第28回目(2009・1・9作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
「帰って恋、かもめのジョナサン」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104
久し振りに若い頃の愛読書を思い出して、書斎に本を取りに行きました。
すると、カバーの間からB5版の紙片が3枚、はらりと落ちました。
それは、今から30年以上前に書いたその本の感想文でした。
「1974年6月記」と書かれていますから、
私がまだ21歳の青春時代のものです。
当時私は仕事をしながら、東京の夜間大学に通っていました。
懐かしさと共にその感想文を読み進むうちに、
当時考えていたこととほとんど変わっていないことを発見して、
嬉しくなりました。
成長していないなあというマイナス面ではなく、
心は若い時と同じだと思えたからです。
だからと言うわけではありませんが、
新年を迎えるに当たって相応しい内容なので、
是非皆さんにも読んでもらいたくなりました。
お付き合い下さい。
リチャード・バック著「かもめのジョナサン・リビングストン」です。
まさに21歳の視点で書かれています。
敢えて手を加えずに、当時の文章をそのまま掲載します。
少々文章が稚拙、お堅いところは若さに免じて許してやって下さい。
でもやはり若い!
元気があります!!
(我が家のみみとまり)
『
リチャード・バック原作の「かもめのジョナサン・リビングストン」が
アメリカで1970年に出版され、空前のベストセラーになった。
我が国でも今年、五木寛之氏の翻訳で出版され、
これも異常な売れ行きをみせている。
私はこの作品を、
1973年の雑誌「リーダーズ・ダイジェスト4月号」で読んだのが始めてだったが、
今年になって五木寛之の翻訳版で再び読んだ。
その読後感は実に清々しいものであり、
生の充実感さえ覚えてくるものだった。
この作品をこれから、
私の感想を織り込みながら紹介したいと思う。
この物語は第1章から第3章まであり、
その第1章には、まだ子供のジョナサンの飛行練習の様子が描かれている。
かもめ達にとって飛ぶことは、単にえさを得るための一手段にすぎないが、
ジョナサンにとっては生きることそのことだった。
骨と羽だけになっても、なお飛ぶことに執拗なジョナサンは、
あらゆる困難と危険にもめげずに、ついに高等な飛行技術を身につける。
だが、それがかもめの世界の掟をおかす行為とされてしまう、
というのが第1章の要約である。
このジョナサンの飛行練習の描写は、
生き生きとしており、目の前にその姿が浮かんでくるようである。
これは、リチャード・バックの職業であるパイロットからくるものであろう。
この物語が、
アメリカのベストセラーの一覧で「ノンフィクション」に分類されているのは、
この1章を読む限りにおいて頷ける。
そしてまた、ジョナサンのスピードへの飽くなき挑戦の中に、
著者がアメリカ人であることを強く感じる。
それは、あの広大無辺な土地の開拓者であるアメリカ人のフロンティア精神であり、
不可能への勇敢な挑戦である。
ジョナサンにとって、
食べることよりも大切な飛ぶことは何よりも好きなことであって、
追放されてまでもなお追求してやまない実現へ向かっての理想であり、
生きることの意味であった。
ここに我々は、
漠然と生きている無気力化した夢を持たぬ現代人への、
すなわち我々への批判を感ぜずにはいられない。
生きることの真の意味を問う、重要の章であると思う。
(我が家のゼラニューム)
第2章では、
ジョナサンより優れた飛行技術を持っているかもめに導かれて、
飛行こそ最大の目標であるという別世界へ行き、そこでの話である。
ここで、ジョナサンは単に速く飛ぶだけでなく、
時間を超えて飛ぶことの出来る特別の訓練を受け、これを習得する。
ジョナサンの指導者である老人のチャンに、
考えると同時に行きたい所へ行く秘訣は、
「自分の本性が実は空間と時間を超えたもので、
あらゆる場所に同時に存在することが出来ると認識することだ。」
と教えられる。
考えると同時に行きたい所へ行く。
この瞬間移動は、非現実的に見えて、
案外そうではないかも知れない。
ライト兄弟の時代に、
ましてそれよりも前の時代に、
今日の超音速ジェット機が考えられたであろうか。
1903年、ライト兄弟が、
空を飛ぶという不可能と思われていたことを12秒とはいえ実現してから、
たった70年くらいで今日の高度な技術があるのだから、
我々にとって不可能と思えることは
必ずしも不可能ではないことに思い当たるだろう。
そして、チャンが言った「出来ると認識すること」は、
どんなことをする時にも必要なことではないだろうか。
夢や理想がそれ以上に発展・実現しないのは、
それを想像するだけで諦めてしまうせいではないのか。
「出来る」と認識して、初めて人はそれに着手し実行する。
成功・失敗は、第2次的なもので、着手しなければ何も生まれてこない。
ジョナサンの大好きな空を飛ぶということは、
彼をしてスピードを追求せしめ、必ず出来るという精神に支えられて、
ついに瞬間移動という完全な速度、
つまり限界のない速度をマスターする。
この章でも、より充実した生を営むために夢や理想を持ち、
それを実現可能なものとして実行して行くところに、
生きることの意味があることを我々に教えている。
(我が家の土手、昨年夏に突然切られてしまったニセアカシアの木)
第3章では、完全な速度を会得したジョナサンは、
かつて自分を追放した仲間達のいる所へ
生きることの意味を教えるために戻ってくる。
ジョナサンは、迫害されながらも、
次第に彼の後に続く弟子を増やしながら、親切の愛の実践をする。
このジョナサンの愛と親切の実践は、
キリスト教でいうアガペー以上のものがあることに着目したい。
それは、追放され迫害されながらもなお、
かもめ達のために生きようとする強い姿勢と、
そうすることがジョナサンにとって自己犠牲によるものではなく、
喜びであり生を全うすることであったということだ。
「自分を生かし他人を生かす。また、他人を生かし自分を生かす。」式の生き方には、
真の生き方があるように思える。
ジョナサンの愛は、苦をとり楽を与える点で仏教の慈悲に近いが、
そこに甘えはない。
苦をとり楽を得るのは、
結果的に自分自身であることを、この物語は教えている。
やがて、ジョナサンは、後を弟子のフィッシャーに託して飛び去って行く。
ジョナサンがこの後、再び愛と親切の実践の飛行に、
そしてそれを知るために出発したことは容易に想像し得る。
ジョナサンは、フィッシャーに
「私のことを神だというような馬鹿な噂が広がらないように気をつけてくれ。
私はかもめだ。飛ぶことの好きな・・・」と言い残して行くが、
これはジョナサンの謙遜ではなく心情であったと思う。
フィッシャーは、ジョナサンとて彼と同じかもめであり、
神聖な存在ではないことを、ジョナサンと同じ指導的立場に立った時に悟る。
この時、フィッシャーは、「出来る」という認識と努力次第で、
ジョナサンと同じように、
否、それ以上の飛行技術を会得し得ることに気が付いたのである。
その時、彼には愛と親切の意味も悟られてくるのだった。
一見小説の体裁をとるこの物語は、多くの真理を含み、多くの教訓に満ちている。
この物語が強者のものであるところにいくらかの問題が残るであろうが、
自分勝手な夢のない人間が増えて行く現代社会において、
我々にこの物語は、勇気と希望を与え、そして愛と親切の意味を、
生きることの真の意味をあらためて考えさせてくれることは間違いない。
「1974年6月記」』
毎週木曜日夜9時連続テレビドラマ、倉本聡の「風のガーデン」が終了して、
昨日から山田太一の「ありふれた奇跡」が始まりました。
二人とも大好きな脚本家です。
テーマ曲は、エンヤの「ありふれた奇跡」です。
間違いなく、大ヒットしそうです。
また、毎週木曜日が待ち遠しくなりそうです。
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
「帰って恋、かもめのジョナサン」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104
久し振りに若い頃の愛読書を思い出して、書斎に本を取りに行きました。
すると、カバーの間からB5版の紙片が3枚、はらりと落ちました。
それは、今から30年以上前に書いたその本の感想文でした。
「1974年6月記」と書かれていますから、
私がまだ21歳の青春時代のものです。
当時私は仕事をしながら、東京の夜間大学に通っていました。
懐かしさと共にその感想文を読み進むうちに、
当時考えていたこととほとんど変わっていないことを発見して、
嬉しくなりました。
成長していないなあというマイナス面ではなく、
心は若い時と同じだと思えたからです。
だからと言うわけではありませんが、
新年を迎えるに当たって相応しい内容なので、
是非皆さんにも読んでもらいたくなりました。
お付き合い下さい。
リチャード・バック著「かもめのジョナサン・リビングストン」です。
まさに21歳の視点で書かれています。
敢えて手を加えずに、当時の文章をそのまま掲載します。
少々文章が稚拙、お堅いところは若さに免じて許してやって下さい。
でもやはり若い!
元気があります!!
(我が家のみみとまり)
『
リチャード・バック原作の「かもめのジョナサン・リビングストン」が
アメリカで1970年に出版され、空前のベストセラーになった。
我が国でも今年、五木寛之氏の翻訳で出版され、
これも異常な売れ行きをみせている。
私はこの作品を、
1973年の雑誌「リーダーズ・ダイジェスト4月号」で読んだのが始めてだったが、
今年になって五木寛之の翻訳版で再び読んだ。
その読後感は実に清々しいものであり、
生の充実感さえ覚えてくるものだった。
この作品をこれから、
私の感想を織り込みながら紹介したいと思う。
この物語は第1章から第3章まであり、
その第1章には、まだ子供のジョナサンの飛行練習の様子が描かれている。
かもめ達にとって飛ぶことは、単にえさを得るための一手段にすぎないが、
ジョナサンにとっては生きることそのことだった。
骨と羽だけになっても、なお飛ぶことに執拗なジョナサンは、
あらゆる困難と危険にもめげずに、ついに高等な飛行技術を身につける。
だが、それがかもめの世界の掟をおかす行為とされてしまう、
というのが第1章の要約である。
このジョナサンの飛行練習の描写は、
生き生きとしており、目の前にその姿が浮かんでくるようである。
これは、リチャード・バックの職業であるパイロットからくるものであろう。
この物語が、
アメリカのベストセラーの一覧で「ノンフィクション」に分類されているのは、
この1章を読む限りにおいて頷ける。
そしてまた、ジョナサンのスピードへの飽くなき挑戦の中に、
著者がアメリカ人であることを強く感じる。
それは、あの広大無辺な土地の開拓者であるアメリカ人のフロンティア精神であり、
不可能への勇敢な挑戦である。
ジョナサンにとって、
食べることよりも大切な飛ぶことは何よりも好きなことであって、
追放されてまでもなお追求してやまない実現へ向かっての理想であり、
生きることの意味であった。
ここに我々は、
漠然と生きている無気力化した夢を持たぬ現代人への、
すなわち我々への批判を感ぜずにはいられない。
生きることの真の意味を問う、重要の章であると思う。
(我が家のゼラニューム)
第2章では、
ジョナサンより優れた飛行技術を持っているかもめに導かれて、
飛行こそ最大の目標であるという別世界へ行き、そこでの話である。
ここで、ジョナサンは単に速く飛ぶだけでなく、
時間を超えて飛ぶことの出来る特別の訓練を受け、これを習得する。
ジョナサンの指導者である老人のチャンに、
考えると同時に行きたい所へ行く秘訣は、
「自分の本性が実は空間と時間を超えたもので、
あらゆる場所に同時に存在することが出来ると認識することだ。」
と教えられる。
考えると同時に行きたい所へ行く。
この瞬間移動は、非現実的に見えて、
案外そうではないかも知れない。
ライト兄弟の時代に、
ましてそれよりも前の時代に、
今日の超音速ジェット機が考えられたであろうか。
1903年、ライト兄弟が、
空を飛ぶという不可能と思われていたことを12秒とはいえ実現してから、
たった70年くらいで今日の高度な技術があるのだから、
我々にとって不可能と思えることは
必ずしも不可能ではないことに思い当たるだろう。
そして、チャンが言った「出来ると認識すること」は、
どんなことをする時にも必要なことではないだろうか。
夢や理想がそれ以上に発展・実現しないのは、
それを想像するだけで諦めてしまうせいではないのか。
「出来る」と認識して、初めて人はそれに着手し実行する。
成功・失敗は、第2次的なもので、着手しなければ何も生まれてこない。
ジョナサンの大好きな空を飛ぶということは、
彼をしてスピードを追求せしめ、必ず出来るという精神に支えられて、
ついに瞬間移動という完全な速度、
つまり限界のない速度をマスターする。
この章でも、より充実した生を営むために夢や理想を持ち、
それを実現可能なものとして実行して行くところに、
生きることの意味があることを我々に教えている。
(我が家の土手、昨年夏に突然切られてしまったニセアカシアの木)
第3章では、完全な速度を会得したジョナサンは、
かつて自分を追放した仲間達のいる所へ
生きることの意味を教えるために戻ってくる。
ジョナサンは、迫害されながらも、
次第に彼の後に続く弟子を増やしながら、親切の愛の実践をする。
このジョナサンの愛と親切の実践は、
キリスト教でいうアガペー以上のものがあることに着目したい。
それは、追放され迫害されながらもなお、
かもめ達のために生きようとする強い姿勢と、
そうすることがジョナサンにとって自己犠牲によるものではなく、
喜びであり生を全うすることであったということだ。
「自分を生かし他人を生かす。また、他人を生かし自分を生かす。」式の生き方には、
真の生き方があるように思える。
ジョナサンの愛は、苦をとり楽を与える点で仏教の慈悲に近いが、
そこに甘えはない。
苦をとり楽を得るのは、
結果的に自分自身であることを、この物語は教えている。
やがて、ジョナサンは、後を弟子のフィッシャーに託して飛び去って行く。
ジョナサンがこの後、再び愛と親切の実践の飛行に、
そしてそれを知るために出発したことは容易に想像し得る。
ジョナサンは、フィッシャーに
「私のことを神だというような馬鹿な噂が広がらないように気をつけてくれ。
私はかもめだ。飛ぶことの好きな・・・」と言い残して行くが、
これはジョナサンの謙遜ではなく心情であったと思う。
フィッシャーは、ジョナサンとて彼と同じかもめであり、
神聖な存在ではないことを、ジョナサンと同じ指導的立場に立った時に悟る。
この時、フィッシャーは、「出来る」という認識と努力次第で、
ジョナサンと同じように、
否、それ以上の飛行技術を会得し得ることに気が付いたのである。
その時、彼には愛と親切の意味も悟られてくるのだった。
一見小説の体裁をとるこの物語は、多くの真理を含み、多くの教訓に満ちている。
この物語が強者のものであるところにいくらかの問題が残るであろうが、
自分勝手な夢のない人間が増えて行く現代社会において、
我々にこの物語は、勇気と希望を与え、そして愛と親切の意味を、
生きることの真の意味をあらためて考えさせてくれることは間違いない。
「1974年6月記」』
毎週木曜日夜9時連続テレビドラマ、倉本聡の「風のガーデン」が終了して、
昨日から山田太一の「ありふれた奇跡」が始まりました。
二人とも大好きな脚本家です。
テーマ曲は、エンヤの「ありふれた奇跡」です。
間違いなく、大ヒットしそうです。
また、毎週木曜日が待ち遠しくなりそうです。