毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

淡々 穏やか

2016年03月24日 12時33分33秒 | ふと思うこと


やっぱりわが家は最高! \(^o^)/

しっくりなじんだ空氣に取り巻かれ ひとり好き放題、時間の区切りなく “今の一番” に没頭できるこの環境、天国です。

ストレスの差か 食欲も大違い。。。。きのうは 朝カフェオレ一杯に、昼過ぎにチーズ&スライスオニオン乗せトースト一枚とコーヒー一杯、これで済んじゃった☆

感じるまま 思うがまま 自由に動けるとき、欲だの欲求だのも 限りなく薄くなるんだと 改めて実感しました。




じゃあ奈良に行くのをやめればいいかというと、ストレスがあるからこそ 取り組むべき課題もある、それに氣づかせてくれるあの場所も 今はどうやら必要らしい。

ストレスを生むのは 起こることそのものではなく、起こったことについての 私の判断解釈、つまりは 「思い込み」 なのですから。

こちらでどっぷり平穏に浸っているあいだは なかなか焙り出すことのできない 取り残された思い込みの数々、それらを事あるごとに引き出し 露わにしては 解放のチャンスを与えてくれる実家という場所にも、今は大きな意味と役目があるんだという氣がしています。




ふ~む、この行ったり来たりの生活、なかなか理想的なんじゃない?




きのうは お隣小学校の卒業式でした。

これまでは 祝福と共に 悲しみや寂しさを味わう日でもありましたが、今年は 胸に去来するものはありながらも どこか淡々としている自分に 変化を感じました。

すべては流れてゆく、来てはまた去ってゆく、とにもかくにもそういうもので、それをことさら うれしいの悲しいのと騒ぎ立てることもないらしい。

未練や執着は マインド (頭) の産物、持ち続けて 起伏激しいドラマティックな感情を 存分に味わうのもありなら、そう望めば 手放して 身のまわりを流れゆくものを 穏やかに眺めていることもできるのだと思うようになりました。




淡々と穏やか、いいものですね。

これもまた、暴れ馬のようにコントロールの効かない激情にさんざん悩まされたからこそ 言えることか。

修了式を終えた子どもたちが帰った後の、ウグイスの声と風の音だけが聞こえる家の中で、しみじみ静けさと平和を味わう 春の午後です。

























行って かえって

2016年03月21日 15時33分52秒 | ふと思うこと


きょうもうららかないいお天氣 (*^^*)





庭の姫君たちも ご機嫌麗しゅう




可憐です




豊かさと儚さが同居する えもいわれぬ風情




・・・・と なるべくきれいに咲き残っているところを選んで写したんだけれど、実は 乙女椿の花は そろそろおしまい。

これからは いよいよ桜ですね。

明日また家に帰るので、南紀の桜が楽しみです♪





*         *         *         *         *






分離と統合。

わかりやすい表現なのですが、堅苦しい感じがちょっと苦手。

貴秋は 「行って かえる」 という言い方が好きです。

「かえる」 がひらがななのは、「帰る」 「返る」 「還る」 など いろいろな字が当てはまるから。




「行き」 は、本来の自分から どんどん離れてゆくこと、ほんとうの自分でない要素を どんどん身につけてゆくこと、これが 「分離」 。

「かえり」 は、「行き」 で身につけたものを じっくり見直して、役目の終わったものを手放し 本来の自分に戻ってゆくこと、これが 「統合」 。

人の世の巡りは、拡張と収縮、暑さと寒さ、明るさと暗さ、など さまざまな対立要素の行き来を繰り返すことで 成り立っています。

分離と統合も そのひとつ。

そして今は、「統合」 の時期だと 貴秋は思っています。

私の勝手な感覚では、バブルのころが 「行き」 の絶頂期で、それが弾けたあたりで 「かえり」 に転じたような氣がしています。




以前と同じようにしているはずなのに なぜか今はうまくいかない、苦しいと感じるなら、それは 流れが変わったためかもしれません。

ニュースを見ていても、今までのように隠し事ができなくなった、今までのように儲けられなくなった、今までのようにうまくなだめて収められなくなった、など さまざまなきざしが見てとれます。

そのため、全体に世の中が悪くなっているような印象を受けますが、見ようによっては これはいいことなのかもしれません。

ごまかす、見栄を張る、ウソをつく、そんなやり方がいくらまかり通ったところで、ほんとうに幸せになれるはずがないもの。

そんな無理が通じなくなる流れは、ほんとうの自分でなくなるということがどういうことか じっくり味わったところで、本来の自分にかえれる 大きなチャンス。

無理やり幸せや豊かさを演出するような偽りをやめて、自分がほんとうに望んでいるのはなんなのか もう一度見直し、心の底からいい氣分になれるほうに 舵を切りなおす時期が来ているんじゃないかな。




大好きなことに没頭しているとき、美しいものを美しい おいしいものをおいしいと すなおに感じてうれしくなるとき、心の中に不安のかげりは見えません。

バブルに象徴されるように 「行き」 の道のりが お金をたくさん使って 外へ繰り出し 派手に浮かれ騒ぐほうへ進んでいったのなら、「かえり」 は その逆、内から満ち足りて お金も物も必要以上にほしいと思わなくなり、足元に最初からあった豊かさに氣がついて、それぞれのやり方を尊重しつつ 地道に楽しくやっていく、そんなほうに向かって歩き出す時代が来ているんじゃないかなぁ。




。。。。な~んて思いつつ、おはぎの仕上げにかかる貴秋なのでした (*^▽^*)ゞ






p.s.  おはぎ完成!















転換点

2016年03月09日 23時50分55秒 | ふと思うこと


またまた奈良より。

なんだかやたらと 行ったり来たりしている氣がしますが

きょうはかなりの雨降りで、ところによっては 靄が濃かったり 風が強かったりと 悪天候での山越えだったので、せっかく充電バッチリのカメラも 残念ながら出番なし、運転にもかなり氣をつかい たびたび休憩をはさみながらのドライブで、正午ごろには出発したというのに 実家到着は夕方6時過ぎ、いささかくたびれました (- -;)

しかも、戻れば即 家事が待ち構えているし(笑)

早くも 勝手氣ままなひとり暮らしが恋しくなりつつ、いやこれも まさにきのうのブログに書いたとおりのチャンス到来なのだと思い返して。

そもそもすべては自分が決めたこと、それが氣重だったり憂鬱だったりするのなら、なにか注視すべきものが潜んでいるという合図。

はい、さっそくフォーカスフォーカス。。。。っていうか、99、9%そのまま眠り込みそうだ




そういえば、きょうは部分日食だったのですね。。。。あいにくの雨で ちらとも拝むことができませんでしたが。

占星術的には かなり大きな転換点という意味合いもあったようです。

なにかとしんどいことも多いけれど、このタイミングで またしても奈良に舞い戻ったことにも きっと意味があるのでしょう。

そのあたりのことをちょこっと書きたかったけれど、もうだめ、頭が働かない・・・・ギブアップです




今夜から また寒くなるようですね。

春本番までもうひといき、みなさま 体調に十分ご注意の上、暖かくしてお過ごしくださいね。


























うーむ。。。。。。(-_-; )

2016年03月05日 10時03分58秒 | ふと思うこと


きのうは、実家から徒歩15分ほどのところにあるスーパーの リニューアル開店日。

買い物は あまりしょっちゅう行かなくていいよう 1週間~10日分ほどまとめ買いが基本なので、いつもなら車で行きますが、きのうは 駐車場も道路も大混雑が予想されたので、父の自転車を借りて行ってきました♪

この選択大正解、どんなところでもすいすい通れる自転車の軽快さ ・ ありがたさをなつかしく思い出しましたよ (^^)

考えたら、前にここで暮らしていたときは、自転車か電車で十分用が足りていたんだものね。




ところで、このスーパーの改装休業は、この町の抱えるちょっとした問題を 浮上させました。

すぐ近くに 代わりに行けるようなお店が見当たらず、徒歩か自転車しか交通手段のないお年寄りなどが “買い物難民” になると 声が上がったのです。

役場や町議さんたちが相談を受け、移動販売車の検討などがなされたようですが、短期間なのが災いしてか 採算が取れないということで 実現しなかったようです。




移動販売車?

ちょっとびっくりでした。

南紀のわが町では、移動販売車が 大音量でそれぞれのテーマミュージックなど流しながらやってくるのは、毎度おなじみの光景。

町内で数軒、いや 数台あるこのお店、それぞれのナワバリ受け持ち地区も きちんと決まっていて、お年寄りも 家からほんのちょっと出るだけで、なじみのおじさんと世間話に興じながら ゆっくり品定めし、楽しく買い物ができるシステムが、日常に がっちり組み込まれています。

もちろん 積み込める量には限度がありますから、品数もそう多くはないし お値段も高めですが、いったんそういうものと納得してしまえば それはそれで受け入れてやっていけるもの。

私も まだ車も免許もなかった湯の峰時代には、日常の買い物は 寮で一緒だった友人に連れて行ってもらっていましたが、仕事前に ちょこっとおやつのパンなど買いに行っては、おじさんとおしゃべりしたりしたものです。




そればかりでなく、小さな町のこととて 町中が親戚で友だちみたいなところがありますから、自力で用足しに動けない人が 遠慮なくまわりを頼れる空氣というのが、自然に出来上がっています。

まあこれは、引き受ける側には 時として負担が大きくなりすぎるという問題もあるようですが、その辺は持ちつ持たれつということなのか みなさんおおむね おおらかに構えているようにお見受けします。




あんな小さな山里で 立派に機能しているそんなシステムが、この 人口も一桁多く いかにも便利そうな町では 成り立たないとは。

今回はたまたま期間限定でしたから、みなさんどうにかしのいだようですが、万が一このスーパーの経営が立ち行かなくなったりしたら、大問題勃発です。




さらに問題は、買い物だけではありません。

こんなにぎやかそうな町でも、いまや 高齢化と空き家問題が 少しずつ忍び寄ってきているのです。

実家は80過ぎの父のひとり暮らし、ご近所もおおよそ似たり寄ったりで、私たちが移り住んだころはおおぜいいた子どもたちも、今はほとんど見かけなくなりました。

子ども世代は成長して次々巣立っていき、残った親世代の高齢化が進んで、やがて 櫛の歯が欠けるように 人数が減ってゆく。

すでに この地区でも、母の旅立ちを皮切りに、お向かいのご主人、お隣の奥さんと、一年ほどの間に 三人もいなくなってしまいました。

さらに年月が過ぎれば、いずれは 人の住まない家が じわりじわりと増えてゆくことになるのですね。

実際 町内を散歩していても、「売り家」 の札が立てられた まだ比較的新しそうな家が 何軒も目につくこと。

昔は畑地だったところが、大阪までの通勤に適したエリアということで 開発が進み、家がどっと増えた時期がありましたが、今 目立つのは、ハイツやマンションなどの集合住宅と 駐車場と 高齢者の介護施設。

一時は 人口の流入もすごかったようだけれど、今はどうなんでしょう。



高齢化や過疎化、利便性や空き家問題など、わが山里のような いわゆる 「田舎」 の問題だとばかり思い込んでいましたが、いまや街中でも無縁の話ではなく、むしろそういった事態に不慣れな分 こちらのほうが 問題が大きくなりそうにも思えます。




うららかな春の日ざしの下、久々のサイクリングを楽しみながら到着したスーパーで、復活開店を満を持して待ちうけていたとおぼしき おおぜいの高齢の方々の姿を目にして、帰り道は いろいろと考えさせられることになりました。

せっかく持っていったカメラですが、きのう撮ったのは この雲だけ。




青空にふぅわり浮かんだ なんともやわらかそうな雲のようすが あまりに魅力的で、歩道橋の上まで自転車を引っ張って えっちらおっちら上って撮った一枚。

この空のように、この町の暮らしも いつまでも穏やかで平和であってほしいものです。























いい一日でした♪

2016年02月24日 23時39分27秒 | ふと思うこと


きょう一番のお楽しみは、ピアノの練習♪

父がたっぷり2時間以上留守だったので、その間存分に。




学生時代 → ピアノ教師時代は 毎日のように弾いていたピアノも、和歌山に移ってからは とんとご無沙汰。

楽器が手元にないのだから 致し方なく (T_T)

それでも、いずれまたきっとピアノと暮らすぞ、すっかりなまってしまった手も 時間をかけて 昔の勘と技量を取り戻すぞ、という氣持ちを忘れたことはなく、今回の実家暮らしで ようやくそのチャンスが訪れたのです。




最初はゾンビかと言いたくなるぐらい ギクシャクして思い通りにならなかった手も、じっくり運指練習から再開することで 少しずつ動きがなめらかに。

練習を一日休めば 調子が落ちたのがありありとわかるといわれる演奏の世界、10年以上ろくすっぽ鍵盤に触れてもいなかったものが そう簡単に復調できるはずがないと思い込んでいたけれど、今の自分には そんな大きなブランクを補って余りあるほどの 新しい力が備わっていたのです。

まず、筋繊維一本ずつといいたくなるほどの微細な感覚にまで及びそうな からだのかすかな状態さえ キャッチできるようになっていたこと。

さらに、「できない」 「できっこない」 という否定的な思いを じっくり味わって手放す術を 身につけていること。

どちらも、感覚フォーカスの積み重ねの賜物。

自分の指、腕、肩、背中から足腰、すべての連動するさまを仔細に感じ取りながら、バランスの崩れているところを見つけ出しては 微調整して、最盛期の調子を取り戻してゆく一部始終の なんと楽しいことよ。

思えば これって、本来の自分のありようを取り戻してゆくプロセスと同じなんですね。

「弾く」 ということが、以前とまったく違った意味合いを帯びてきます。

以前の私は 他者から評価されるために弾いていた、今の私は ただ氣持ちの赴くまま 無心に弾くだけで 十分満たされている。




「できた!」 の連続の なんとワクワクすることか。

2時間があっという間、これほど集中して 無我夢中で練習を楽しんだのって 初めて \(^o^)/

同じ行為なのに その質も意味も 以前とまるで違う。。。。ほんとうの自分でないものを手放した報いは こんなところにも現れているのだと、強く意識させられたひとときでした。

あ~、ほんとうにいい日だった




おしまいに、きょうもちょこっと写真をば☆



夕方の散歩



大和川の土手の下



きょうの夕空は 優しい表情





夕日に照らされた梅の花



盛りは過ぎてしまったようだけれど、こっちでも咲いているところを見られてうれしかったよ

今度はちゃんと アップで撮れたしね





もう一度、ほんとうにいい一日でした (*^^*)
























語りたいもの 伝えたいもの

2016年02月21日 08時35分03秒 | ふと思うこと

夕べアップするはずのブログ、がんばったんだけど 睡魔に負けてギブアップ、遅くなってごめんなさい m(__)m




雨の朝、十津川から西吉野にかけての山間を走り抜けてのドライブ。

上下左右にうねりながら 100km近くえんえんと続く道、運転には神経を使いますが、次々と目に飛び込んでくる景色は 何度見ても見飽きない豊かさ、季節で 天候で さまざまに表情を変え、毎回楽しませてくれます。




つづら折れのカーブを曲がると ぱっと目に飛び込んでくる 「十二滝」





滝つぼの傍には 小さな祠と並んで こんな句碑が。。。。黒柳召波、江戸中期の俳人で 蕪村の弟子だとか 左の行の頭は 「耕す人」 って読むんですって





雨の日は 山のあちこちに靄がかかって、水墨画のような風景





こんな曇り空の下でも 翡翠のような色合いを見せる川





行きに カメラが作動しなくてオタオタしたダム湖畔、リベンジの一枚(笑) ここの水は きょうは濁り色だなぁ






まだまだ撮りたい景色があったのだけれど、雨はどんどん強まってくるし、ここ! と思うところに 車を停めるスペースがあるとも限らなくて。。。。

あと、接写の仕方がわからず、前日からの梅やふきのとうの花のアップが みんなボケボケになっちゃいました (T_T)

これかな?というモードを見つけたので、また試してみます。




実家近辺ではほとんど見当たらなかった梅の木、わが家のほうでは そこここで見ることができました♪

二月と梅の花の香りは もはや切っても切り離せません。

ウグイスの声は聞かなかったけれど、初鳴きまだかなぁ。。。。




こうして三度にわたり 思う存分写真を載せてみて、そのありがたみが身に沁みました。

美しい景色に感動して みんなにも味わってもらいたい! と思っても、言葉だけでお伝えするのは やはりムリがあります。

熊野も奈良も とても美しいものがたくさんあるところだから、これからも 心ときめくたびに 写真をアップして、感動の一部なりとも分かち合っていただけるなら、とても幸せなこと。




と同時に、私の本分は やはり 内なる世界について語るところにあるのだな、と思ったのも また事実なのです。

写真は楽しいけれど、それだけでは満たされない部分もあることを 思い知らされました。

いかめしい言葉だけれど、「天命」 って そういうものなんでしょうね。

写真主体のブログなら、もっと素晴らしいものが いくらもあるのだし。

それぞれに 持って生まれた才やお役目が違うということなのでしょう。




ここからまた、四季折々のスナップなど 浮き浮きとご紹介しつつ、五感を超えた世界がどうの インナーワールドがどうのと 相変わらずの話題に興じるブログに おのずと戻ってゆくことと思われます

そんなブログも一興とおつき合いくださる寛大な方々におかれましては、イミフ ・ 混沌の貴秋ワールドを 今後とも どうぞよろしくお願い申し上げます (*^^*)






















去るもの追わず♪

2016年02月14日 09時44分20秒 | ふと思うこと


あったか~い♪

夜中から明け方にかけて盛大に降っていた雨が止んで、まぶしい光が差し込んで、鳥たちの声がにぎやかに響いて、なんてうれしい一日の始まり♪




金曜日をもって 4週間16日のアルバイトが終わりました。

社員さんや一緒だった人たちに挨拶をして、着替えを済ませ、制服や備品をお返しして、これが最後の社用バスと電車の乗り継ぎで 実家に帰り着いたときは、16日間のさまざまな場面が脳裏にちらつき、懐かしいような名残惜しいような氣分が渦巻いていましたが、それも束の間のこと、夕食の支度などするうちに あっさりと 「思い出」 のラベルを貼られ 記憶の引き出しに収まって。




過去への執着が、どんどん薄れてゆくようです。

不安が減った分、何が起こっても起こらなくても 自分は大丈夫、という自信が深まったためかもしれません。

大切なこととは 必ず出逢えるし、出逢わなかったことは 必要ないこと ・ ご縁のないこと、だから 特定の物事に執着する意味はないのだと。

内側の調和を図りつつ 流れに身を任せ、来るもの拒まず ・ 去るもの追わずの心持ちでいればいいのだと。




・・・・・・・う~ん、さすがに 「来るもの拒まず」 と言い切れるほど腹は据わってないようですが (^◇^;)

でも、「去るもの追わず」 については、いけてる氣がする

人生で必要な出逢いは、たとえひとつを逃しても 必ず新しいチャンスが 形を変えてやってくる、と信じられるように思うのです。

楽しかった時間も 終わるものなら終わらせればいい、その中から 続くご縁は続くし、そうでないものは そこまででいいのだ、と。

もし 別れに悲しみや痛みを感じるなら、静かにその感じを味わえばいいのです。

いずれは すべて 収まるところに収まります。




過去は 「思い出」 の引き出しにしまわれるがままにして、きょうも “今の一番” を楽しむことにしましょう。

洗濯物を干したら、散歩に行こうかな。。。。帰りがけに 図書館に寄って、と。




きょうも世界は しみじみ美しいです
























いろいろすっきり

2016年02月07日 14時45分30秒 | ふと思うこと


きのうの夕食後は ゆっくり自室で休むつもりでしたが、ふとひらめいて 台所の引き出し3つ分のゴチャゴチャを引っ張り出して整理 ・ 処分し、空いたスペースに 事務所から運ばれてきた食器や台所用品を押し込んで 3時間ほど過ごしました。

私ひとりで 段ボール3箱を処理、どうだ o(^∇^)o




さらに余勢を駆って、きょうの午前中一杯かけて 食器棚や食品棚の中もすっかり片付け、引越し前よりもすっきりきれいな状態に \(^o^)/




やっぱり私には、自分の暮らしを自分の手で紡ぎ 整えるのが 何よりの楽しみのようです。

伏魔殿の実家の中で、台所だけは それなりに整って居心地いいので、父もくつろぎたくなると ここへやってきます(笑)




父のちょっとした物言いや態度に カチンカチンきては、怒りを募らせていた日々。。。。まあ よくも悪くもマイペースな人なので、無神経とも取れるような言動がちょくちょくあるのですが、今思えば 逆上してものも言えなくなるほど怒るほどのことではなく、そんな過剰反応は 幼いころの痛みやわだかまりの成せるわざ、そのひとつひとつをじっくり見つめ続けるうちに、こちらの心の中も かなりすっきり片付いて整理されたようです(^^)

家や部屋のありようと 心のありようは 相関関係にあると信じている貴秋、家の片づけにやたら意欲が湧いて楽しいのは、そんな心境の変化とつながっているような氣がしています。




人間力学というのか、特定の反応をする人には それに応じる反応をする人が 必ずといっていいほど現れるらしく、どちらかが変ろうとしない限り、双方の反応パターンがぴったりかみ合ったまま エネルギーをとったりとられたりの関係が続いていくようですが、今回の私の変化は 父に今後 どのような影響を及ぼすのでしょうか。

相手を変えようとしても ムリな話だけれど、自分が変れば 相手もイヤでも変る、と聞いたことがありますが、実際に自分の心境や反応が変ったことで、相手がどうなるかと 今から興味津々

さらには、そんなややこしい親子関係から 順調に解放されつつある私自身が これからどうなってゆくのかも、すごく楽しみ♪

やっぱり すべては導かれてのことのようです (^_-)-☆























幸せ色

2016年02月03日 06時05分56秒 | ふと思うこと


けさもまた 30分早く目が覚めちゃった♪




きのう アメリカの選挙のニュースを聞くともなしに聞いていて、従来の政治に不満を持つ人が増え 極端な主張をする候補に人氣が集まっているという話に ふと思いました。

外の誰かがなんとかしてくれるという期待を手ばなす時に来ているんだって。

ほんとうに幸せになりたいのなら、変えるべきは外の世界ではなく 自分の内側、自分の心 ・ 思い ・ ものの見方。

すべては 自分の心を通して見ているのだから、それが曇ったり歪んだりしていたら、なにもかも 不満色に染まって見えてしまうのはどうしようもないもの。

政治、経済、氣候、さまざまな場面で 「想定外」 のことが次々と起こっていますが、もうこれまでと同じ対処法や反応パターンを見直すときだよ、というメッセージなのかもしれません。




内側が変われば、同じものを見ても 同じ場所にいても 世界が違って見えてきます。

15年近く前に離れた土地に舞い戻っての暮らしの中で、しみじみそう感じる毎日です。

後付けの思い込みを手放した 本来の私たちの心は、どうやら年中幸せ色に彩られているようです (^^)

























おはようございます♪

2016年02月02日 06時14分07秒 | ふと思うこと


6時に目覚ましかけておいたのに なぜか30分も早く目が覚めたので、夕べの話にちょっぴり補足。




実家で父と暮らす毎日、父は 亡き母と並んで 私の原点とも言うべき思い込みを刷り込んだ当事者。

当然、日常のいたるところで さまざまな記憶のフタが開き、忘れたまま持ち越しになっていた 不自由な観念の存在に はたと思い当たるわけです。




仕事のほうも同じこと。

こういう流れ作業は初めてなので、もともとゆったりテンポで 急かされるのが苦手な自分の弱点が露呈する。

そして、長年自分を苦しめていたのは 外部からの要求ではなく、自分自身の 「急がないとならない」 という思い込みや できない自分を責める氣持ちであったことに氣づかされるのです。




貴秋、見た目は家事や仕事に勤しみながら、内側ではひたすら自己観察を続けており、大きな収穫を得ています。

そして、この時期 このタイミングでこういうことになったのも やはり意味があるんだなぁと 感慨深く思うのです (^^)