私たちの本質が形のない波動エネルギーだと完全に思い出したわけではないけれど、そう見ることには慣れました。
実体のない波動エネルギーから実体を持つ世界が生まれる、私たちの思い描くイメージと それに伴う感情によって。
これはもう貴秋の中では確定事項です。
誰もみな 自身の思いから自身の現実を創造している、それに氣づいているかいないかの違いはあっても。。。だから 「どうすれば自分の世界を創れるか」 は問題ではないのです、すでにみんなそうしているのだから。
問題は、「どうすれば自分の望むとおりの世界を創れるか」 にあります。
私たちの形ある世界のものはすべて、言葉から生み出されています。
どんなささやかなものでも、まず最初に言葉にならないインスピレーションがひらめき、それを言葉に置き換えることで形にできるのですから。
私たちの身のまわりのものはことごとく、誰かのアイデアが言葉になり 形を得た結果なんですね。
なら、ひらめきが映像や音として現れたら?
それも同じことです。
網膜に届いた像に 「これは赤だ、これは四角だ、これは花だ」 などと言葉で意味を与えなければ それは濃淡明暗さまざまなしみのようなものに過ぎず、同じく鼓膜に達した空氣の振動も 「これは鳥の声だ、あれは窓に木の葉が当たったんだ」 のような解釈があって初めて 私たちの日常の光景の一部として取り込むことができるのです。
聖書に 「始めに言葉ありき」 という表現があるそうですが、わかる氣がします。
言葉があるから形ある世界が生まれる、言葉は五感の世界の必須アイテム。
私たちの世界は言葉によって成り立っているといっても過言ではないのです。
望むとおりの世界を創るなら、言葉の力を知ることだと思います。
引き寄せの法則などでも言われているように、言葉によって具体的にイメージしたものに感情が伴うと 具現化します。
私たちが望まない世界すらいともたやすく実現してしまうのは、記憶のない幼いころにいろいろと不自由な情報が入り込んでしまったことに加え、この言葉の力についてまったくといっていいほど教えられてこなかったからでしょう。
シンプルに言ってしまえば、望むものはまず言葉の力でできる限り細かく明確にイメージすること。
そこに付与する感情も やはり言葉です。
ある種のからだの感覚に 「うれしい」 「悲しい」 「悔しい」 などと言葉で意味を与えるのが感情。
言葉をとってしまえば、それはただの感覚でしかなくなります。
望まないものを手放すときは、この仕組みを活かすことをお勧めします。
感情から言葉を切り離すか、少なくとも うれしい ・ 悲しいなど以上の言葉 (ストーリー) を付け足すことなく直視し感じることです。
言葉の意味と力を知って使いこなせば、少しずつでも望む現実が形になっていきます。
それに氣づいたとき、ご自身がこの世界に暮らす者であると同時に この世界を創る者でもあることを実感されるでしょう。
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