毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

いのちを超える物差しなんてあるのでしょうか ・ その4

2018年08月02日 11時28分04秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


杉田水脈議員のLGBT発言について考えていて ふと連想したのが、二年前に起きた 「相模原障害者施設殺傷事件」 。

(念のために申し上げれば、殺傷事件の加害者と杉田議員を同列に置く意図はまったくありません。)

あのとき多くの人が衝撃を受けたのは、事件の凄惨さもさることながら 加害者の男性が 「障害者の存在は健常者の負担であり 税金の無駄遣い」 という考えのもと 犯行に及んだという点でしょう。

過去何度もあったことですが、無機質な物差しを強引にいのちの上に置こうとする者が現れると、多くの人に動揺が走る。

これは 私たちが 「いのちより尊く いのちより重く いのちより大切なものはなにもない」 ということを固く信じる一方で、実際にはその信念に相反する基準に従って暮らしているという矛盾をいやおうなしに突きつけられるからではないでしょうか?




「お金 ・ 時間 ・ 法」 の三つは、私たちがこの三次元世界で 係わりを避けて通れない物差しです。

とりわけ 「お金」 の持つ力は強大で、お金がなければ人は生きてゆけない仕組みになっています。

どんないのちも等しく無条件に尊いもの、そう固く信じながら、他方では お金のあるなしで待遇が大きく変わり、極端な場合いのちを落とすこともある世界に 私たちは生きています。

現行のお金のシステムを受け入れる (受け入れざるを得ない) ことで、私たちはいのちの流れに逆行する力を 意志に反してでもやむを得ずでも 支え生かし続けているのであり、直視しようとしまいと その矛盾を抱えたまま 日々暮らしています。

そんな普段は目をやらないようにしている矛盾を いやおうなしに意識させられるのが、このような事件や問題なのではないでしょうか。




人が他者に向かって反発するとき、実は自身の受け入れがたい面を相手に投影しているのだ、という話があります。

この 「いのちとお金と どちらが大事?」 という疑問を突きつけられるたび 大論争が起こるのは、互いに 矛盾する二面の受け入れ難いほうを他者に叩きつけて 心のバランスをとろうとしているためではないでしょうか。

「いのちよりお金が大事なんてひどい!」 という思いと 「そんなこといったって お金がなければ生きていけないじゃないか!」 という思いがぶつかりせめぎ合う。

まわりの世界は自身の意識が形になったものという見方をすれば、このせめぎ合いは 私たちひとりひとりが抱える矛盾のせめぎ合いとも見てとれます。

となると 杉田議員の発言は、私たちが心の奥深く押し込んでいた矛盾をあぶり出し まっすぐ向き合うチャンスをくれたととることもできるのかもしれません。




心の内に矛盾を抱えていると、人は苦痛を感じます。

その苦痛を感じないよう 日ごろは心の底に押し込めて見ないようにしているわけですが、貴秋はこの数年 事あるごとに浮かび上がる苦痛を 言葉を切り離した上で ひたすら直視し 感じ続けてきました。

からだの感覚として響き渡るそれは、一度で立ち去るものもあれば 何度となく戻ってくるものもありましたが、向き合うたびに薄れ 最終的にはほとんど存在を感じなくなるまでになりました。

あるとき 「古いものを手放して空いたスペースに 新しくもっといいものを育てよう」 というインスピレーションが湧き、以後は二つを並行して勤しんでいます。

そしてふと氣づいたのです、これは物差しの入れ替えなのだと。

自分を幸せにしない価値観を手放し もっと幸せになれる価値観と取り替えることを、知らず知らずのうちにしていたのです。




自分の世界をよくするのに 人と戦う必要はありません。

矛盾を見て見ぬふりする必要も、そんな自身を責める必要もありません。

ただありのままの自分に、自分の真実に氣づいていればいいのです。

自分軸が矛盾をはらんでぐらついたままでは、幸せな世界を築くことはできません。

信念に反して入り込んだつらい物差しは、このコントラストの世界で ほんとうの自分ではない要素を体験するためわざわざ置いたもの、十分味わえば 役目をまっとうして去ってゆきます。

代わって育て始めた新しい軸がしっかり根付けば、あとのことは向こうから起きてくるし、それにどう対応すればいいかもおのずとわかります。


すべては自身の軸 ・ 信念から生じていること、意識が変われば世界が変わります。



















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いのちを超える物差しなんてあるのでしょうか ・ その3

2018年08月02日 08時44分26秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


動物を無理やり杭につないで拘束しようとすれば暴れますが、生まれたときからずっとつないだままにしておけば それを当たり前のこととして受け入れ、杭を取り除いても ロープの半径より外に出ようとしないという話があります。

私たちが 「お金 ・ 時間 ・ 法」 というものを受け入れ 逆らおうとしないのも 同じようなものではないでしょうか。

生れ落ちたときから それは自分たちを左右する力を持っていて、従うのが当たり前と思い込んでいた。

やがてこの三つの物差しは 私たち自身の基準として意識に浸透し、宇宙の法則や自然現象同様に扱われてきたのです。




最近、以前は当たり前すぎて疑問を持たなかったものに 違和感を覚えることが多くなりました。

たとえば テレビのコマーシャル。

幼いころからごく自然に受け入れていましたが、いまは氣に障ってなりません。

感動的なドラマであれ 真摯な報道であれ 異国の地に実際に立っているかのように思わせてくれる紀行番組であれ、一定時間ごとに その流れをぶった切る異質な映像や音声が挟み込まれる。

その内容といえば、さまざまに演出を凝らしてはいても つまるところ 「私たちを選んでください、私たちにお金を落としてください」 という熾烈なPRなのです。

番組とはおよそ相容れないそんな "異物” の侵入を おかしいとも思わず受け流していた以前の自分。

誰かが大切なことをけんめいに語りかけている横から 見知らぬセールスマンが一方的に割り込んで売り込みを始めたら、「なにこの人?」 と思いもすれば、「話が済むまで待ってください!」 と文句のひとつも言うでしょうに、テレビとなると当たり前に受け入れていた自分の感覚が いまは妙に思えます。

もうひとつ強烈なパンチをくらったのが、お金について 知らず知らずのうちに身についていた意識。

お金持ちの資産、土地の評価額、施設の建設費用、スポーツ選手の契約金、災害の被害額、などなど お金に換算され語られることのいかに多いことか。

そしてその習慣を不思議に思わず、語られる金額が大きいほど 「すごい!」 と思い込んでいた自分。

金額が大きい = すごいこと なのだという物差しを いつのまにかがっちりつかんでいた自分に驚きです。

それもたしかにひとつの基準ではあるけれど、金額ではとうてい推し測れないもののほうが ひとりひとりの人間にとってはるかに大きいのだということをきれいに見落としていた自分にショックです。

お金をたくさん持っている ・ お金がたくさんかかっていることと 「すばらしい ・ 優れている」 はつねにイコールなのか、被害額の大きさで 被害を受けた人の心の痛みを感じ取れるものなのか。

センセーショナルな金額の向こうに置き去りにされた個々の人生の物語を忘れ お金の高にばかり氣を取られていた自分が、いまは不思議です。




杉田議員の話に戻れば、LGBTの人たちを 「生産性」 という物差しで判断評価しようとする姿は、まさにお金をいのちとしての人の上に置くという議員の意識のありようを浮き彫りにしています。

そんな議員の発言がここまでの問題となったのは、同じ考えを持つ人が 杉田議員ひとりだけではないということ。

個人の価値観なら 「へぇ~そんなこと思ってるんだ」 「それってどうなの?」 ぐらいで済む話ですが、そうならないのは 価値観を同じくする人がそれだけおおぜいいるということでしょう。

とすれば、杉田議員の発言の是非をいくら問うても、争いが大きくなりこそすれ みなが氣持ちよくうなずける解決を見ることは まず不可能。

「抵抗すれば 相手はますます大きくなる」 、意見の異なる相手に反発すればするほど 相手も強さを増して押し返してくるのですから。

ここで大切なのは、「人であれ他の何であれ いのちという無限の存在の価値を お金という有限の物差しではかることを 自分は選ぶのか」 と 自分に向けて問うことだと 貴秋は思います。

他者ではなく、自身に問うのです。




戦いが目的なら 他者と言い争うのは有効ですが、これ以上誰も辛い思いをすることがないよう願うのなら 非難の応酬はなんの役にも立ちません。

歴史を振り返れば明らかなこと、争いや戦いで未来永劫続くような平和が得られたことなど ただの一度もないのですから。

同じことの繰り返しは不毛なだけ、私たちは新しい意識で新しいやり方を見つけるときに来ているのだと思います。

















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