杉田水脈議員のLGBT発言について考えていて ふと連想したのが、二年前に起きた 「相模原障害者施設殺傷事件」 。
(念のために申し上げれば、殺傷事件の加害者と杉田議員を同列に置く意図はまったくありません。)
あのとき多くの人が衝撃を受けたのは、事件の凄惨さもさることながら 加害者の男性が 「障害者の存在は健常者の負担であり 税金の無駄遣い」 という考えのもと 犯行に及んだという点でしょう。
過去何度もあったことですが、無機質な物差しを強引にいのちの上に置こうとする者が現れると、多くの人に動揺が走る。
これは 私たちが 「いのちより尊く いのちより重く いのちより大切なものはなにもない」 ということを固く信じる一方で、実際にはその信念に相反する基準に従って暮らしているという矛盾をいやおうなしに突きつけられるからではないでしょうか?
「お金 ・ 時間 ・ 法」 の三つは、私たちがこの三次元世界で 係わりを避けて通れない物差しです。
とりわけ 「お金」 の持つ力は強大で、お金がなければ人は生きてゆけない仕組みになっています。
どんないのちも等しく無条件に尊いもの、そう固く信じながら、他方では お金のあるなしで待遇が大きく変わり、極端な場合いのちを落とすこともある世界に 私たちは生きています。
現行のお金のシステムを受け入れる (受け入れざるを得ない) ことで、私たちはいのちの流れに逆行する力を 意志に反してでもやむを得ずでも 支え生かし続けているのであり、直視しようとしまいと その矛盾を抱えたまま 日々暮らしています。
そんな普段は目をやらないようにしている矛盾を いやおうなしに意識させられるのが、このような事件や問題なのではないでしょうか。
人が他者に向かって反発するとき、実は自身の受け入れがたい面を相手に投影しているのだ、という話があります。
この 「いのちとお金と どちらが大事?」 という疑問を突きつけられるたび 大論争が起こるのは、互いに 矛盾する二面の受け入れ難いほうを他者に叩きつけて 心のバランスをとろうとしているためではないでしょうか。
「いのちよりお金が大事なんてひどい!」 という思いと 「そんなこといったって お金がなければ生きていけないじゃないか!」 という思いがぶつかりせめぎ合う。
まわりの世界は自身の意識が形になったものという見方をすれば、このせめぎ合いは 私たちひとりひとりが抱える矛盾のせめぎ合いとも見てとれます。
となると 杉田議員の発言は、私たちが心の奥深く押し込んでいた矛盾をあぶり出し まっすぐ向き合うチャンスをくれたととることもできるのかもしれません。
心の内に矛盾を抱えていると、人は苦痛を感じます。
その苦痛を感じないよう 日ごろは心の底に押し込めて見ないようにしているわけですが、貴秋はこの数年 事あるごとに浮かび上がる苦痛を 言葉を切り離した上で ひたすら直視し 感じ続けてきました。
からだの感覚として響き渡るそれは、一度で立ち去るものもあれば 何度となく戻ってくるものもありましたが、向き合うたびに薄れ 最終的にはほとんど存在を感じなくなるまでになりました。
あるとき 「古いものを手放して空いたスペースに 新しくもっといいものを育てよう」 というインスピレーションが湧き、以後は二つを並行して勤しんでいます。
そしてふと氣づいたのです、これは物差しの入れ替えなのだと。
自分を幸せにしない価値観を手放し もっと幸せになれる価値観と取り替えることを、知らず知らずのうちにしていたのです。
自分の世界をよくするのに 人と戦う必要はありません。
矛盾を見て見ぬふりする必要も、そんな自身を責める必要もありません。
ただありのままの自分に、自分の真実に氣づいていればいいのです。
自分軸が矛盾をはらんでぐらついたままでは、幸せな世界を築くことはできません。
信念に反して入り込んだつらい物差しは、このコントラストの世界で ほんとうの自分ではない要素を体験するためわざわざ置いたもの、十分味わえば 役目をまっとうして去ってゆきます。
代わって育て始めた新しい軸がしっかり根付けば、あとのことは向こうから起きてくるし、それにどう対応すればいいかもおのずとわかります。
すべては自身の軸 ・ 信念から生じていること、意識が変われば世界が変わります。