新迂路回帰線~鬱病からのナースマン復活&株式投資奮闘劇・・・

看護師として、そして株トレーダーとして、成功を収めるべく日々奮闘していく馬鹿馬鹿しい日記・・・

ビデオを見る前に・・・・

2006年03月13日 13時01分28秒 | 迂路回帰線
久々に、昔の事を書いてみたいと思います。

写真↑にあるような資料というか雑誌(プチナースという看護学生用の雑誌)をよく見ていました。まだ見ていないものもあると・・・・・見なきゃ。これも受かったら持って行きます。

うーん、つまり、昔の事を書くときりが無いのですがね

ただ言えるのは、看護師にNSあおいの様な人は

「殆どいません」

が真実です。実際にあんなに果敢に医師に立ち向かっていくのは素晴らしいし、尊敬できるのですが、あんな勇気をもった人間、知性的な人間は私の学校にはいませんでした。

ちなみに模試だけみれば全国平均値でしたよ、ウチのあほ学校は。

実習でのお話を一つしたいと思います。

とある実習で、女子4人に男の私一人、のグループでカンファレンス(話し合い)を行いました。必ず、私がテーマを出す係りにされるんですね。何故か。

性悪な女どもが、自分の事しか考えず、非協力的な体制で、リーダーの私に協力しない。はっきり言って・・・・・・・

「20歳越えてもこれなら、将来もかわんねえんだな」

とほとほと思い知らされました。今後就職したら、こういう事が起きるのは明白ですね。私がどう耐えるか、もしくは抵抗するかですね。もし、あまりに酷くキレたら・・・・・

女であろうと「平手打ち」ばっこし入れます。マジです。まあ、そんなのがいない事を祈ってますが、絶対にいますからね。どの部署にも。あほが。

それ位酷い人間が一杯います。

看護師は白衣の天使ではないんです。

前も言ったと思うけど、彼女らの看護は基本は演技なんですね。実際は。女優なんです。私も一応そうです。アクターなのです。

あのように対応すればいい、というマニュアルに基づいて、発言・行動をしている訳で・・・裏では何をしているか分かりません。

関係はないのですが、実際に、殺人を犯そうとしたものは今年5人いたそうです。故意にです。

出てきてもおかしくナイなあ・・・・あんな人格では。

無難なヤツ。自己中心的なヤツ。媚びばっか売ってるやつ。適当なやつ。そんなのばっかです。

普通の一般社会と変わらない構造が看護界にも依然として顕在しているのです。「旧態依然」として。

ナイチンゲールは「看護とは人格である」ときっぱり言ってます。本当にその通りだと思います。

どうか、もっと人格者でありたいですね、私も。


しかし社会は人を変えます。友人もそうです。どうなるのか一体。

しかし、絶対生き残ってみせる。鬱病でもさ。

鬱病でもここまで出来るんだ!という事を見せて、鬱病の人の励みになりたい。

10年も鬱病になって、苦しみぬいて、今も苦しんでいる私だけど、必ず一人前の看護師になってみせる。

鬱病の人たちの為にも。

鬱病患者だってここまで出来る事を証明してみせる。

看護学校での出来事①

2006年02月13日 17時55分18秒 | 迂路回帰線
もう、看護学校は実質的に終わりで、後は国家試験と卒業論文の発表のみとなっております。

そんなわけで、keimei-14が経験した、看護学校というものを紹介していきたいと思います。これから学校に入学する人、特にナースマンになる人必見!!です。

まず、看護学校は(私は大学ではないのですが)「主従関係」がはっきりしています。先輩後輩ですね。これが、最も入学したときからかったるかった・・・・私は2浪してくそ学校に入学したわけですから。

で、まあ、特に女社会は縦社会といいますか、かなり男からみたら「うざい」のが多いです。まあ私の学校が酷いのもありますが。はっきり言ってこういうのは日本の最も悪い、縮図を示している様な気がします。封建的といえば分かりやすいですね。

何歳も下の子供に、普通にタメ口で名前を呼ばれるのは癪に障りますが、致し方ありません。うつ病が悪いのですから言い訳できません。学校生活は高校の延長であり、まさに、自由が利きません。大学ならば自由に選択し、自分の行きたい日に好きな科目を受けれますが、常に団体行動です。しかも4年間。そりゃ人間関係は重要になってきます。

まあ、特に男は目立つわけで、私の中では「女子高」にいる気分。病院に行けば社会人としてキチンとしている(表面上??)看護師ですが、学校時代はそりゃ凄惨極まりないものがあります。男であるこそ見えてくるものが一杯あります。私は固いほうなので、はっきり言って結構いじめの対象にはいりましたね、戦いましたけど。人間関係には苦労しました・・・

話は飛んで、俗に言う「看護ブランド」とでもいうんでしょうか。今でこそ慣れましたが、看護学生じゃよく水商売を気軽にやる女が沢山いるんです(普通の大学でもそうなのかな?)。そして、看護学生である事を売りに、NO1ホステスになっていく輩が多いのです。そんなのと一緒に学ぶのはとても嫌でした。

授業中は携帯をいじりまくり、化粧はする。鏡で常に自分を見る。など、女の見たくない部分を、強引に見せられるわけです。はっきり言って馬鹿です。これは恐らく、看護学校共通(偏差値のどうこうではなく)の現象かもしれませんね。

普通「化粧室」と言われる場所があるではないですか?いわゆるWCウォータークローゼット、トイレですよ!まず、化粧というのは英語でMAKE UP、といいますよね。受験で勉強するはずの英語ですよ。意味は「でっち上げる」という意味を含んでいます。言ってみれば化粧は「でっち上げ」です。それを公衆の面前で、確かに同姓の目の前だけどやるってのはどうかと。髪の毛とは違うでしょ顔って。日本の女ってそんなに下品なのか・・・????

アメリカで喫茶店などの座席で化粧をしている女は=娼婦と見られるそうです。自由の国アメリカでさえ、この程度の倫理は守られているのです。多分、今の日本はいかれている事が分かっていないのです。あまりに甘えているから。

まあ、私の看護学校は低俗な人間の集まりだという事になります(私の学校だけだと願いたい)。こんなんだから日本人は馬鹿にされるのでしょうね。

関係ないけど「イエローキャブ」ってあるじゃないですか。芸能事務所。あの意味って「簡単にやらせる日本人(黄色いタクシー)」って意味なんですよね。こんな言葉はやらせて、馬鹿じゃないの・・・

ホント、人の命を扱う職種なのだから、もっと倫理観を持った人間を選定すべきです。今後、看護学校はもっと入学者に対して倫理観を持つ、人間を選び、高度な職種へ変えて欲しいものです。ここで話しているのはある意味序の口です。

まあ、基本は下の世話が多い事は否めないので、特殊な人間が集まるのかもしれません・・・・看護はきっぱりいって「天使」ではないのです。ただの人間であり、看護界は極めて狭い社会ですよ。白い巨頭って医者のドラマあるけど、あれに追従している社会であると言えますよ。

この話はまた次に・・・・



一すじの光も見えない時も

2006年02月11日 17時35分32秒 | 迂路回帰線
私は、今も、うつ病です。元気な顔して、笑顔振りまいて、仮面を被って、必死に生きています。でも、今はまだましです。出口は見えかけてきている・・・・・

出口が見えないときがあった。浪人生の時期。19歳。20歳。私は死人でした。

景色が灰色に見えるんです。

その時、手は自分の手の感覚がなく、何故自分がいるのか分からない。世の中がなぜあるのか分からない。現実感がない。

2浪目の、予備校の時。いっても友達一人出来ない。人が怖い。コンプレックス。2浪もしてる自分。醜悪な顔をしていると思う自分、社会的地位が低い自分、周りが評価しない自分、心は正義を求めるけど、力なく全く無力な自分、誰も信用できない。何も、誰も、純粋ではない。汚い人間ばかり。人を蹴落とし、のし上がっていく、学歴社会、そして、人間の格差が出来上がる。

そうすると、自分は何も出来ない。自分が、いい目をみれば、他人を犠牲にする。耐えられない。人を傷つける自分に。罪業妄想。

そうすると、何も出来ない。寝て意識を消せば、その間は開放される。地獄から。生き地獄。前が全く見えない、生きたくとも、前には道はない。

登っても、登っても、谷に落とされる。アリ地獄。

そんな時期は・・・耐える。耐え忍ぶ。ひたすら。精神疾患否定して。

いつか、気が触れそうになった。発狂しそうになった。煙草をくゆらせて、異常行動に出たくなった。

これが、うつ病の実態です、発狂寸前までいった私は、クズの行く専門学校に合格する事で、ひとまず救われた。

しかし、入学後も、私は、他人の視線が気になり、常にストレスを抱え、コンプレックスを120%抱え、引け目を感じ、他人と接触を避け、いつも笑ってました。苦痛でした。

「いつも笑ってる」顔の筋肉が痛くなるほどに。その下には苦痛でゆがんでいる表情があった。今は、もうそれも終わりに近づいている。

他人とのコミュニケーションが取れない。人と話すのが怖い。対人恐怖というより「私の発言で、この人から嫌われないか?」と、いつも自分の気持ちを隠し、笑って、何も当たり障りのない事をいい、誰にも近づかない。

結局、親友なんて出来ない。「変わった奴」の烙印を押される。焼きコテで。だれもいない。怖い、怖さに、孤独に震えている私。心拍数は常に上がり、胃液は逆流し、目は死んだ魚の様な目。覇気はゼロ。成績もゼロ。看護学校生活は、苦痛で仕方なかった。

そして、実習という場でのストレス。ぴりぴりとした空気が、一層私を追い込む。
常に追い込まれ続ける。「今日は、今、何をうしなうの??」といつも震えていた・・・・。
触られるのも嫌だった。音も、何かの悪いサインに聞こえた。街灯すら、恐怖に感じた。恐怖と孤独・・・・そして絶望・・・常に続く絶望・・・耐えた。死にたいといつも願っていた。

実際、死のうと考えた。責任を取ろうと思った。浮浪者になるよりましだ。でも死ねなかった。家族が悲しむから・・・・家族がいなかったら、死んだと思う。

私は、看護学校で素晴らしい教師にあった。その人に「うつ病です」と話す事で、自分を取り返す事が始まった。まだ始まったばかりである。

精神病。私はその烙印を恐れた。異常者であるというイメージ。今でもある。今でも精神科に入る時、周りの目が、視線が気になる。怖い。でも、戦う。

自分のプライドの為に。私は、負けないんだ。もう。一人じゃないんだ。だから。絶対、他人に、自分に、勝ってみせる。

決して絶望しない。汚い世の中に。汚れて、泥にまみれて生きてやる。純粋なんていらない。純粋な人間は、弱い。他人を、弱い他人を守れない。

絶対、負けない。弱い人を守り、自分も、幸せになる。だから、あなたも負けないで。今は苦しくても、光は必ずいつか届くよ!だから諦めないで・・・

宇多田ヒカル

2006年02月10日 21時06分53秒 | 迂路回帰線
宇多田ヒカルは、過去のセールスした3枚のCD、「FIRST LOVE」「DISTANCE」「DEEP RIVER」で、ほぼ彼女を全て出し切ったと思う。才能的に。

彼女は素晴らしいセンスを持っている。滅多にいないアーティストの一人だ。しかし、誰にもピークがある。中でも「DEEP RIVER」は最高傑作である。本当に最高の作品だ。だからこそ、彼女の次からのアルバムは此れを超える事が出来ないだろう。

宇多田ヒカルの歌には、どれだけ慰められ、励まされ、力づけられたことか・・・

でも、彼女のピークは過ぎた。悲しいよ・・・なんか新曲の感覚で、終わりに近づいている事が感じられるんだよ。

「DEEP RIVER」は宗教的なエッセンスを、まずCDジャケットに白黒モノトーンでの本人アップで飾っている事を醸し出している。この「DEEP RIVER」というタイトルは、作中にもある曲なのだが、恐らく「ガンジス川」を表現していると私は推測する。小説、遠藤周作:深い河を是非ご覧あれ。ここから彼女のインスピレーションが、来ているのではないかと、推測している。

それくらい深みがある曲ばかり。また他にSAKURAドロップスなど、シングルも素晴らしいポップスが揃っている。このアルバムは後世まで残って欲しい。

宇多田ヒカルは23歳。この年齢で才能を発揮して終わる。今後は穏やかな生活をして欲しい。くれぐれもマスコミは彼女を叩かず、そっとしておいて欲しい。

勝手に、他人の事をあれこれ書いたが、尊敬と畏怖を込めて彼女のためにです・・・そしてもし知らない人がいたら是非、このアルバムを購入して欲しい。MP3や、CDRに落とさないで、歌詞ひとつまじっくり読んで欲しい。

でやあー3本立てブログ。書き過ぎた・・・でも書かなきゃ。国家試験があろうとも、描き続けます。心の奥を、文字にして、自分と対峙する為に。

クダラナイ事書いてごめんヒッキー!!陳謝!!今後もCD買うよ!!聴くよ!

いつも一緒にいたかった~♪

2006年02月09日 23時01分06秒 | 迂路回帰線
いつも一緒にいたかった♪~季節はまた変わるのに、心だけ立ち止まったま~ま。

なんて、プリプリを聴いていると(懐メロ好き)、彼女を思い出します。

うつ病最悪の時、罵詈雑言を浴びせても、一緒にいてくれた。

今でも夢を見ます。彼女と結婚したかった。

私、結婚願望ゼロです。そう彼女に辛く「おまえとなんて結婚しない!」なんていってました。

でも、ホントはすっごく好きだったんですね。あんな人もういないかも・・・・

だから、殆ど女の人が最近好きになりません。

一生独身かなあ・・それも良し、か。

それ以来です、keimei-14がお金とかに固執するようになったのは。

やっぱ、女は金についていきます。社会的地位とか年上の男とか。

「くそったれ!」です。

だから、いつか絶対、病気治して、見返してやる。あの時、俺を捨てた事、絶対に後悔させてやる!!!

可愛さあまって憎さ100倍です。その気持ちよく分かりました。

でわ、今日は。また明日~。一応このブログも誰かこっか見てくれてるみたい。見てくれんなら一応更新します!!えらそうだから陳謝!お休み!

恋愛②LOVE!定額

2006年02月06日 00時30分52秒 | 迂路回帰線
昔いた恋人のお話。

 高校生の時、(もちの論でうつ状態)だったわったしです。元気も何もありませんでした。でも、何でだか、話しやすい女の子がいたので、よく彼女とお喋りをしていましたね~廊下の隅っこの机の前で・・・・

 彼女は昔住んでいた所が同じで、私も何となく気になったんですよね、そしてデートとかしちゃった、わっけです。
 
 初デートはおうち。来た時に何故か「びーる」をだした高校生の私・・・案の定彼女は顔を真っ赤に染めて酔っ払ってしまいました。後で聞いたら緊張していたから、だった事も・・・

 そんなこんなで、それ以来、電話でいっつも長電話。なんか某携帯会社で働く父から、無料の携帯を借りたわけで・・・倒産、でなく父さんありがとう、なわけで・・・彼女と毎日2時間お喋り。。。

 彼女の好意はわかっていました。ニュアンスで何となく。。。で、私は彼女っていた事ないし、一回くらい付き合ってみたい、という好奇心で彼女にワザと「好きな人って誰~??」としつこく彼女に聞きました。彼女は「え~」と何度も「言えない・・・」と繰り返していました(大体答えはわかっていたのですがね)。その態度が、なんとも可愛かった
 
 そして、電話で告白したのは私。「(前略割愛)じゃあ付き合ってよ」というと、彼女も「いいよ」と言ってくれました。その時の光景は、電気の消えた部屋で、アニメのTVが入っていた、状況であった事を記憶しています。なんか、何とも言えない気持ちだったなあ・・・・
 
 でも、私は、彼女については結構コンプレックスを持っていた。実際は、その時は、好きじゃなかったかもしれない。彼女は美人ではなかった。可愛らしかったけど、綺麗とは言い難かったと思ってた。それで、周りを気にしながら付き合っていた訳です。

 その時、高校三年生、西暦1999年、10月、でした。雪が降る前の時期・・・

 続きはまたの機会に。勉強しなくちゃ&書いていて懐かしいアンド感慨深いね。ちょっと国家試験が近いから、あんまりブログ更新する事出来なくなりそうだな・・・。でも一日一回は最低しよう。もやっと感が少し晴れるからでわ、皆さん、明日も良い労働を!

過去~④地獄の浪人生活と蜘蛛の糸

2006年02月04日 16時26分02秒 | 迂路回帰線
一日何回更新してるんだ?いったい・・・・
でも書き込む事体に意味がある・・・
 
 過去の浪人生活、それは長きに渡る2年間、地獄の日々。癌の患者と変わらないと私は、あの時期を、振り返ります。身体的な死と精神的な死は同義です。
 
 今ではこんな簡単に振り返られます。ここが私の極限期でした。自殺一歩手前、太いロープに首を入れようとするまで、本気で考えました。今も自殺願望はありますが、今は違う意味で死ぬ事、目標に向かって死にたいです。明日のジョーみたいに。真っ白に燃え尽きて死にたい。

 さて戻り、浪人生活一年目、というか私には自分が理解できていました「勉強は出来ない」と。記憶力がゼロなのです、自分が誰だか分からない、感覚が無い、死んでいるようでした。予備校にはいかず、ひたすら自分の家に引きこもりました。勉強は出来ず、現役よりも徐々に成績は下がる・・・・結果、全く志望校は全滅でした。
 
 浪人二年目、もう後がなくなりました。これで落ちたら「死のう」と考えていました。精神にもう限界が来ていました。予備校に通うことにしました。しかし、他人とのコミュニケーションをとる事が出来ず、不安で不安で、パニックになりかけていました。予備校で大勢の人に囲まれると、不安とパニックで、全く集中できず、その内に通えなくなりました。親には内緒で、ロッテリアで時間を潰す毎日。今でも考えると辛い・・・・悲しすぎる。みんな大学でキャンパスライフを楽しんでるのに、私は、こんな場所で、惨めに、敗残者として、煙草をくゆらす事しかできない。「敗残者」。ぴったりな称号でした。

 私は、ホームレスになる自分を想像し、全てが終わる日を、望みました。
そして三度目の受験。数学を1Aだけやって受かる簡単な専門学校がありました。そこを受けたら受かりました。合格通知が来た時、嬉しかった。へんてこな学校、二浪もしてこんな学校、敗残者の生活が今後も待っている。でも嬉しかった、助かった・・・蜘蛛の糸が垂れてきた・・・私だけに・・周りの亡者は糸に届かなかったのです。

私は今でも、考えます。勉強が出来れば、一流まではいかなくとも、有望な大学に入れる学力があったと。別に学閥ではないのですが、「自分はもっと努力できる」という事を今でも証明したい、今はそのために生きています。だから、うつ病で苦しい時も諦めない。でも諦めないから、人生が報われるなんて全く思っていない。
 
 神は存在する。けど、平等とか不平等とかの範囲で存在するとは思っていません。結局、人間社会は権力社会です。自分より弱い物をたたきたい願望を持っています。誰かの先を越していきたいと、潜在的に本能に刷り込まれています。だから誰も助けになんかこない。ただ「敗残者」が転がっている、としか見られない。

 だから、うつ病になったから私だけ、「不幸だ!」と思ってもいいけど口に出したら「負け」です。負けちゃだめです。何も出来なくても、寝ることしか出来ない、禁治産者のような人間に成り下がろうとも。絶対、諦めない!!!負けては駄目!

 私は、その学校に入り、私は、プライドをぼろ雑巾にされました。のうのうと親が金持ちの、甘ったれガキ共が全く勉強せずに入ってくる学校で、ガキ共にタメ口で話され、時には命令される。やりきれない・・・・・これが社会なら別。お金もらうから。くそったれ!

 地獄を見てきた私に対して、更に悲惨なキャンパスライフ。でも耐えた。4年間。これからは、出口が見えている。うつ病の出口も見えかけている。だから、皆さんも、絶対負けないで欲しい。勝たなきゃ駄目なんだと思う。だから、死ぬまで、戦いは終わらない、私は勝つ!自分に!

 どう?かな?こんな過去を持った人間って・・・

 

恋愛①

2006年02月04日 01時23分24秒 | 迂路回帰線
こんな私にも恋愛はありました。

本当の恋愛。

一人の人。

すごく素敵で、優しかった。

終わって気づいた、最高の女(ひと)

今は、違う男性と結婚し、子供を授かったそうです。

私は、病気でした。

お金もありませんでした。

心の余裕もありませんでした。

今も、3年間一緒だった日々を、夢に見ます。

若い学生の男は無力です。知識も経済力もありません。

病気の男はもっと無力です。

女性は、若いと男が、金と経験のある男が群がります。

悔しい。奪われた事が。

そして、うつ病であった事が・・・

私はこの女性を一生忘れないでしょう。愛しさと憎しみが相まって・・・

なぜ去ったの?

なんて詩風に書いてみました。かっこいい??続く・・・・

過去~③14歳、うつの発生

2006年02月04日 01時10分15秒 | 迂路回帰線
14歳でうつ病を発生した・・・・はじまりはじまり。

 私は、いじめ問題を一応クリアーした。悪いということは理解した。子供なりに。しかし、性格はあいも変わらずうるさく、何ていうんだろう、歯に衣着せぬ言葉遣いをしており、誰にもハッキリスッパリ何でも物怖じせずいうことが出来ました。問題児っていうか馬鹿なキャラクターでした。
 
 そんな日常の中、中学二年生の時、今も友人のS君の恋話について、ある日、私が、学校の階段で大きい言葉で茶化してしまったのです。すると彼はとても怒って、私を謗り(そしり)、友人関係が一時的に壊れてしまいました・・・・・

 これがうつ病のきっかけでした。まさか、S君が、私を、あんなに罵るなんて・・・凍りつきました。今でもそのシーンは覚えています。10年前にあった事です。
 
 それ以後、私は全く喋らなくなり、クラスの中で、「どうしたの?」と頻繁に言われる様になりました。私は、変わりました。180度違う人間に転化したのです。元気を失い、周りは「COOLになった」などと逆に私を褒めるようになりましたが、全く見当違いの評価。

 私は、初めてこんなに傷つきました。失望・無気力・・・この時、治療していれば問題なかったのかも。

 それからの私は、過剰適応な男になりました。言葉は必ず、慎重に選ぶようになり、フランクな言葉を使う事が出来なくなり、徐々に、全てに失望を覚えてきました。
 
 思春期です。自分を、アイデンティティを構成する年齢で、アイデンティティが形成できなかった、、、。自分を信じることが出来ず、友人の裏切り、世の中への懐疑的失望、高校受験は無気力で、適当に受け、受かりました。しかし、その時には自分の受験番号すら分からなくなっていました「受かったのか??」とボードを見て、帰りに「受かってたみたい」と母親にTELをする。これが記憶できなくなる始まりでした。今も、物事を記憶することが上手くいかないのです。

 高校時代は成績は最低ランク。全て合格ギリギリで単位取得。高校時代は更に酷くなり、極期を向かえ始めました。高校に向かうと胃が痛くて歩けなくなる、教室のドアを開けると心臓が破裂しそうになる、人の視線が気になる、人の評価が気になる、人の・・人の・・、といった、過剰適応を繰り返す様になり、かなり挙動不審な人間になりました、が、ひたすらそれを隠し、否定しました。高校生活は、漠然としなく、青春は無かった・・・・ようでした。確信は無いです、
 
 ただ「自分は病気ではない!」と叫びたかった・・・・

 しかし、残酷にも時間は過ぎ、大学受験は記憶力の低下から恐らく全盛期の10の1程度の学習能力まで低下し、志望大学に全く引っかかりません。といっても偏差値なら52~54程度の大学です。受験失敗、そして更に地獄へと堕ちていきました・・・・うつを抱きかかえて・・・・・地獄の浪人生活が始まりました。

過去~いじめ②

2006年02月03日 16時51分12秒 | 迂路回帰線
 いじめの主犯、それは私、クラスメイト全員の前に立たされ2時間ひたすら謝り続けた・・・・悲惨。全員が冷ややかな目で私を見ている。
 謝った後教師が「これで許していい人」とクラスに聞くのです。私って何?って感じ。でも私は悪かったんです。。。沈黙と陳謝を繰り返し、意味がわからなくなりました。。。。

 そして、泣きが来るまで謝り続けて、やっと許してもらえたのですが、クラスメイトで許す人は過半数で、手を挙げなかった人がいたのを忘れません。人民裁判を受けた私。これは何だったのだろう。私にとって。今でも鮮明。刻銘。中学生、ガキだったのか。。。

 しかし、私は心から、本当には反省しなかった。それがPTSDとなる素地を作っていった。こんな過去誰にも見られたくないんです。同窓会も行きたくありません。罪業妄想なのでしょうか??許されるのか??などよく考えます。

 たかがいじめ、されどいじめ。言葉の暴力。それはやがて私に鋭くナイフのように帰ってくるのでした。これを、WEB上でもいいから聴いてほしかった・・・私の小さな、大きな罪。人をなぶるのは大罪だと、23の私は感じています。今も、引きずっている過去なのです。認めたくない、認めたくない、私は悪い人間なのだと言う事を。

 今は、善人面して、最高の偽善者であると自分自身思っています。ですので人に対して過剰反応を起こしてしまうのでしょう。うつ病にもなるのでしょう。。。

 次からはもっと恥ずかしい過去、自分にとってですが・・・話します。


過去~いじめ①

2006年02月01日 20時47分36秒 | 迂路回帰線

 過去~相当遡る事平成は何年頃でしょうかね。頑張っていた中学生時代・・・・思春期真っ只中でした。私はその時「中学一年生」でした。私の性格はうるさく、活発な、健康な男の子でした。しかし、強気な(野球をやっていた事の影響があったと思います)発言が多く、先生にも「あんなに喋るんで無い」と怒られる事が多々あり、授業中もうるさくて起こられる事しばしば・・・。

 そのクラスに、今は判りますが、偏見的に容姿が劣ると私が思った女の子がいたのです。友人も「気持ちわり~」といい、集団になっていじめを行いました。いじめの内容は「言葉の暴力」でした。前回のブログキーワードにあった言葉です。

 「気持ち悪い」などを何かにつけ発言し、女の子を集団でいじめました。その中心人物が「私」です。何故か私になったのです。私には罪悪感がありませんでした。はっきりいって。全くと言っていいほどに。だから出来たんでしょうね・・・・「友人がやっているから」という期待に答えたのでしょうか・・・私はこの頃から過剰適応しやすい性格だったのでしょうねw

 それを継続している内に、給食の時間にその女の子にソースだかなんだかを「気持ちわるい」といって貸さなかったのです。すると教師が、私の襟首を鷲づかみにして廊下にたたき出し、顔面に二、三発平手で殴打・を繰り返したのです。そこで言われた言葉は忘れましたが、真剣に、すごい剣幕で言われたと記憶しています。
 
 しかし、それ以後も私を中心にいじめは継続されました。私は全く反省をしなかったのです。しかし、私は殆どしていなかったつもりでしたが、周りはそう判断しなかったようで、再び、いじめがクラス問題になりました。②に続く。