プレートを埋め込むと聞いていたので、てっきり複雑骨折かと思っていたので、意外だった。ただ粉砕骨折的な要素が多少あるとのこと。部位や折れ方から、プレートで固定することが適切という診断だったようである。1月14日に負傷(市場で振り返りざまに右足だけフォークリフトに轢かれる)。脚が3倍にぐらいに腫れたので、腫れが引くのを待って1月22日に手術。手術は問題なく成功し、以後順調に回復。2月20日頃退院。ところが、大文字屋で大規模漏水。高熱を発して再入院。大文字屋に近い佐藤外科に転院という経過である。

入院中は見舞いに訪れたいろいろな方から「休めっていうことだから、ゆっくり休みなさい。」と度々言われそうである。私も同じことを言おうと思っていたので、「いや、ホントそうだよ。」 走り詰めに走ってきた恵美子さんへのつかの間の、そして必要な休息だったのだと思う。

だいぶゆっくりできたせいか、肌つやもよく、健康そうでなによりである。

足に痛みはないが、プレートが入っている分だけ「足裏に餅が一枚くっついてる」感じだそうである。

3~6か月以内に様子をみてプレートを取り外す手術があるとのこと。21日に退院したとのことだが(モコちゃんからもその旨のメールをいただいた)、とにかくプレートを取り出す手術とその予後まであるのであるから、それまでは大事にしてほしいと思う。まあこの年になると、ちょっとした躓きが大きな傷病のもとになるものだから、くれぐれも気をつけてほしい。

恵美子さんの元気な顔を見て安心して佐藤外科を出て、今度は称法寺へ向かう。

お彼岸の土曜日とあって、墓参の人影が多く見られた。前日に母と兄が花を供えていたので私は墓の草取りと掃除。ちょっと墓石に苔がついていたので、次回はタワシを持参せねばなるまい。お線香をあげて拝む。

私は拝む時に何も考えない。心を「無」にする。こうやって拝むことは、亡き人を思い出すためというより、この人がこの世にいないことを確認するためであるように思われる。そうして私もいつかはこうなることを思い出すためでもある。少なくとも私にとっては。そしてそれは決して悪いことではない。なぜならそこまで知って初めて生の意味と価値は問うことができるからである。

その後、墓碑『佐藤歴代法号碑』の記録を転記。実は、家にあった点鬼簿とこの墓碑の記録には、祖父の英雄の次男として「昭司」の名前があり、昭和5年1月19日に亡くなったとある。これに対して今回手にした憲ちゃんの戸籍謄本には父英雄との続柄に「二男」とあって、両者は矛盾するのである。何がどうなってこういうことなっているかわからないが、今のところわかっているのはそういうことである。

以下(その2)に続く


付記

Youtubeを開くと「あなたへのおすすめ」というのが自動的に選択されて画面に出ますが、ちょいちょい「石巻」を検索しているせいか、こんなもの見つけました。

>http://www.youtube.com/watch?v=ABf6B9kHRcA&feature=grec
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