アンデルセンの童話に 「裸の王様」 というお話があります。
仕立て屋に成りすました二人の悪党に 「愚か者には見えない布地で作った服」 と称するものを着せられた・・・と思い込んだ王様、当人はもとより 家来も民衆も愚か者と思われたくない一心でないはずの服をほめそやしますが、小さな子どもの 「王様は裸だ!」 の声にはっと真実に氣づくというお話。
字数を氣にしてざっくり書き過ぎた氣がしないでもありませんが、それはともかくこの話、私たちが陥っている状況と実によく似ていると思うのです。
王様の新しい服なるものは、実際には存在しません。
ただ、まんまとだまされた王様や家来や民衆の意識の中にだけ存在するのです。
それに誰一人異を唱える者もないまま、「王様が素晴らしい服をお召しになっている」 という空想物語だけがどんどん肥大化して既成事実となり、ひとり歩きを始める。
事情を知らない者が見たら 「あんたら揃いも揃ってなにやってんの!?」 と突っ込みたくなる光景ですが、その場の全員が自ら紡いだこのフィクションに取り込まれて 悪党どもの仕掛けにまんまとはまり込んだばかりか、いまや架空の物語の共同製作者と化しています。
そもそも最初にだまされたのは王様一人、そのたった一人におおぜいの家来や民衆があっさり引きずられたのは、愚か者と思われたくないという以上に 「王様のご意向に逆らうことはできない」 という恐れから。
最初の一人が庶民だったら、「なに言ってんの、アンタどー見ても裸だから」 で済んだはずの話です。
が、皆の 「権力者には逆らえない」 という思い込みや さらには権力者におもねる氣持ちなどが積み重なって 強力な集団意識が生まれ、抗うのは至難の業となった。
ヒトラーのような独裁政権もそうですが、一握りの人間が多くの民衆を手玉に取れるのは、催眠にかけられたまま下支えする集団があってこそです。
王様の見えない服も、現行のお金のシステムや時間概念や法規制も同じこと。
私たち庶民の多くが催眠にかかったまま、意に染まないシステムや決まりごとの存続に知らず知らずの内に協力しているのです。
そうと氣づけば、一見ビクともしない強固な壁のように見えるどんな制度も、実は私たちひとりひとりが催眠から覚めるだけであっさり瓦解させられることがおわかりいただけるでしょう。
感覚フォーカスの積み重ねが功を奏したか、以前は氣づかなかったものに少しずつ目を開かれてきた貴秋に見えてきたのは、人間が支配する側とされる側にくっきり二分されている構図。
お金のシステムも時間も法も 一見複雑でややこしそうに見えますが、そのややこしいなんやかんやを突き抜けて見えてきたものは 実に単純明快な光景でした。
お金には持つ者と持たざる者があり、時間の制限にも課す者と課せられる者があり、法の運用にも裁く者と裁かれる者とがある。
庶民はつねに持たざる ・ 課せられる ・ 裁かれる側で、持つ ・ 課す ・ 裁く権限や裁量を一手に握っているのが 一握りの権力者。。。。というのが、貴秋の目に映るいまの世のありようです。
私たちがかかっている催眠は 仕立て屋に扮した悪党どもの仕掛けよりずっと面倒なので、純真な子どもの一声で解けるというわけにはいきませんが、手が届かない潜在意識に刷り込まれた思い込みも まっすぐ向き合い見つめることで次第に解けてゆくことはわかっています。
覚醒のプロセスには紆余曲折さまざまなことが待ち構えているでしょうが、そのひとつひとつをクリアしてゆくことこそ この体験の世界に生まれた醍醐味。
せっかくこの実体ある世界に、よりにもよってこの激動と覚醒の時代の真っ只中に この豊かで治安のいい日本というエリアに生まれてくることができたのですから、この幸運を生かさない手はない。。。。と貴秋は思うのです。