ひな祭りも過ぎたいまになって新年のご挨拶もないものですが。
旧年中、そしてきょうも このブログをお読みくださりありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
で、年をまたいで2ヶ月以上も置きっぱなしにしてしまった 「あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く」 タイトルですが、本日の第10回をもって一応の締めとさせていただきます。
「ミステリーの女王」と謳われたアガサ ・ クリスティの小説には、恐ろしい事件に巻き込まれて平穏な日常に揺さぶりをかけられ、それまで内に隠れていた本性や本音をあぶり出される脇役がよく登場します。
読者が簡単に真犯人にたどりつけないようにするためのミスリード要員なわけですが、エルキュール ・ ポアロを始めとする名探偵たちの真相追求の過程でもみくちゃにされた彼らは それまで目を背けてきた真実といやおうなしに向き合わされ、やがて事件の解決とともに新しく獲得した自分の道を歩き出す、その姿が一服の清涼剤として犯罪話の後味の悪さを和らげ、読者は自然とその門出を祝福する氣持ちになります。
貴秋の目には、いま世界規模で私たちの暮らしに影響を及ぼしている新型コロナウイルスの騒ぎが ちょうどそんな揺さぶり役を務めているかのように映ります。
感染力が高く高齢者や既往症を抱える人たちには命取りになりかねないウイルスの蔓延はたしかに脅威ですが、同時にそれは普段見ないで済む私たちの社会のさまざまなひずみを明るみに引き出す役割を果たしてくれてもいるのではないでしょうか。
あのマスク高額転売騒動は、私たちの日々の暮らしがどのような土台の上に築かれているかを見せてくれました。
経産省のどなたかが言われたという 「価格は需要で決まるもの」 という言葉は、需要が供給を大きく上回る商品の値をつり上げるのは 現行のお金のシステムで容認された決まりであるという事実を露わにしました。
いまの私たちの社会では 命を尊び重んじる心より 「儲ける機会があれば儲けていい、一番力を持つのはお金だ」 というルールのほうが幅を利かせている現状を、この騒動はいみじくも見せてくれたのです。
今回はマスクの切実な需要があまりに多かったため、「道義的責任」 という言葉の圧力で一時的な新ルールを設けるなどしてどうにかしのぎましたが、ならば必要とする人がもっと少なかったら、その人たちの願いは聞き届けられたのでしょうか。
安倍総理は 「政府として責任をもって対応する」 「国として全面的に支援する」 とたびたび口にされますが、その一方で 過去の自然災害の被災者の多くがいまだに避難所や復興住宅での暮らしを余儀なくされたり 生活再建のめどが立っていなかったりする現実もあります。
コロナウイルスが降ってわいた災難なら、地震や台風の被災だって さらには突然の解雇や病氣でのやむない離職だって同じことのはずなのに、そういう不幸に見舞われた人たちを支えるしっかりした受け皿が いまのこの国にあるといえるでしょうか。
どこかで災害が発生するたびに 十分な支援を受けられない人々の不運な境遇をこれでもかと映し出すテレビや新聞の報道から、明日はわが身という恐怖をたっぷり脳裏に刻み込まれてきた私たちです。
トイレットペーパーや食料の買占めは、そんなセーフティネットが存在するとはとうてい思えないからこそ 「自分の暮らしは自分で守るしかない」 と多くの人が考えていることの現われではないでしょうか。
先月17日、相模原障害者殺人事件の植松聖被告に死刑が求刑されました。
「重度障害者は家族の負担であり、国から金と時間を奪う存在」 という当初からの主張を変えようとしない被告の姿勢に改めて非難が集まっていますが、そんな私たちの暮らしの根幹を成すお金のシステムは 人の命をなによりも一番に考えるようにできているのか、疑問を抱かざるを得ません。
世の多くの人々が 命はなにものにも (もちろんお金にも) 代えがたい尊いものだという強い信念を持つ一方で、私たちはほんとうにお金の有無など関係なくすべての命が尊ばれ守られる世界に住んでいるのでしょうか。
戦闘機や防衛設備には兆単位のお金をためらいなく投じる政府が 今回のコロナ対策にかける予算とそのスピードがどれほどのものか、すでに台湾の迅速な対応との比較で非難の声も湧き起こるいま、進んでであれ不承不承であれそのような政府が頂点に立つことを許してきた私たちは、そんな世界をこれまで受け入れてきた自身の意識を根底から見直すときに来ているのではないでしょうか。
愛読ブログ 「In Deep」 さんのこのような記事などを読むと、いま私たちが直面している危機はコロナウイルスだけではないことを思い知らされます。
今回の騒ぎですでに金融市場は大きく動揺しているようで、ここにさらなる災害だの食糧難だのが加われば、数年以内の金融システムの崩壊もあり得ない話ではありません。
循環で成り立つ世界にそぐわないシステムが滅びるのは不思議でもなんでもなく、見ようによってはよりよいものに作り変えるチャンスと見ることもできます。
人が創ったものは 人の手で創りなおすことができる、それが不可能に思えるのは 潜在意識に刷り込まれたままの思い込みゆえ。
自分はどのような世界でどのように生きたいのか、そのためにいま自分になにができるのか、めいめいの足元をしっかり見つめなおすことが 大きなピンチを大きなチャンスに変える道を開きます。
クリスティの小説の登場人物のように さまざまな騒ぎが収まった後の私たちがどのような道を歩き出すのか、それはいまの私たちの選択と行動にかかっています。
昨年11月から書き始めたこの記事も ようやっと終わりを迎えました。
お読み下さったみなさま、ほんとうにありがとうございます。
これからも折に触れてこのテーマをもとに書かせていただくことになるかと思います。
今回の騒ぎの下でも不安に押しつぶされることなく、内なる声を拠りどころにピンチをチャンスに転換して したたかに歩んでいきましょう。
旧年中、そしてきょうも このブログをお読みくださりありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
で、年をまたいで2ヶ月以上も置きっぱなしにしてしまった 「あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く」 タイトルですが、本日の第10回をもって一応の締めとさせていただきます。
「ミステリーの女王」と謳われたアガサ ・ クリスティの小説には、恐ろしい事件に巻き込まれて平穏な日常に揺さぶりをかけられ、それまで内に隠れていた本性や本音をあぶり出される脇役がよく登場します。
読者が簡単に真犯人にたどりつけないようにするためのミスリード要員なわけですが、エルキュール ・ ポアロを始めとする名探偵たちの真相追求の過程でもみくちゃにされた彼らは それまで目を背けてきた真実といやおうなしに向き合わされ、やがて事件の解決とともに新しく獲得した自分の道を歩き出す、その姿が一服の清涼剤として犯罪話の後味の悪さを和らげ、読者は自然とその門出を祝福する氣持ちになります。
貴秋の目には、いま世界規模で私たちの暮らしに影響を及ぼしている新型コロナウイルスの騒ぎが ちょうどそんな揺さぶり役を務めているかのように映ります。
感染力が高く高齢者や既往症を抱える人たちには命取りになりかねないウイルスの蔓延はたしかに脅威ですが、同時にそれは普段見ないで済む私たちの社会のさまざまなひずみを明るみに引き出す役割を果たしてくれてもいるのではないでしょうか。
あのマスク高額転売騒動は、私たちの日々の暮らしがどのような土台の上に築かれているかを見せてくれました。
経産省のどなたかが言われたという 「価格は需要で決まるもの」 という言葉は、需要が供給を大きく上回る商品の値をつり上げるのは 現行のお金のシステムで容認された決まりであるという事実を露わにしました。
いまの私たちの社会では 命を尊び重んじる心より 「儲ける機会があれば儲けていい、一番力を持つのはお金だ」 というルールのほうが幅を利かせている現状を、この騒動はいみじくも見せてくれたのです。
今回はマスクの切実な需要があまりに多かったため、「道義的責任」 という言葉の圧力で一時的な新ルールを設けるなどしてどうにかしのぎましたが、ならば必要とする人がもっと少なかったら、その人たちの願いは聞き届けられたのでしょうか。
安倍総理は 「政府として責任をもって対応する」 「国として全面的に支援する」 とたびたび口にされますが、その一方で 過去の自然災害の被災者の多くがいまだに避難所や復興住宅での暮らしを余儀なくされたり 生活再建のめどが立っていなかったりする現実もあります。
コロナウイルスが降ってわいた災難なら、地震や台風の被災だって さらには突然の解雇や病氣でのやむない離職だって同じことのはずなのに、そういう不幸に見舞われた人たちを支えるしっかりした受け皿が いまのこの国にあるといえるでしょうか。
どこかで災害が発生するたびに 十分な支援を受けられない人々の不運な境遇をこれでもかと映し出すテレビや新聞の報道から、明日はわが身という恐怖をたっぷり脳裏に刻み込まれてきた私たちです。
トイレットペーパーや食料の買占めは、そんなセーフティネットが存在するとはとうてい思えないからこそ 「自分の暮らしは自分で守るしかない」 と多くの人が考えていることの現われではないでしょうか。
先月17日、相模原障害者殺人事件の植松聖被告に死刑が求刑されました。
「重度障害者は家族の負担であり、国から金と時間を奪う存在」 という当初からの主張を変えようとしない被告の姿勢に改めて非難が集まっていますが、そんな私たちの暮らしの根幹を成すお金のシステムは 人の命をなによりも一番に考えるようにできているのか、疑問を抱かざるを得ません。
世の多くの人々が 命はなにものにも (もちろんお金にも) 代えがたい尊いものだという強い信念を持つ一方で、私たちはほんとうにお金の有無など関係なくすべての命が尊ばれ守られる世界に住んでいるのでしょうか。
戦闘機や防衛設備には兆単位のお金をためらいなく投じる政府が 今回のコロナ対策にかける予算とそのスピードがどれほどのものか、すでに台湾の迅速な対応との比較で非難の声も湧き起こるいま、進んでであれ不承不承であれそのような政府が頂点に立つことを許してきた私たちは、そんな世界をこれまで受け入れてきた自身の意識を根底から見直すときに来ているのではないでしょうか。
愛読ブログ 「In Deep」 さんのこのような記事などを読むと、いま私たちが直面している危機はコロナウイルスだけではないことを思い知らされます。
今回の騒ぎですでに金融市場は大きく動揺しているようで、ここにさらなる災害だの食糧難だのが加われば、数年以内の金融システムの崩壊もあり得ない話ではありません。
循環で成り立つ世界にそぐわないシステムが滅びるのは不思議でもなんでもなく、見ようによってはよりよいものに作り変えるチャンスと見ることもできます。
人が創ったものは 人の手で創りなおすことができる、それが不可能に思えるのは 潜在意識に刷り込まれたままの思い込みゆえ。
自分はどのような世界でどのように生きたいのか、そのためにいま自分になにができるのか、めいめいの足元をしっかり見つめなおすことが 大きなピンチを大きなチャンスに変える道を開きます。
クリスティの小説の登場人物のように さまざまな騒ぎが収まった後の私たちがどのような道を歩き出すのか、それはいまの私たちの選択と行動にかかっています。
昨年11月から書き始めたこの記事も ようやっと終わりを迎えました。
お読み下さったみなさま、ほんとうにありがとうございます。
これからも折に触れてこのテーマをもとに書かせていただくことになるかと思います。
今回の騒ぎの下でも不安に押しつぶされることなく、内なる声を拠りどころにピンチをチャンスに転換して したたかに歩んでいきましょう。
)プロフィットに突き動かされているようです。
全く話題が変わるのですが、質問があります。
身近にある臨済宗妙心寺派の万福寺は毎朝お経をとなえながら僧侶が鐘を突いています。鐘の音色が好きなのですが、アメリカでは鐘の音色は響いているでしょうか?
来月から座禅に参加する予定です。
お返事が遅くなってしまって申し訳ありません。
最近なにやらいろいろと焙り出されているような氣がするんですね、そしてそれはあながち悪いことばかりではないという氣もするのです。
残念ながらアメリカには一度も行ったことがないので 鐘の音色はわかりませんが、ご質問のおかげで紀行番組でヨーロッパでは教会の鐘楼をよく見るけれど、アメリカではどうなのかな?という疑問が湧きました。
アメリカの鐘、聞いてみたいですね。
日本の鐘の音も好きです。
その昔歩いた奈良の山の辺の道の途中に 一般人にも鐘を撞かせてくれるお寺があったのを思い出しました。