うつ解消マニュアル(脳及び心疾患・癌・認知症・更年期障害等々)

医者や薬は、むしろ症状を悪化させます!
治すのは、自分自身です! 
1回目並びにQ&A及び解説も、必ず読んで下さい!

第29回目 「最後の年賀状」「1984年から2009年までの25年間」

2009年01月09日 23時33分33秒 | 「最期の年賀状」
うつ解消マニュアル
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)

第29回目(2009・1・9作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)

「最後の年賀状」
「1984年から2009年までの25年間」

グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104



(我が家のカサブランカ)



「世間を騒がせるような嫌な事件は、いつの時代もありました。
そのようなケースは本当は少数なのに、
メディアが大々的にとりあげるものだから、
そこまで事件を起こさない人までもが、
それをお手本にして行動してしまうのではないかしら。
まともな生き方はニュースにならないけれど、
そちらの方が大多数であることを、信じましょうよ。」
(「ターシャ・テューダーの言葉 生きてることを楽しんで」より)

これは今年の年賀状に書いた、心に沁みた言葉です。
1年間の締めくくりに、
その年に一番心を動かされた言葉を書いています。

でも考えるところがあって、
この年賀状も今年で最後にしました。
最後にしたのは、年賀状そのものです。

25年間続けてきたことなので、正直、随分迷いました。
しかし、エイ!と気合いを入れて、サッパリとやめました。

そこで過去を振り返り、
どんな本を読んで来たのかを年賀状を中心に、
時系列で紹介したいと思います。
気に入ったもの、関心が沸いた本があったら、是非読んで下さい。



(北海道旭川市、花菜里ランド)


始まりは、
1984.1.1(30歳)の年賀状でした。
『熟せば、ヤシは葉も実も落とす。
パパラギの生き方は未熟なヤシが、
葉も実もしっかりかかえているようなもの。
「それはおれのだ!持って行っちゃいけない。食べちゃいけない。」
それじゃどうして、新しい実がなる?
ヤシの木の方が、パパラギよりも、ずっとかしこい。』
(「パパラギ」はじめて文明を見た、南海の酋長ツイアビの演説集から)
  

1984.4.1(30歳)、札幌から旭川への転勤時の挨拶状から。
『[絶望をくぐらないところに、ほんとうの優しさはない]
といった老哲学者林竹二氏の言葉が、今、鮮やかによみがえる。
その言葉が、ぼくを刺しつらぬく。
いまさらにぼくは思うのだ。
ぼくをそだててくれた優しき人々の孤独と絶望を食べて、
ぼくは生きてきたのだったと・・・。』
(灰谷健次郎著「わたしの出会った子どもたち」より)


1985.1.1(31歳),年賀状から。
『自分に何ができるかは、
すべて、自分がどんな人間であるかに掛かっている』
(フローレンス・ナイチンゲールの言葉)


1986.1.1(32歳),年賀状から。
『星くずが、星について考えている。』
(カール・セーガン著「コスモス」より)


1987.1.1(33歳),年賀状から。
『ひとは意識しないで無感動の時代に生きている。
それこそが諸悪の根源なのだ。』
(灰谷健次郎著「いま島で」より)


1987.4.1(33歳)、旭川から釧路への転勤時の挨拶状から。
『人はみな うれしなみだが流れるまで 旅人です』
(灰谷健次郎著「いま島で」より小学生S君の詩)


1988.1.1(34歳)、年賀状から。
『ずんぶり温泉の中の顔と笑ふ』
(大山澄太著「俳人山頭火の生涯」より)


1989年1.1(35歳)、年賀状から。
何故か、妻と私の文章のみ。


1990.1.1(36歳)、年賀状から。
『ひとりきりの湯で思うこともない』
(大山澄太著「俳人山頭火の生涯」より)


1991.1.1(37歳)、年賀状から。
「人間は擦り切れることなんかないんだ。」
(ボストンマラソンで55回目の完走を果たした、
82歳のジョニー・ケリーさんの言葉)


1991.11.1(38歳)、
釧路から北見への転勤時の挨拶状から。
再び、
『人はみな うれしなみだが流れるまで 旅人です』
(灰谷健次郎著「いま島で」より小学生S君の詩)


1992.1.1(38歳)、年賀状から。
何故か、妻と私の文章のみ。


1993.1.1(39歳)、年賀状から。
何故か、妻と私の文章のみ。



(北海道旭川市、花菜里ランド)


1994.1.1(40歳)、年賀状から。
『「何のために生きるのか」ではなく、「生きる」ことがすべてである。』
(「私の健康マラソン記」より、
乳癌から再起して走り続ける 鈴木芳子さんの随筆から)


1994.4.1(40歳)、北見から旭川への転勤時の挨拶状から。
『お話の中で一番楽しいこと。
それは次回に続くということ。
未来には、いつも楽しいことが待っている。」
(「おばあちゃんの贈物・ニューヨークのクリスマス物語」より)


1995.1.1(41歳)、年賀状から。
『希望は失望に終わらない』
(聖書「ローマの信徒への手紙5章1-5節」より)


1995.4.1(41歳)、旭川から砂川への転勤時の挨拶状から。
何故か、文章のみ。


1996.1.1(42歳)、年賀状から。
『今が大事だった。
先行きのことは分からないのだから、
先行きのために今を大切にしないのは馬鹿げている。』
(山田太一著「せつない春」より)


1997.1.1(43歳)、年賀状から。
『脳内革命とは・・・それは、生きる楽しみの発見でもあります。』
(春山茂雄著「脳内革命」より)


1997.12.1(44歳)、砂川から留萌への転勤時の挨拶状から。
何故か、文章のみ。


1998.1.1(44歳)、年賀状から。
『人は幸せになるために生まれてきたのです。』
(つかこうへい著「人は幸せになるために生まれてきたのです」より)


1999.1.1(45歳)、年賀状から。
『「頭のいい人」などというものは存在しない。
考えて考えぬく、
その事が頭がいい人と言われる人をつくる。』
(道教大旭川校分校主事 本間謙二さんの‘98大学一般公開講座より)


2000.1.1(46歳)、年賀状から。
『問題ばかりを見ていると、答えが目に入らない。
人に見えないものを見ろ、
恐れと怠惰で人が見ようとしないものを。』
(映画「パッチ・アダムス」より)


2000.4.1(46歳)、留萌から旭川への転勤時の挨拶状から。
『愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。』
(アントン・チェーホフの言葉)


2001.1.1(47歳)、年賀状から。
『金メダルをとった翌日、いつもの朝のジョギングで・・・
「朝の風はいつもの風と同じで、自然は何も変わっていない。
だから、私も変わってはいけない」と思った。』
(高橋尚子、NHKのインタビューに答えて)


2001.11.1(48歳)、年賀欠礼状から。
『私が生まれた時、みんなは喜び微笑んでいた。
泣いているのは、私一人だけだった。
私が死んだ時、みんなは悲しみ泣いていた。
喜び微笑んでいるのは、私一人だけだった。」
(この年の6月、義父が亡くなった。
確か、その時に葬儀屋さんからもらった紙片にあった文章)


2003.1.1(49歳)、年賀状から。
『陽気になる秘訣は、
あすはきっと良くなる、と思いこんで暮らすことです。』
(司馬遼太郎著「功名が辻」より)


2003.4.1(49歳)、旭川から札幌へ転勤。
文章のみ。  

(「うつ解消マニュアル」が出来るまでの経過説明)

1 この年の6月初めにはうつ症状が出始め、7月8日初受診、「抑うつ状態」と診断される。

2 医者と薬への不信感から、翌年3月4日、自己判断で医者と薬をやめる。

3 その後、2006年3月までの3年間、うつとの孤独な闘いをすることになる。

つまり、たった3ヶ月あまりでうつ状態が悪化し、その後3年間の辛く苦しい孤独な闘病生活(医者と薬頼みは、幸いなことに約9ヶ月で終了)を強いられたわけです。

4 2006年3月末には軽快、ほぼ完治。

5 2006年4月に「うつ解消法」を完成。
「うつ解消法」を作成し、知人友人らに配布。
相談も含め、効果あり声多く、他の人にも役立てたいとの気持ちが大きくなり、啓蒙方法模索。

6 2007年7月1日、「うつ解消マニュアル」としてグーのブログを開設。
第1回目の「うつ解消マニュアル」と「自己紹介」に詳しく書きました。



(北海道旭川市、花菜里ランド、スモークツリー)


2003.10.1(50歳)、札幌から旭川への転勤。
文章のみ。


2004.1.1(50歳)、年賀状から。
何故か、妻と私の文章のみ。


2005.1.1(51歳)、年賀状から。
『花無心にして蝶を招き
蝶無心にして花に至る』
(良寛和尚の言葉)


2006.1.1(52歳)、年賀状から。
『おもしろき事もなき世をおもしろく
住みなすものは心なりけり』
(高杉晋作の言葉・・チョット説明をすると、
「住みなすものは心なりけり」の下の句は、野村望東尼が付けたものです。
高杉晋作はこれを聞いて、「面白いのう」と笑って、息絶えたということです。)


2007.1.1(53歳)、年賀状から。
『わたしが学んだのは、目的地ではなく道中を楽しむこと、
そして人生には予行演習はなく、毎日が本番だということです。』
(アナ・クィンドレン著「幸せの扉」より)


2008.1.1(54歳)、年賀状から。
『各人はその考え次第で幸福にもなり、不幸にもなる。
他人が見てそう思う人ではなく、
自分でそう思う人が満足なのである。』
(モンテーニュ著「随想集(エセー)」より)



如何でしたか。

毎年の年賀状は、この言葉を挟んで、
上に私の近況を、下には妻の近況を書いていました。

社交辞令かも知れませんが、年賀状交換していた人には結構評判が良く、
次の年が楽しみだとわざわざ書いてくれた人がほとんどでした。
添え書きのある人の方が多かったのですが、
義理賀状(添え書きのない年賀状を私はこう呼んでいました)もあるのです。

この年齢になると、義理賀状の必要性も分からないわけではないのですが、
自分に渇を入れるためにも区切りをつけてやめることにしました。

来年からはこのブログやメール等で挨拶をしたい旨を書いて、
最後の年賀状としました。

25年間も続けてきたことなので正直悩みましたが、
やはり少し寂しい思いが残ります。

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