防人は多く家族との離別の悲しみや旅の不安を歌っているが、それはそのままに受け止め、作者の心のありように思いをいたすべきだろう。それを「防人制度」への批判ないし批評と捉えるのは早計だろうし、逆に「大君のみことかしこみ」、「大君は神にしませば」などという言葉を誇大に解釈するのも作者の意に沿わないものになるだろう。
防人歌を採録した者は、人の心の実相をそのまま歌うことを歌の理想と考えていたようだ。実際には、歌の範を示されていたため、あるいは範に則り歌うことが当然とされていたためか、多くの防人歌は類型化から免れていないといううらみがある。
憶良にしても、貧窮問答歌で、非情な税金取りを恨むかのような歌を詠み込んではいるが、最後は「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」と嘆くだけである。そもそも、それ以上のことを官人や貴族に求めることは無理というものだ。
巻第二十の防人の歌と異なり巻第十四の東歌の収集については注もなく、経緯がわからない。当時政権の中枢にいた橘諸兄が関わっていたとの推測もある。
多いのは若い男女の素朴な愛のやりとりの歌(誰か特定の個人の作というより、集団的な歌謡、俗謡、民謡の類いであったかもしれない)、地方から防人や公用で都などへ行く別れあるいは旅の歌である。
こうした歌は自分の楽しみのために記録したものではなく、聞く相手がいる中で、実用のため(例えば儀式や宴げなど)に詠まれたものであろう。あるいはそれを前提にしていたものだろう。
たとえば、上(毛)野国の歌には、多胡、入野、伊香保などの今に残る地名が出てくる。同国の巻二十の防人の歌には何故か地名が載せていない。
言葉は「東国訛り」である。それを発音のとおり万葉仮名で書き取るのだから、ある意味、万葉仮名の必要性はこんなところにあったのかもしれない。万葉仮名と今の仮名の関係は単純ではないだろうが、万葉仮名がその源泉の近くにあったことは間違いないだろう。
歌の贈答や宴席での歌の吟詠の記録には万葉仮名が使われていたのだろう。万葉仮名はひとつには和歌を記録するためにつくられたものかもしれない。