蓼食う虫ブログ

ごとうしのぶ先生に送ったメール

 はじめまして。ごとうしのぶさん。スタッフの皆さん。

 私は、数年前に、「タクミくんシリーズ」にであいました。映画(第一弾)を見に行ってすぐ、(マンガを含めて)全巻を買い、2度3度めをとおしました。今では、発売日ちかくになったら、機会があれば、本屋を見て回ってます。たいていは公式発売日の3日まえくらいにデパートで買います。

 私は、葉山託生くんの「人間接触嫌悪症」は、親の言葉をはじめとする、社会にあふれる言葉を「文字通りに」受け止めることに端を発していると思います。ギイくんは、周りの人たちに託生くんのことを理解してもらおうと思ってそうした造語を託生君に与えたんだと思います。決して、レッテルを貼って、周りの人々を巻き込んでいじめようとしたのではありません。「暁」とか「春風」では、そういう描写がありますよね。託生くんは、ギイくんのそういうところをありのまま等身大で愛しているんじゃないかと思っています。

 わたしは、人付き合いが苦手で、ずっと苦しんでいました。(私が友達だと思っている)友達は、信用できますが。母親に連れられて精神科医に見てもらいましたらば、自閉症より軽い発達障害の「特定不能の広汎性発達障害」との診断を受けました。自閉症と、「広汎性~」の間に、アスペルガー症候群って言うのがあるらしいです。いわゆる「KY」ってやつです。私は、そうしたレッテルをはっていじめることがとても嫌いです。(もちろん、ギイくんのような方は好きですが。)でも、みんなでそんなことをやり続けているように思います。「KY」とか「草食系」とか「産む機械」「ホモ」「腐女子」などなど、キリがありません。しかも、そういう多数派を適切に批判する人々があまりにも少ないように思います。そんなこんなで戦争とかいじめとか、虐待とか犯罪とかが、起こってしまっているんじゃないかと思っています。

 ごとう先生は、そんな危機感をオブラートに包んで作品として提出なさっているんじゃないか、と、私は信じています。私は、遅ればせながら(あまりにも遅すぎた)、社会に対する怒りを親にぶつけてしまいました。反抗期ってやつです。私は、オブラートに包まずあけすけに言ってしまうので(麻生くんとか野沢君とか中郷くんとかと、そういうところは共通しているように思います)、言葉を文字通りに受け取るような母親をとんでもなく怒らせてしまいました。あやうく母親を犯罪者にしてしまうところでした。「出て行け!!!!!!!!!!!」といわれたので(そのとき、ああ、この人は、託生くんの昔のお母さんみたいだ、と思いましたので)、素直に別居している父親のところに逃げ込みました。もしかして父親の家は私にとっての祠堂?

 私が何も言わなければ親子関係に波風は立たなかったのに、とは思うものの、子供に反抗期がないと、親は自分のことを、子供に対する神、とか支配者だ、と錯覚してしまうように思います。(親に、あるいは人類に、もともと「自己」批判精神があればそのような錯覚も生まれないのでしょうが。)

 タクミくんシリーズはバイブルになりえますが(私にとっては紛れもなくそうだから)、でも宗教だとは思っていません。そういうふうにしたくありません。自分が言っていることはすべて正しいとか、聖書やコーランや、儒教や仏教の経典(?)などに書いてあることがすべて正しくて、神はひとりで、しかも神の御意思を自分はすべて理解している、などと思うのは、それ自体が「神」に対する侮辱であり、あるいは自分は百パーセントノーマル(普通)の「完全発達者だ」だという傲慢さにつながるのだろうと思います。

 わたしは、今年の4月に、一型糖尿病が発覚し、(合併症の検査などのために)10日ほど入院しました。テレビも新聞もないところで(つまりメディアと離れたところで)ひっそりとそんなことをずっと考えていました。守られてるって思いました。生きられるだけですばらしい、ということの意味が、病気になってはじめて「本当に」実感できました。「人生ってみっともない」と、確か「虹色の硝子」オフィシャルフォトブックのインタビューでおっしゃっていましたよね。プラスして、でも人生って悲観的に生きてるとつらいよねってことですよね。

 また、利久くんが「美貌のディテイル」の始めでいっていた「託生的発想」は世界を救うんじゃないか。タクミくんがみんなに好かれる理由ってそういうことなんじゃないか。入院中、タクミくんシリーズに対して、また、社会に対して、人間に対して、いろんなことを想い、「タクミくん」に出会ってよかったなあ、と涙がどっとあふれました。今でもそんなことを思っては、涙が出てきそうになることがあります。

 私は、四半世紀しか生きていません。(今年26の男です)。母親は半世紀も生きてますが、私と彼女のどちらが正しいか、よくわかりません。そんなこと、いってはいけないのではないか、と思います。私の親も、社会の犠牲者なんじゃないか、と思います。みんな(私も含めて)加害者であり、被害者でもありうるんだ、なんて思います。言葉はとても怖いものだと思います。「はじめに言葉ありき」ですね。人間の教養は、言葉と、その捉え方で決まるかと、おこがましくも思います。言葉は人間で、人間は言葉です。文は人なり、人は文なり、といったところでしょうか。そういえば、タクミくんには結構ことわざがたくさん出てきますよね。類は友を呼ぶ、は、そのなかでもたくさんでてきますよね。

 このメールは、どうしてもそうした想いを先生に伝えたくて書きました。お返事くださったら幸いです。お返事をくださるならば、ここに書いてあることに対してひとつずつ○×をつけてくださるだけでも結構です。私のタクミくんシリーズ「観」を完成したいんですから。修正の必要があれば、あるいは先生のお考えを補足してくださるならば、よろしければお願いいたします。

 このメールは長文を書きやすいほうのパソコンで書いていますが、知人には、メールは携帯(友達が少ないので、そもそもあまり使いませんが)のほうに送ってもらっていますので、そのアドレスを下に書いておきます。お手紙のほうがいいかもしれませんから、住所も書いておきます。(略)

 祠堂学院高等学校、学生寮の窓枠にある「S」の文字を、彼らの感情を、私がタクミくんシリーズ内にもしも見出せているとしたら、ごとう先生が私のタクミくんシリーズ「観」を認めてくださるならば、私のそういった社会に対する疑問をいつかみんなに「本」などのちゃんとしたメディアで伝えたいなあ、そうすることができたらなあ、と思っています。それをできればもちろん、ぜーーーーーーーーーーーったい「角川」系で書きたいとおもっています。

 それでは、みなさん。「ごゆるり」と、お仕事よろしくお願いいたします。年に何冊出版しているか、というのは、作家の「質」には「まったく」関係ないのですから。そういう私の思いを数少ない友人にも伝えたほうがいいのかな?あるいは世界の「中心」で愛を叫んだほうがいいのかな?

 タクミくんシリーズを心の支えにしている、いちファンより。                   木本 圭一(http://blog.goo.ne.jp/keipon1112)

コメント一覧

A・M
こんにちは。ブログ、興味深く拝見させていただいております。
「タクミくんシリーズ」。託生とギイを中心とした青春群像劇の中で、深く心に染み入る多くのことを、とても平易な言葉で、イタイこともキツイことも全体を貫くトーンはあくまでも柔らかい印象で描いている、とても素敵な作品ですよね。
けいぽんさんの人生の道程で、今、この作品とその言動が必要なのだろうと、受けとめています。
――どんな人でも典型的なまでに人でしかない、と言ったら、けいぽんさんは不愉快に思うでしょうか。ブログを拝見していて、多様性を求めるけいぽんさん自身が、多様性を認めることができないでいる印象を受けてしまうのが……惜しいですね。もちろん、そんなことはないのでしょうし、言葉での主張ゆえにどうしても起こりがちなことではあるのですが。
けいぽんさんの道程における、いち現象。歳月を重ねていくことで、よりよい形で熟成していきますように。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「タクミくん」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事