案の定というか、「アーヤと魔女」 第二弾でございます。
今回もいちおうネタバレありということで、映画未見の方はご注意くださいね。
[以下ネタバレご注意]
前の記事で アーヤが 「自身の快不快や好き嫌いをきちんと把握している」 と書きましたが、これは重要なポイントです。
自分の氣持ちを正確にわかっているということは、それだけ大きな強みだということ。
アーヤは、大きな窓があって日当たり抜群、どこもかしこもピッカピカ、おいしいシェパーズパイがたびたび出てきて 大人たちみんなが望みを叶えてくれる園の暮らしを 決して当然のこととは受け止めず、そのよさをよくわかった上で 心地いい環境を満喫しています。
だからこそ、喜びのエネルギーがこもった彼女の感謝や賞賛には (表現に多少の誇張や作為はあっても) 人の心を動かす力がある。
自分が持っている 「いいもの」 にきちんと目が向き、かつ足りないものがあっても 自身の力で手に入れられるとわかっているアーヤの心は、いつも満ち足りているのでしょう。
園を出るときの荷造りの場面で、ベッドの上に並んだ彼女の持ち物がごくわずかなのが目を引きます。
物欲が強ければ 大人を好きに操る力で もっと多くのものを手に入れていても不思議ではありませんが、彼女はまず 身のまわりの幸せや豊かさに目を留め 満足することを知っているので、心の飢えから生じる欲望に惑わされて自分を見失うことも、結果自信をなくすこともなく、それが彼女の操りの腕前の見事さにつながっているわけです。
私たちがお金を欲しがるのも さまざまな物やサービスを求めるのも、元をたどれば 心を満たしたい、幸せを、豊かさを、安らぎを、自由を感じたいという氣持ちからきているのがわかります。
お金や物やサービスは その望みを叶える手段に過ぎないのですが、それを目的と取り違えると 真の望みを見失います。
物質的な富は いくら手に入れてもつかの間の満足しか与えてくれないので、欲に振り回されて止め処がなくなります。
そんな飢えた心から生じる望みは どんどん本心とずれていき、ほんとうの望みがますますわからなくなってしまう。
何を求め 何を得ても 自身を満たすことができないというのは、セルフイメージを低下させ、自信を失わせます。
こうやって私たちは、アーヤのように思いどおりの世界を実現する力をなくしてしまったんですね。
でも大丈夫、なくした力を取り戻したければ、ほんとうの思いでないもの、すなわち自身を幸せにしない思い込みや 不快を感じさせる観念と向き合い 手放していけばいいのです。
やがてあるときふと、率直な望みを口にしても なんの抵抗も湧かず、晴れ晴れと明るい氣分で力がみなぎってくる、そしてこれはきっと叶うという予感がする、そんな自分に変わっていることに氣づかれることでしょう。
「アーヤと魔女」 はもちろんファンタジーですが、そこに描き出されているのは紛れもない真理です。
呪文で人に余分な手を生やすことはできなくても、自分の本心を正しく知り、感情や思考のエネルギーを整えて流れをよくすることで 「み~んな自分の思いどおり」 な世界を創り出すことはできる。
レビューでは 「大人を手玉に取り 都合よく操るような映画を子どもに見せるのはいかがなものか」 というような意見も見かけましたが、貴秋はむしろ 大人の都合で枠に押し込められて ほんとうの自分を見失い元氣をなくしている子どもたちにこそ見てもらいたいです。
あなたはどんな世界に住みたい?
誰にも邪魔されず なんでも好きなことができるなら、毎日何をしてどんなふうに暮らしたい?
映画のお話はフィクションだけれど、あなた方は現実の生活で アーヤみたいにどんな望みも叶える力をほんとうに持っているんだよ。。。。そんなふうに言ってあげたい氣持ちで一杯です。
今回もいちおうネタバレありということで、映画未見の方はご注意くださいね。
* * * * * * *
[以下ネタバレご注意]
前の記事で アーヤが 「自身の快不快や好き嫌いをきちんと把握している」 と書きましたが、これは重要なポイントです。
自分の氣持ちを正確にわかっているということは、それだけ大きな強みだということ。
アーヤは、大きな窓があって日当たり抜群、どこもかしこもピッカピカ、おいしいシェパーズパイがたびたび出てきて 大人たちみんなが望みを叶えてくれる園の暮らしを 決して当然のこととは受け止めず、そのよさをよくわかった上で 心地いい環境を満喫しています。
だからこそ、喜びのエネルギーがこもった彼女の感謝や賞賛には (表現に多少の誇張や作為はあっても) 人の心を動かす力がある。
自分が持っている 「いいもの」 にきちんと目が向き、かつ足りないものがあっても 自身の力で手に入れられるとわかっているアーヤの心は、いつも満ち足りているのでしょう。
園を出るときの荷造りの場面で、ベッドの上に並んだ彼女の持ち物がごくわずかなのが目を引きます。
物欲が強ければ 大人を好きに操る力で もっと多くのものを手に入れていても不思議ではありませんが、彼女はまず 身のまわりの幸せや豊かさに目を留め 満足することを知っているので、心の飢えから生じる欲望に惑わされて自分を見失うことも、結果自信をなくすこともなく、それが彼女の操りの腕前の見事さにつながっているわけです。
私たちがお金を欲しがるのも さまざまな物やサービスを求めるのも、元をたどれば 心を満たしたい、幸せを、豊かさを、安らぎを、自由を感じたいという氣持ちからきているのがわかります。
お金や物やサービスは その望みを叶える手段に過ぎないのですが、それを目的と取り違えると 真の望みを見失います。
物質的な富は いくら手に入れてもつかの間の満足しか与えてくれないので、欲に振り回されて止め処がなくなります。
そんな飢えた心から生じる望みは どんどん本心とずれていき、ほんとうの望みがますますわからなくなってしまう。
何を求め 何を得ても 自身を満たすことができないというのは、セルフイメージを低下させ、自信を失わせます。
こうやって私たちは、アーヤのように思いどおりの世界を実現する力をなくしてしまったんですね。
でも大丈夫、なくした力を取り戻したければ、ほんとうの思いでないもの、すなわち自身を幸せにしない思い込みや 不快を感じさせる観念と向き合い 手放していけばいいのです。
やがてあるときふと、率直な望みを口にしても なんの抵抗も湧かず、晴れ晴れと明るい氣分で力がみなぎってくる、そしてこれはきっと叶うという予感がする、そんな自分に変わっていることに氣づかれることでしょう。
「アーヤと魔女」 はもちろんファンタジーですが、そこに描き出されているのは紛れもない真理です。
呪文で人に余分な手を生やすことはできなくても、自分の本心を正しく知り、感情や思考のエネルギーを整えて流れをよくすることで 「み~んな自分の思いどおり」 な世界を創り出すことはできる。
レビューでは 「大人を手玉に取り 都合よく操るような映画を子どもに見せるのはいかがなものか」 というような意見も見かけましたが、貴秋はむしろ 大人の都合で枠に押し込められて ほんとうの自分を見失い元氣をなくしている子どもたちにこそ見てもらいたいです。
あなたはどんな世界に住みたい?
誰にも邪魔されず なんでも好きなことができるなら、毎日何をしてどんなふうに暮らしたい?
映画のお話はフィクションだけれど、あなた方は現実の生活で アーヤみたいにどんな望みも叶える力をほんとうに持っているんだよ。。。。そんなふうに言ってあげたい氣持ちで一杯です。