彗星捜索家で臨死体験者の木内鶴彦さんが 新しい社会システムに言及したとき、「物であれサービスであれ 値段をつけてはいけない」 と言われたと聞いたことがあります。
当時は感覚的にはうなずけたけれど いまひとつピンときていなかった貴秋ですが、いまはわかる氣がします。
しばらく下火になっていた一般家庭向けのセールス攻勢が 最近また激しくなってきたようで、電話を取れば 古物買い取りに電氣やガスの料金プランの見直しに家の外壁の塗り替え、ポストを覗けば塾の案内だの健康食品の通販だの健康飲料の宅配だののチラシ、と毎日のように何かしらの勧誘が飛び込んできます。
さらにテレビをつければコマーシャル、新聞 ・ 雑誌やネットにも広告の山。。。いまや当たり前の日常の一部となっているこの売り込み合戦ですが、見方を変えると奇異にも感じられます。
なんで私たちはこんなにも、自分自身や自分の生み出したものをせっせと売り込まねばならないのでしょう。
答えは簡単、生まれたときから そういう仕組みに取り込まれているからです。
誰もがみな、生きるのに必要なものを手に入れるために対価を支払わねばならない。。。。これは、ある者が他の者より多くを持ち 優遇されることを正当化するために作られた決まり事です。
人の手で作られたものなのだから 意に染まないなら変えることも可能なはずですが、数千年に渡って受け継がれてきた思い込みの支配により、私たちはこの決まり事を自然の法則と同じように受け入れ 従っています。
その結果、私たちのセルフイメージは大きく歪められてしまいました。
他者に受け入れられ認められなければ生きていけないという恐れに支配されるようになってしまったのです。
表向きは 「こんな素晴らしい商品 ・ 素晴らしいサービスをあなたのためにご用意しました」 と明るく謳っていても、その裏には 「これが売れなければ生きていけなくなる」 という必死さが滲み出ている。。。貴秋には、新聞の折り込みチラシからプロモーションビデオに至るまで いまの広告全般がそのように映って仕方ありません。
加えて、物やサービスの値段には 必ず利益分が上乗せされます。
つまり、本来のものの価値以上を請求し受け取らねば成り立たないように この仕組みは作られているのです。
あなたのためと言いながら、実際は私のために私に損がないように取り決め、しかもそれを相手に悟られないように演出する、この氣の使い方は、私たちの自尊心に影を落とします。
私たちは 現行のお金のシステムに絡め取られることで、つねに心の深部に 「お前は理想の生き方をしていない、お前は二枚舌だ」 と宣告する声を抱えながら それに耳を塞いで生きざるを得なくなったのです。
そうして売り買いされるすべてのものに 価格がつくわけですが、それは自分たちが作ったものだけではなく、自然界にもともと存在するものにも及びます。
私たちは、自身の生存が脅かされると 周囲の世界への敬意や感謝を忘れ、生き延びるために利用する資源としかみなさなくなるため、動物、植物、自身や同胞のエネルギーや時間さえも、値段がつけられ売り買いの対象となります。
その値段の付け方にもまたセルフイメージが反映し、強者と弱者の力関係で価値が定められます。
値をつけるとは、本来無限の価値や可能性を持つ私たちを 有限の枠に押し込める、いのちの流れに逆らう行為なのです。
こうして輝くいのちから一介の商品に成り下がった私たちは、いっそうのセルフイメージの低下を余儀なくされ、本来のありようからどんどん遠ざかることになりました。
この事情は、権力者側とて同じことです。
ほんとうに満ち足りて豊かで幸せだったら、どうして他者を支配したいなどと思うでしょう。
どうして他者より多くを得たいなどと思うでしょう。
いくら多くを得ても 心の隙間が埋まらず飢餓感が収まらないから、ますます貪欲になるのです。
一見敵対しているように見える支配者と被支配者は、飢えて満たされない思いというひとつのものの表裏に過ぎず、両者が同じリングで争い続けることにより、この世界で数千年の長きに渡って ネガティブな世界を共同創造し続けてきたのです。
ロシアとウクライナのどちらが勝とうが、コロナワクチンをえんえん打ち続けようが、SDGsを錦の御旗のように掲げようが、私たちのありようをいのち本来の姿に戻さない限り、私たちに未来はありません。
世界が滅びるかどうかの瀬戸際にあって いまさら勝者も敗者もない、トップだろうが庶民だろうが 私たちひとりひとりが心の飢えや痛みと向き合い、負の意識から解放されるに従って、オセロ盤が黒から白に雪崩をうってひっくり返るように 世界の混乱が収束に向かいます。
当時は感覚的にはうなずけたけれど いまひとつピンときていなかった貴秋ですが、いまはわかる氣がします。
しばらく下火になっていた一般家庭向けのセールス攻勢が 最近また激しくなってきたようで、電話を取れば 古物買い取りに電氣やガスの料金プランの見直しに家の外壁の塗り替え、ポストを覗けば塾の案内だの健康食品の通販だの健康飲料の宅配だののチラシ、と毎日のように何かしらの勧誘が飛び込んできます。
さらにテレビをつければコマーシャル、新聞 ・ 雑誌やネットにも広告の山。。。いまや当たり前の日常の一部となっているこの売り込み合戦ですが、見方を変えると奇異にも感じられます。
なんで私たちはこんなにも、自分自身や自分の生み出したものをせっせと売り込まねばならないのでしょう。
答えは簡単、生まれたときから そういう仕組みに取り込まれているからです。
誰もがみな、生きるのに必要なものを手に入れるために対価を支払わねばならない。。。。これは、ある者が他の者より多くを持ち 優遇されることを正当化するために作られた決まり事です。
人の手で作られたものなのだから 意に染まないなら変えることも可能なはずですが、数千年に渡って受け継がれてきた思い込みの支配により、私たちはこの決まり事を自然の法則と同じように受け入れ 従っています。
その結果、私たちのセルフイメージは大きく歪められてしまいました。
他者に受け入れられ認められなければ生きていけないという恐れに支配されるようになってしまったのです。
表向きは 「こんな素晴らしい商品 ・ 素晴らしいサービスをあなたのためにご用意しました」 と明るく謳っていても、その裏には 「これが売れなければ生きていけなくなる」 という必死さが滲み出ている。。。貴秋には、新聞の折り込みチラシからプロモーションビデオに至るまで いまの広告全般がそのように映って仕方ありません。
加えて、物やサービスの値段には 必ず利益分が上乗せされます。
つまり、本来のものの価値以上を請求し受け取らねば成り立たないように この仕組みは作られているのです。
あなたのためと言いながら、実際は私のために私に損がないように取り決め、しかもそれを相手に悟られないように演出する、この氣の使い方は、私たちの自尊心に影を落とします。
私たちは 現行のお金のシステムに絡め取られることで、つねに心の深部に 「お前は理想の生き方をしていない、お前は二枚舌だ」 と宣告する声を抱えながら それに耳を塞いで生きざるを得なくなったのです。
そうして売り買いされるすべてのものに 価格がつくわけですが、それは自分たちが作ったものだけではなく、自然界にもともと存在するものにも及びます。
私たちは、自身の生存が脅かされると 周囲の世界への敬意や感謝を忘れ、生き延びるために利用する資源としかみなさなくなるため、動物、植物、自身や同胞のエネルギーや時間さえも、値段がつけられ売り買いの対象となります。
その値段の付け方にもまたセルフイメージが反映し、強者と弱者の力関係で価値が定められます。
値をつけるとは、本来無限の価値や可能性を持つ私たちを 有限の枠に押し込める、いのちの流れに逆らう行為なのです。
こうして輝くいのちから一介の商品に成り下がった私たちは、いっそうのセルフイメージの低下を余儀なくされ、本来のありようからどんどん遠ざかることになりました。
この事情は、権力者側とて同じことです。
ほんとうに満ち足りて豊かで幸せだったら、どうして他者を支配したいなどと思うでしょう。
どうして他者より多くを得たいなどと思うでしょう。
いくら多くを得ても 心の隙間が埋まらず飢餓感が収まらないから、ますます貪欲になるのです。
一見敵対しているように見える支配者と被支配者は、飢えて満たされない思いというひとつのものの表裏に過ぎず、両者が同じリングで争い続けることにより、この世界で数千年の長きに渡って ネガティブな世界を共同創造し続けてきたのです。
ロシアとウクライナのどちらが勝とうが、コロナワクチンをえんえん打ち続けようが、SDGsを錦の御旗のように掲げようが、私たちのありようをいのち本来の姿に戻さない限り、私たちに未来はありません。
世界が滅びるかどうかの瀬戸際にあって いまさら勝者も敗者もない、トップだろうが庶民だろうが 私たちひとりひとりが心の飢えや痛みと向き合い、負の意識から解放されるに従って、オセロ盤が黒から白に雪崩をうってひっくり返るように 世界の混乱が収束に向かいます。