前の続き。
「今怒っている」ように見えて 実は過去の記憶に反応してた。。。これは大きな氣づきでした。
じゃあ、そこからどうする?
どうやって怒りから解放される?
思いつくのは、過去の記憶に遡って どこでどんなふうに感情のしこりやつかえが残っているのか確かめてみよう、ということ。
いったんそういう目で見直すと、幼い頃のことでも案外覚えているものなんですね。
2、3才ぐらいの記憶でも、たまにとても鮮やかに焼きついているものがありますが、そういうのって このプロセスで手がかりになるようあらかじめ残された記憶なのかもしれないな、と思ったものです。
これこれの感情のおおもとを知りたい、という意思を持つと、それが引き寄せの原動力になるのか、磁石に吸い寄せられるように 必要な記憶が集まってきたり、ふいのひらめきで 一見関係なさそうな記憶どうしが結びついて 答えが見えたり。
また、親との何氣ない思い出話の記憶が 思いがけない手がかりになることも。
が。。。あれこれ思い当たる出来事の発見に、ときには涙を流しながら 幼い自分の痛み・苦しみに共感し、とりあえず心の奥に封じるという手段で耐えながら ここまでいのちをつないでくれたことに感謝もし、そのときはしみじみ癒された、という氣持ちになれるのですが。
ちょっと経つと、すぐまた前と同じ 怒りに満ちた状態に戻っちゃうんだよね
長年強化され続けてきた回路は それだけ強くクセ付けられてもいるもの、ここはひとつ根氣よく、と、癒しのプロセスをえんえん繰り返す日々が続きました。
そんなあるとき。
ひとつの情報が目に留まりました。
「私たちは、何かの出来事に遭遇したとき湧き起こる反応を『感情』だと思っているが、実際に上がってくるのは ある種のからだの感覚であり、この感覚に『不安』『怒り』『悲しみ』などと名づけて分類したものを『感情』と呼んでいるのだ。
過去に否定的な状況で起こった出来事の記憶が、そのときのからだの感覚と否定的な感情が結びつく形で残り、同じような状況に再び置かれたとき 感覚 → 感情 と展開する形で再現されるのだ。
つまり、ある出来事に連動して からだの感覚が上がってきただけなのに、そこに貼られたレッテルの影響で、不安だの怒りだのの反応を、自分の意思と関係なく 自動的に繰り広げてしまう。
そうとわかれば、体の感覚に氣づき そちらに集中することで 感情のドラマと切り離し、意図せぬ感情に振り回されないでいられるようになる」
以前にも幾度かあったことですが、ことさら大事な情報というのは、大事としっかり認識させるためか 互いに関連のない複数の情報源から(多少のタイムラグはありますが)重複して入ってくるようなのです。
このときもそう。
あるブログでこの話を読んで、ぴーんとくるものがあったところに、たまたま前から持っている本を読み返していて、それまで読み流していた箇所に それを裏づけるようなことが書かれているのに氣がつきました。
負の感情をコントロールできない長年の悩みのからくりを解き明かしてくれるこの情報、きっと重要な手がかりに違いない
さっそく“仮説”として取り入れさせていただきました。
で、仮説に従って観察してみると。
カッとなる、ど~んと落ち込むなど、感情の動きはたしかに派手でわかりやすいのですが、そのインパクトは 同時に体感する感覚(不快感)によるところも大きいのに、つい感情の紡ぐストーリーを追うほうが先になってしまい、からだの感覚のほうは「そういえば。。。」という感じで あとから思い出すか、まったく見落としたままか。
だから、確かに感情のほうばかり見えがちなのだけれど、氣をつけて見ていると、感覚と感情とほぼ同時、どちらが先ともいえないタイミングで起こっているようでもあり。
で、仮説の言うとおり、感情はわきに置いて、感覚に集中してみました。
最初は 集中しすぎて感覚と一体化してしまい、かえってしんどくなったり、という失敗もありましたが、少し離れたところから「ふむふむ、みぞおちのあたりががずしんと重いな」「喉元が締めつけられるようで息苦しい」などと冷静に観察していると、不思議なことに そのうちそれがすぅーっと消えてゆくのです。
そして氣づくと、感情の激しい揺れも ほぼ収まっている。
なるほど、感覚のほうが引き金だというのなら、そのおおもとが消えれば 感情はそれ以上発展しようがないよね。。。うん、この仮説、当たっていそう。
「神との対話(ニール・ドナルド・ウォルシュ著)」っていう本に 「抵抗すれば、相手はかえって強くなる。見つめれば、消える」とあったけど、こういうことだったのね。。。文字通り感覚消えてるし。
ここで直前の荒れ模様の記憶にちょっとでも戻ると たちまち元の木阿弥なので、そこに触れないよう すっと他のことにうまく氣を移せば、以前とは比べ物にならないほどすんなりと 感情の嵐を終わらせることができます。
感情のほうをなだめていたときよりスムーズで、時間もエネルギーもはるかに少なくて済む。
これはいいこと教わった~♪ と、嬉々として使わせていただくようになりました。
が。。。
やはり長年のクセ付けは強固なのでしょう、少しするとまた 同じような感情の荒れが起こってきます。
しぶといのは最初からわかっていたこと、ここであきらめたらおしまいよ、と自分を励まし続けましたが、先が見えないままでの同じことの繰り返しは、なんだか賽の河原の石積みみたい。
次第に氣持ちがマヒしてくるっていうのか、なんのためにこんな努力を続けているのか見失って、ルーティンワークのように いささか投げやりに 機械的に続けたり、ときには感覚を見つめること自体を忘れてしまったり。
それでも すっかり投げ出してはしまわなかったおかげで、時間はかかったけれど、その先に とても大切なものを見ることができたんですね。
けっこう長いなぁ、この話・・・また次に続けますね(^^ゞ
「今怒っている」ように見えて 実は過去の記憶に反応してた。。。これは大きな氣づきでした。
じゃあ、そこからどうする?
どうやって怒りから解放される?
思いつくのは、過去の記憶に遡って どこでどんなふうに感情のしこりやつかえが残っているのか確かめてみよう、ということ。
いったんそういう目で見直すと、幼い頃のことでも案外覚えているものなんですね。
2、3才ぐらいの記憶でも、たまにとても鮮やかに焼きついているものがありますが、そういうのって このプロセスで手がかりになるようあらかじめ残された記憶なのかもしれないな、と思ったものです。
これこれの感情のおおもとを知りたい、という意思を持つと、それが引き寄せの原動力になるのか、磁石に吸い寄せられるように 必要な記憶が集まってきたり、ふいのひらめきで 一見関係なさそうな記憶どうしが結びついて 答えが見えたり。
また、親との何氣ない思い出話の記憶が 思いがけない手がかりになることも。
が。。。あれこれ思い当たる出来事の発見に、ときには涙を流しながら 幼い自分の痛み・苦しみに共感し、とりあえず心の奥に封じるという手段で耐えながら ここまでいのちをつないでくれたことに感謝もし、そのときはしみじみ癒された、という氣持ちになれるのですが。
ちょっと経つと、すぐまた前と同じ 怒りに満ちた状態に戻っちゃうんだよね
長年強化され続けてきた回路は それだけ強くクセ付けられてもいるもの、ここはひとつ根氣よく、と、癒しのプロセスをえんえん繰り返す日々が続きました。
そんなあるとき。
ひとつの情報が目に留まりました。
「私たちは、何かの出来事に遭遇したとき湧き起こる反応を『感情』だと思っているが、実際に上がってくるのは ある種のからだの感覚であり、この感覚に『不安』『怒り』『悲しみ』などと名づけて分類したものを『感情』と呼んでいるのだ。
過去に否定的な状況で起こった出来事の記憶が、そのときのからだの感覚と否定的な感情が結びつく形で残り、同じような状況に再び置かれたとき 感覚 → 感情 と展開する形で再現されるのだ。
つまり、ある出来事に連動して からだの感覚が上がってきただけなのに、そこに貼られたレッテルの影響で、不安だの怒りだのの反応を、自分の意思と関係なく 自動的に繰り広げてしまう。
そうとわかれば、体の感覚に氣づき そちらに集中することで 感情のドラマと切り離し、意図せぬ感情に振り回されないでいられるようになる」
以前にも幾度かあったことですが、ことさら大事な情報というのは、大事としっかり認識させるためか 互いに関連のない複数の情報源から(多少のタイムラグはありますが)重複して入ってくるようなのです。
このときもそう。
あるブログでこの話を読んで、ぴーんとくるものがあったところに、たまたま前から持っている本を読み返していて、それまで読み流していた箇所に それを裏づけるようなことが書かれているのに氣がつきました。
負の感情をコントロールできない長年の悩みのからくりを解き明かしてくれるこの情報、きっと重要な手がかりに違いない
さっそく“仮説”として取り入れさせていただきました。
で、仮説に従って観察してみると。
カッとなる、ど~んと落ち込むなど、感情の動きはたしかに派手でわかりやすいのですが、そのインパクトは 同時に体感する感覚(不快感)によるところも大きいのに、つい感情の紡ぐストーリーを追うほうが先になってしまい、からだの感覚のほうは「そういえば。。。」という感じで あとから思い出すか、まったく見落としたままか。
だから、確かに感情のほうばかり見えがちなのだけれど、氣をつけて見ていると、感覚と感情とほぼ同時、どちらが先ともいえないタイミングで起こっているようでもあり。
で、仮説の言うとおり、感情はわきに置いて、感覚に集中してみました。
最初は 集中しすぎて感覚と一体化してしまい、かえってしんどくなったり、という失敗もありましたが、少し離れたところから「ふむふむ、みぞおちのあたりががずしんと重いな」「喉元が締めつけられるようで息苦しい」などと冷静に観察していると、不思議なことに そのうちそれがすぅーっと消えてゆくのです。
そして氣づくと、感情の激しい揺れも ほぼ収まっている。
なるほど、感覚のほうが引き金だというのなら、そのおおもとが消えれば 感情はそれ以上発展しようがないよね。。。うん、この仮説、当たっていそう。
「神との対話(ニール・ドナルド・ウォルシュ著)」っていう本に 「抵抗すれば、相手はかえって強くなる。見つめれば、消える」とあったけど、こういうことだったのね。。。文字通り感覚消えてるし。
ここで直前の荒れ模様の記憶にちょっとでも戻ると たちまち元の木阿弥なので、そこに触れないよう すっと他のことにうまく氣を移せば、以前とは比べ物にならないほどすんなりと 感情の嵐を終わらせることができます。
感情のほうをなだめていたときよりスムーズで、時間もエネルギーもはるかに少なくて済む。
これはいいこと教わった~♪ と、嬉々として使わせていただくようになりました。
が。。。
やはり長年のクセ付けは強固なのでしょう、少しするとまた 同じような感情の荒れが起こってきます。
しぶといのは最初からわかっていたこと、ここであきらめたらおしまいよ、と自分を励まし続けましたが、先が見えないままでの同じことの繰り返しは、なんだか賽の河原の石積みみたい。
次第に氣持ちがマヒしてくるっていうのか、なんのためにこんな努力を続けているのか見失って、ルーティンワークのように いささか投げやりに 機械的に続けたり、ときには感覚を見つめること自体を忘れてしまったり。
それでも すっかり投げ出してはしまわなかったおかげで、時間はかかったけれど、その先に とても大切なものを見ることができたんですね。
けっこう長いなぁ、この話・・・また次に続けますね(^^ゞ
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