日曜のこれぐらいの時間にさしかかると、ふと 憂鬱なような 寂しいような 物悲しいような 名状しがたい感情がこみ上げてくることがあります。
これは 子どものころの記憶のお名残り、他人が苦手で 学校が好きでなかった私は、日曜の夕方になると 明日からまた学校か~、と 会社嫌いのサラリーマン並みに氣が重くなる子だったのです (^^ゞ
そして今でも ふとした拍子に、日の傾き具合や 夕刻の時報、サザエさんのテーマ音楽なんかがスイッチになって、当時の感情がよみがえるんですね。
思い出の場面と そのとき味わった感情は、しっかり結びついて記憶されるようです。
そのため、出来事が感情を生む、出来事が先で 感情があと、という印象になりやすく、不快な思いを味わったのと同じシチュエーションは避けたくなるし、幸せな氣持ちを呼び覚ますものなら 追いかけたくなります。
でも、幸せになるのに なにがしかの出来事が必要だとしたら、それは 「条件付き幸せ」 であり、幸せかどうかは つねに外側の状況に左右されることになってしまう。
私も長いこと そんなふうに思い込んでいましたが、実はそういうものでもないらしいと知ったのは、津留晃一さんのこのようなメッセージから。
「豊かさの本質」 「意識の焦点」
空が冴え冴えと青いから、吹き抜ける風が心地よいから、陽の光が 花が美しいから 幸せなんだと思い込んでいたけれど、空や風や日ざしや花は もともと私の中にあった幸福感を誘い出し その存在を思い出させるきっかけに過ぎず、それらと出会う前から 幸福感は いつでも私のもとにあったのだ、と氣づかされ、意識が変わり出しました。
そもそも人の本質そのものである幸福感の存在を そこまで感じ取れずにいたのは、それを覆い隠す 積年の不安や恐れが あまりにも多過ぎたから。
真我を忘れ、小我のがんばりで なにもかも乗り切ろうとしていたから。
感覚フォーカスで 分厚い覆いが薄くなるにつれて、雲間から漏れる光のように ときおり 何の理由もなく幸福感がこみ上げるようになり、やはりきっかけなしでも感じられるものだったのだという体験が重なって、意識の変革に拍車がかかり始めました。
今でも 空や風や日ざしや花で 幸せになれるけれど、それが条件というわけではなく、特別なきっかけなしでも そう感じようと思えば 幸せになれるのだ、との実感が、少しずつ深まってきています。
また、自然のみならず 無機質なものの中にも これまで感じ取れなかった美しさや感動を覚えることが多くなりました。
知らず知らずのうちに生まれていた 「自然の対極にあるものは 美しくも心地よくもない」 という偏見が、並行して薄れてきているんでしょうね。
ちょっとしたきっかけひとつで、心は幸せにも不幸せにも すいっと傾く。
そんなこの世界の二極性を活かして 幸福と不幸のギャップを味わい楽しむのもありだけれど、そんな行き来に なんとなく疲れを覚えるようになった今、幸福というものの概念が大きく変わってゆく過渡期にさしかかっているようです (^^)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます