前々回の記事で 「数ある可能性の中から 具体的な物や行為を選び出すのが分離、それを消費 ・ 行動し終えて記憶に変わるのが統合」 と書きました。
これは外側の世界での目に見える分離と統合ですが、もうひとつ 人の内側での分離と統合というものもあるんですね。
人としての本質から離れるのが分離で、そこから再び本質に戻るのが統合。
貴秋は、人生とは 「行ってかえる (帰る、返る、還る) の物語」 だと思っています。
息を吸っては吐くように、自身の本質から離れては戻る、行ってはかえる、これを繰り返せば繰り返すほど、コントラスト効果を通して自身のすばらしさをより深く知ることができるのだと。
私たちの本質が外ではなく内にあることを思えば、内なる 「行ってかえる」 こそ、私たちがこの物質世界でもっとも体験したかったことだといっていいでしょう。
内側の分離については、何ひとつ努力する必要はありません。
生まれ落ちた直後から 周囲の大人と意識を共有することで発生するバグ (本来自分のものではないはずの否定的な観念や価値観) が、全部やってくれるからです。
他者由来の観念や価値観が 知覚できない意識領域に入り込むことで、私たちは 「本質的な自分」 と 「後付けの観念に支配される自分」 に分裂して 本質を見失ったまま生きることになり、さまざまな歪みが生じました。
なぜか望まないことが起きる、なぜか思うように生きられない、そんな自分に自信が持てない。。。のような悩みを抱えて生きることになったわけです。
が、それらは本来の自分でないものをこそ体験してみたいと願った魂が仕組んだことであり、一度味わえば十分で、そこでおしまいになるはずだったのです。
魂は 私たちをいたずらに苦しめたかったわけではなく、否定的体験という 「行き」 の道と それを終わらせ本来の自分に戻る 「かえり」 の道をワンセットにして、ビフォーアフターの対照効果で 真の自分のすばらしさをより深くリアルに知りたかっただけなのですから。
私たちの世界には、「エントロピー増大の法則」 というものがあります。
「物事は 放っておくと乱雑 ・ 無秩序 ・ 複雑な方向に向かい、自発的に元に戻ることはない」 という法則で、物品が劣化する、熱した物が冷める、整えられた場が散らかるなどという現象は この法則に基づく変化です。
それなら 作られた思い込みだって崩れていきそうなものですが、そうならないのは バグが意識の知覚できない領域に入り込んでいるせい。
まだ言葉を使えない幼少期に入り込んだ観念は、明確な形を持たない曖昧な存在として意識の奥に隠れてしまっており、私たちは 自分の中にそんな厄介なものがあることに氣づきません。
ゆえに バグにコントロールされていることにも氣づかぬまま、バグに沿ったネガ体験をすることになる。
魂の意図としては、一度だけ体験して終われば それでOKだったのです。
が、私たち人間には不快なことを避けようとする防衛本能とでもいうようなものが備わっているため、ネガと向き合うよりも 目を背けたい衝動のほうが強く、起きた出来事を直視せぬまま 自己正当化の物語やあきらめの物語を創るほうにいってしまう。
こうなると、意識の表層はそれで取り繕えても その奥のバグはそっくり残ったまま、さらにその奥にはすべてを見通す本質の目も存在するため、矛盾した認識がきしみを起こして 落ち着かないものを感じさせ、それを手放させるため 再び潜在意識が その不快感を不快な体験に変換し・・・の繰り返しとなります。
いやなことが度重なれば、人は萎縮して自信を失い、自分が頼りない存在に思えてくるもの。
なので、この先また悪いことが起こらぬようにと 先回りして準備し身構える、それが未来への不安や そんな境遇に自分を追い込んだものへの怒りとなって、さらなる負の再創造を促す原動力となる、という悪循環が起きるわけです。
つまり、エントロピーの法則が働かないのではなく、ネガ体験が終わる端から 新たなネガ体験を生むエネルギーが生まれ、バグを手放すどころか かえって強化してしまっている、ということ。
貴秋もまさにこのからくりで、不快な体験を数十年にわたり これでもかというぐらい重ねてきました。
が、感覚フォーカスという手立てを得たおかげで、氣づいたら いつのまにか いやなことが起きなくなっていました。
「しばらく起きてないけど、またいつ起きるかわからないよ」 という内心の懐疑的な声にも さらなるフォーカスで対応するうちに だんだんわかってきたのです、負の感情を実際の出来事として味わって終わらせることもできれば、ただの感情のうちに味わって 形になる前に終わらせることもできるのだと。
この氣づきに力を得て、これまでになく積極的に どんな小さなネガも逃さずフォーカスするようになったおかげで、いまでは 魂がイベントとして設定したものを除けば、もう自分の人生にいやなこと怖いことは起こらないと思えるまでになりました。
いまの貴秋は 自信を持って言えます、どんな悩みも苦しみも 自分の手できっぱり終わらせることができると。
外の世界ばかり見て 否定的出来事を人のせい環境のせいにしたくなる氣持ちをいったん保留にして、自分の内に目を向け 内なる闇と向き合えば、私たちはひとりの例外もなく 自分の世界を自分の手で変えることができるのです。
これは外側の世界での目に見える分離と統合ですが、もうひとつ 人の内側での分離と統合というものもあるんですね。
人としての本質から離れるのが分離で、そこから再び本質に戻るのが統合。
貴秋は、人生とは 「行ってかえる (帰る、返る、還る) の物語」 だと思っています。
息を吸っては吐くように、自身の本質から離れては戻る、行ってはかえる、これを繰り返せば繰り返すほど、コントラスト効果を通して自身のすばらしさをより深く知ることができるのだと。
私たちの本質が外ではなく内にあることを思えば、内なる 「行ってかえる」 こそ、私たちがこの物質世界でもっとも体験したかったことだといっていいでしょう。
内側の分離については、何ひとつ努力する必要はありません。
生まれ落ちた直後から 周囲の大人と意識を共有することで発生するバグ (本来自分のものではないはずの否定的な観念や価値観) が、全部やってくれるからです。
他者由来の観念や価値観が 知覚できない意識領域に入り込むことで、私たちは 「本質的な自分」 と 「後付けの観念に支配される自分」 に分裂して 本質を見失ったまま生きることになり、さまざまな歪みが生じました。
なぜか望まないことが起きる、なぜか思うように生きられない、そんな自分に自信が持てない。。。のような悩みを抱えて生きることになったわけです。
が、それらは本来の自分でないものをこそ体験してみたいと願った魂が仕組んだことであり、一度味わえば十分で、そこでおしまいになるはずだったのです。
魂は 私たちをいたずらに苦しめたかったわけではなく、否定的体験という 「行き」 の道と それを終わらせ本来の自分に戻る 「かえり」 の道をワンセットにして、ビフォーアフターの対照効果で 真の自分のすばらしさをより深くリアルに知りたかっただけなのですから。
私たちの世界には、「エントロピー増大の法則」 というものがあります。
「物事は 放っておくと乱雑 ・ 無秩序 ・ 複雑な方向に向かい、自発的に元に戻ることはない」 という法則で、物品が劣化する、熱した物が冷める、整えられた場が散らかるなどという現象は この法則に基づく変化です。
それなら 作られた思い込みだって崩れていきそうなものですが、そうならないのは バグが意識の知覚できない領域に入り込んでいるせい。
まだ言葉を使えない幼少期に入り込んだ観念は、明確な形を持たない曖昧な存在として意識の奥に隠れてしまっており、私たちは 自分の中にそんな厄介なものがあることに氣づきません。
ゆえに バグにコントロールされていることにも氣づかぬまま、バグに沿ったネガ体験をすることになる。
魂の意図としては、一度だけ体験して終われば それでOKだったのです。
が、私たち人間には不快なことを避けようとする防衛本能とでもいうようなものが備わっているため、ネガと向き合うよりも 目を背けたい衝動のほうが強く、起きた出来事を直視せぬまま 自己正当化の物語やあきらめの物語を創るほうにいってしまう。
こうなると、意識の表層はそれで取り繕えても その奥のバグはそっくり残ったまま、さらにその奥にはすべてを見通す本質の目も存在するため、矛盾した認識がきしみを起こして 落ち着かないものを感じさせ、それを手放させるため 再び潜在意識が その不快感を不快な体験に変換し・・・の繰り返しとなります。
いやなことが度重なれば、人は萎縮して自信を失い、自分が頼りない存在に思えてくるもの。
なので、この先また悪いことが起こらぬようにと 先回りして準備し身構える、それが未来への不安や そんな境遇に自分を追い込んだものへの怒りとなって、さらなる負の再創造を促す原動力となる、という悪循環が起きるわけです。
つまり、エントロピーの法則が働かないのではなく、ネガ体験が終わる端から 新たなネガ体験を生むエネルギーが生まれ、バグを手放すどころか かえって強化してしまっている、ということ。
貴秋もまさにこのからくりで、不快な体験を数十年にわたり これでもかというぐらい重ねてきました。
が、感覚フォーカスという手立てを得たおかげで、氣づいたら いつのまにか いやなことが起きなくなっていました。
「しばらく起きてないけど、またいつ起きるかわからないよ」 という内心の懐疑的な声にも さらなるフォーカスで対応するうちに だんだんわかってきたのです、負の感情を実際の出来事として味わって終わらせることもできれば、ただの感情のうちに味わって 形になる前に終わらせることもできるのだと。
この氣づきに力を得て、これまでになく積極的に どんな小さなネガも逃さずフォーカスするようになったおかげで、いまでは 魂がイベントとして設定したものを除けば、もう自分の人生にいやなこと怖いことは起こらないと思えるまでになりました。
いまの貴秋は 自信を持って言えます、どんな悩みも苦しみも 自分の手できっぱり終わらせることができると。
外の世界ばかり見て 否定的出来事を人のせい環境のせいにしたくなる氣持ちをいったん保留にして、自分の内に目を向け 内なる闇と向き合えば、私たちはひとりの例外もなく 自分の世界を自分の手で変えることができるのです。