風と光と大地の詩

気まぐれ日記と日々のつぶやき

秋の光

2019年10月30日 | 
 澄んだ秋の空から金色の光がふりそそぎ
 あらゆるものが色づき熟していく
 山はたしかな稜線を描いて立ち上がり
 川は大地の帯のようにはるかに流れる

 堆積した時間の層が重なり
 過去と未来と現在が光の中でひとつになる
 失われたものとまだ生まれないものが
 今を生きるものとひそやかな言葉を交わす

 穫り入れの済んだ野面は黒ずみ
 せき立てられるように冬支度が始まる
 まばらな林に鳥たちが鳴きかわし
 日陰の道に冷気がまっすぐ降りてくる

 一日の終わりの空は悔恨に染まり
 夕映えの大気は真珠色に輝く
 天球は鋭角に夜へと傾き
 すべてが重い闇に沈み込んでいく


   

   


秋の雨いたくな降りそ

2019年10月27日 | 日記
秋の雨 いたくな降りそ 川あふる
間なくな降りそ 家 水漬くがに

ひさかたの 天より落つる 猛き雨
家も 田畑も 水浸りけり

雨よそんなに降ってくれるな
雨よそんなに降ってくださるな

天のタガがはずれたのか
雲の栓が抜けたのか
雨がそんなに降れば
川があふれ山が崩れる

狂乱した川はのみこんだ
木々を 田畑を 家々を
りんご畑を いちごハウスを
新幹線を 鉄橋を
 
くろい濁流に押し流された
ベッド 机 食卓
思い出 夢 希望
土砂にまみれた
コップ Tシャツ アルバムの写真

何でもない当たり前の日々を
静かな流れと穏やかな輝きを
とりもどすのはいつか

台風の 大雨に押し流されし 家 夢 希望 なすすべもなく

川あふれ 泥に呑まれし 林檎畑 老いた農夫のしわ深くする

  



万葉集覚書8

2019年10月22日 | 万葉集覚書
防人は多く家族との離別の悲しみや旅の不安を歌っているが、それはそのままに受け止め、作者の心のありように思いをいたすべきだろう。それを「防人制度」への批判ないし批評と捉えるのは早計だろうし、逆に「大君のみことかしこみ」、「大君は神にしませば」などという言葉を誇大に解釈するのも作者の意に沿わないものになるだろう。
防人歌を採録した者は、人の心の実相をそのまま歌うことを歌の理想と考えていたようだ。実際には、歌の範を示されていたため、あるいは範に則り歌うことが当然とされていたためか、多くの防人歌は類型化から免れていないといううらみがある。
憶良にしても、貧窮問答歌で、非情な税金取りを恨むかのような歌を詠み込んではいるが、最後は「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」と嘆くだけである。そもそも、それ以上のことを官人や貴族に求めることは無理というものだ。
巻第二十の防人の歌と異なり巻第十四の東歌の収集については注もなく、経緯がわからない。当時政権の中枢にいた橘諸兄が関わっていたとの推測もある。
多いのは若い男女の素朴な愛のやりとりの歌(誰か特定の個人の作というより、集団的な歌謡、俗謡、民謡の類いであったかもしれない)、地方から防人や公用で都などへ行く別れあるいは旅の歌である。
こうした歌は自分の楽しみのために記録したものではなく、聞く相手がいる中で、実用のため(例えば儀式や宴げなど)に詠まれたものであろう。あるいはそれを前提にしていたものだろう。
たとえば、上(毛)野国の歌には、多胡、入野、伊香保などの今に残る地名が出てくる。同国の巻二十の防人の歌には何故か地名が載せていない。
言葉は「東国訛り」である。それを発音のとおり万葉仮名で書き取るのだから、ある意味、万葉仮名の必要性はこんなところにあったのかもしれない。万葉仮名と今の仮名の関係は単純ではないだろうが、万葉仮名がその源泉の近くにあったことは間違いないだろう。
歌の贈答や宴席での歌の吟詠の記録には万葉仮名が使われていたのだろう。万葉仮名はひとつには和歌を記録するためにつくられたものかもしれない。





高崎マーチングフェスティバルのパレードを見る

2019年10月21日 | 日記
今年で30回目となる高崎マーチングフェスティバルが昨日秋晴れのもと行われ、パレードも予定どおり行われました。市内でも中小河川の氾濫で床上床下浸水などの被害がありましたが、市内の小中高校のブラスバンドや横浜などからの招待チームも参加して、沿道には我が子や孫を見ようと多くの市民が集りました。
被災地の一日も早い復旧復興をお祈りします。