6月半ばの実家の庭、ことしも満開のクチナシの花が甘い香りを漂わせています。
草取り、剪定、球根の掘り上げにポット苗の植え替えと、この季節の庭はさまざまな作業で大忙しですが、そんな例年の営みも ことしはなんだか違うのです。
生き物のお世話をしている感が これまでになく強いのです。
言い換えれば、これまでは 「物ではなくいのちなんだ」 とわかっているつもりで、実は 動かず言葉も発しない植物に どこか物を扱うように接していたということでもあるのですが。。。。
狭い庭に無計画に植え込まれた何本もの庭木たちは、虫がついたり伸びた枝で通路が確保できなくなったりするのを防ぐために 梅雨前にしっかり刈り込んでおく必要があるのですが、ことしはそれ以上に 「じめじめした季節でも木々たちが氣分よく過ごせるように」 という氣持ちで作業していたように思います。
また以前は 卒業記念樹のように由来がわかっていて思い出深い木や美しい花を楽しみにしている木と そうでない木とでは 関心の向け方がまるで違っていたのですが、ことしはこれまで名を知ろうともしなかった木々もみな等しくいとおしく思え、一本一本としっかり向き合い 名前から適切な手入れの仕方まで改めてきちんと調べるようになりました。
「木という物体」 ではなく、それぞれ表現 (姿形や性質など) は違えど どれも輝くいのちの現れであることに変わりはないんだと、いつのまにかナチュラルに思えるようになっていたのです。
さらに面白いことに、手入れ法の検索で たいていの木は大して間違ったこともしていなかったとわかり、剪定時期を間違えていたものも 書かれているようなトラブルはいっさいなく元氣に育ってくれており、そこでふと 氣持ちよいかどうかを問うことで 今してほしいことをその木に教えてもらっていたのではないかという考えが浮かびました。
彼らに親しみのこもった氣持ちを向けることでひとつになって意識を共有し、結果彼らの望みや感じていることが そのままこちらの意識に映し出されたのではないか、と。
声も表情もない植物との交流は 動物よりずっと難しいと思い込んでいましたが、それは相手と自分が別物だと決めつけていたためで、実はそれと氣づかずとっくに意識を通わせていたんですね。
ことしの庭からは、教えられ氣づかされることがことさら多いようです。
氣づきは 植物相手だけではありません。
去年父の仕事部屋のグリーンカーテンにと植えたゴーヤは ことごとく新芽の部分を食べられて枯れてしまったのですが、ことしの二本の苗の一方を同じくやられたとき その原因を見つけました。
ダンゴムシに食われていたのです。
一瞬ムカッときましたが、虫に対してもこれまでになく穏やかな氣持ちになっている今、酷いことはしたくありません。
ネットで調べて とりあえず残る一本を守るべく酢水やコーヒーかすで追い払いましたが、そのあとで思い出したのが J ・ アレン ・ ブーン著 「動物はすべてを知っている」 に載っていた あるエピソード。
ストロングハートという名犬との関わりから 異種間コミュニケーションの可能性を探究するようになり、さまざまな動物や虫たちと心を通じ合えるようになったブーン氏が、夕食にたかっていたアリと紳士協定を結んで立ち去ってもらうことに成功したという話です。
そうだ、抵抗すれば相手は強くなる、このままいけば ダンゴムシとの絶えざる闘争で心が荒み、ゴーヤもきっとまたダメになってしまうだろう。
だったらダンゴムシと協定を結び、残る苗を守れないものか?
さっそく心の中で 成長点の新芽や茎をかじられたら ゴーヤ全体が枯れてしまう、そうしたら私にもあなた方にも困ったことになるのだ、いのちに沿って素直に生きる賢いあなた達なら きっと私の言葉をわかってくれるだろう、と伝えました。
翌朝おそるおそる苗を覗き込んでびっくり、前日はゴーヤの根元にびっしり集まり 茎にも数匹登っていた集団が、茎から1~2センチ離れたところに丸くドーナツ状にすき間を空けて固まり じっとしているのです。
こちらの願いを聞き入れたという意思表示と受け取り、厚くお礼を言いました。
以来3日ほど経ちますが、成長点や茎を傷つけたり 葉をことごとく食い尽くしたりといったことはなく 下のほうの葉が数枚かじられて枯れただけ、ツルはぐんぐん伸びて つぼみがいくつかつき、すでに一輪目の花が咲いています。
これもやはり向こうから起きてきていることですが、なんだかいろいろと自分がいいほうに変わり、それに応じてまわりで起こることもどんどんいいように変わってきている氣がします。
変わりたい ・ もっとよくなりたいと望むなら、自分を変えようとするより まず自分でないものに氣づいて手放すこと、この説 完全に事実認定です。