美城丈二@魂暴風;Soul storm

僕が見た、あの日(と今日)の悲喜哀感。
A writer;美城丈二Another face綾見由宇也

魂暴風・2007外伝“燃えよドラゴン”未だに焦がれるひとをも生む、稀有な映画人『李小龍』その第1稿

2007-11-11 20:48:01 | 魂暴風Personal【嗚呼、格闘漂流】
魂暴風・2007外伝“燃えよドラゴン”未だに焦がれるひとをも生む、稀有な映画人『李小龍』その第1稿

 
 ブルース・リーはすでに地の中のひとである。いや、そうではなく今でも様々な有為の人々の心の中に棲む“黄泉”のひとでありながら、未だに焦がれる人をも生む、誠に稀有な存在だ。

 彼と格闘技人とのことを同列では語れまい。仮想世界と現実世界は違う。同列で物事を論じたならば、リーにも格闘技人にも礼を逸していると言いえることだろうから。

 リアルとリアルでは無い世界。

 筆者は一時期、映画人でもあったはずだが、シナリオどうこうを抜きにしてブルース・リーの主演作には心を躍らされた。

 私にはやはりどうしたって覆らない“強き人”への憧憬があって、幼い、若き時分には彼にも随分、執着したものだ。

 “強さの中に秘められた、憂い”
 “時代を呼び込んだときにこの世に存していないという、まさに時空を超えてしまっているという凄絶感”

 そういう、誰しもが感慨を抱ける雰囲気、佇まい、時代背景なるものが、彼をただのアクション・スターの域から大きく逸脱させている。そう、そう想う瞬間、人々の彼への憧憬は共鳴を生み、やがて仮想世界を遊離し、その生涯をかけて彼が目指していた現実世界とはなんであったのか、朧(おぼろ)げながらにも突き詰めてみたくなる。



 
 単身、上京の折り、10代の時分、確か吉祥寺にあった(かどうか?もはや遠い過去のお話しだが)名画を扱う映画館でオールナイト、陽が差し込んでくるまで見続けたこともあり、思い起こせば筆者においては“懐かしさ”という老いていくものにはどうしたって取り払えない“ジレンマ”をも導き出してくれる(苦笑)どうにも困った、漢(おとこ)でもあった。何事にものめりこむとここぞ!!という部分まで入り込みたくなってしまう生まれつきらしい習癖が、ブルース・リーについてもあまた文献までけだし貪(むさぼ)るように読了させた時期を生んだ。

 いまではまるで偽りの世界、他者であるかのような感覚であの頃の私をいまの私が見つめてもいよう・・・。振り返るは自嘲なりという、もうひとつの時を無為に重ねてしまうのではないのかと慄(おのの)かざるをえぬ、いまの私をも存してしまっている。


 “彼と格闘技人とのことを同列では語れまい。同列で物事を論じたならば、リーにも格闘技人にも礼を逸していると言いえることだろうから。”・・・果たして本当に同列に扱ってはならない代物なのか?いや、大いなる“奇蹟”のひとなのか?そういう感慨をも抱かせてくれよう“燃えよドラゴン”ブルース・リー。


 では、あの“截拳道”(ジークンドー)とは一体、いかなる説明を添えれば解釈できうるものであるのだろうか?解釈と説明は違う。よく吟味したうえで解明してみせるのが“説明”という域ならば、私にはもう少し踏み込んだ感性がまた新たに必要とされるであろう。貪(むさぼ)るように読んだ文献資料に対する記憶も既に消失している。
 アクションスターという言葉がどうもしっくりとはいきがたい、リーという存在にかつての私は時空を超えてさえみたいと思ったものだが・・・。そういう想いこそ抱かせるのはまさに上記、“截拳道”なるものが燦然と彼を屹立させているからではないのだろうか?

 ジークンドー・・・一般的にはブルース・リーが幼少の頃から学んだとされる詠春拳なるものに幾つもの格闘エッセンス、空手だとかサンボ等の技術を取り込んだとされる格闘流儀の一体系を指すと定義なされてはいるのだが、筆者には未だ深くは判りがたい流儀のひとつと言いえようか。その深奥はつかみ難く、“精神流儀”とも呼ぶべき哲学性をも含んだ競技としても知られている。

 この日本でも“截拳道”その支部まであって、しっかりと体系化、成された教えを伝えられる師範の方々もおられるくらいだから、判りがたい流儀のひとつなどという物言いは大変に失敬なる物言いで誠に他意は無い旨、ご了承願いたいのだが、
 “截拳道”なる流儀・一派をその背に負うリーは、筆者も幼い時分から大変に焦がれた身としてリー、そのひとの“神秘性”をも厭が上でも高めている世界観のひとつであろうとも鑑みられ、この“截拳道”の道もきちんと踏まえてたうえで彼を従えなければ、様々な彼にまつわる“事実関係”は浮かび上がっては来ないであろう。

 ブルース・リー“李小龍”、彼もまたただの映画俳優では無かった。

 リアルとリアルでは無い世界。

 リーもまたその“世界”の範疇にあって、行きつ戻りつ、もがき苦しみ、若くして黄泉のひととなってしまったひとである。

 だが、死して早、34年。草葉の陰に潜んでのち、世界中の市井の人々を魅了してやまぬ“格闘浪漫”がまた多くの識者から評価され、重ね重ね、様々なメディアにおいて取上げられてきているのも事実である。

 あまりにとてつもなきその領域。
 踏み込めばまた遙かなり。
 リアルとリアルでは無い世界。

 筆者も再びその世界を垣間見てものしてみたい、欲求にいままた駆られようとしている。

 “截拳道”その道義・・・私の書斎にも関連書物が山積みになっている。その一片をあらためて紐解いてみれば、いかに相手よりも早く対峙した相手に己のコブシを突き刺すか、そういった定義までなされており興味は尽きない。まして目つき、金的への攻撃、それらが図解付きで述べられていたり・・・だがこれらは無論、ジークンドー、その一側面でしか過ぎない。

 自らの道場をも持ち、日々研鑽に励んだブルース・リーという稀有な映画人。深い精神修養を行なおうとするものは日々険呑と煩瑣な出来事の繰り返しの最中、ふと深くその目を閉じ、瞑想し、そのまなこの先では何が見え、何が映じ、何が幻影となってフラッシュし、そこから何を信じ、何を感じ、何を糧として生きていこうと思考したのか?或いは思考しなかったのか?私はいま、そのことをじっと睨んで考えを逞しくしようとしているのです。

 遙かなり、偉大なる
 嗚呼、ブルース・リー浪漫。

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