巻第二十に載る家持が採録した防人の歌には出身地と作者の名も併せて記録されており、無名の読み人知らずではないが、地方出身の防人が、言葉はその地方の訛りがあるにせよ、音数もあっているし、枕詞や序詞といった和歌の約束事もわきまえており、日本の地域のすみずみにまで、上流階層だけでなく中下層の人々にまで和歌が普及していたということを表しているのだろうか。もちろん指導や代作もあったかもしれない。
その中で、2月22日に信濃国の防人の部領使が上進した12首のうち3首が採録されている左注に、この部領使は信濃国を出発したものの病を得て難波に到着しなかった旨が記載されている。それでは家持ないしその下僚に上進したのは誰だったのだろうか。あらかじめ信濃国を出発する前に防人から歌を聞き取り記録したものを手紙のような形(木簡?)で誰か無名の代理人が持参したのだろうか。それとも、旅の途中の病床で防人から歌を聴き取り記録したものを、誰か(防人の代表など)に託したのだろうか。 残された家族の立場で詠んだ歌(家族が作った歌)もあることから、あらかじめ出身地を出発する前に歌を記録していたのかもしれない。あるいは出させていたのかもしれない。そういうことを想像させる。中には、部領使か誰かが代作したものもあるかもしれない。別れのつらさと旅の不安を歌うグループと威勢のいい歌のグループとに大別されるが、代作はどちらかといえば、タテマエを歌う方に多かったのではないかと推測される。
防人の出身地の東国(今で言う長野、群馬、栃木、茨城、千葉、埼玉、東京、神奈川、静岡など)には、今日に伝わる地名もあり感慨深いものがある。(続く)
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