久し振りに連続ドラマの名作が誕生する瞬間に立ち会えた。
国営放送の連続テレビ小説。
1回15分を週6回、26週かけて完結する長編ドラマ番組。
合計39時間かけて1つの話を紡ぐという意味では、大河に次ぐスケールのドラマだ。
不肖ひさはこのプラットフォームはもう時代遅れなのだと思っていた。
恐らくは戦後すぐにスタートしたラジオドラマの時間軸を現代まで踏襲している。
毎日決まった時間にドラマをちょこっとずつ見ることに耐えられる現代人はどれほどいるのだろうか。
かつての大ヒットラジオドラマ「君の名は」放送時は「風呂場から人が消えた」伝説が長く語り継がれているが、
これだけ人々の生活スタイルが多様化している中で、朝8時、昼1時ちょっと前にテレビの前に座れる人などどれほど居るのか。
そんな視聴スタイルが可能であるわずかな人々を対象に届けるべき物語など、
もう何も残されていないのではないか。
とまあ大上段にぶってみたが、
ひさ自身、まさにこの時間帯にテレビがほぼ見られない。
だから、ここ10年以上、この枠のドラマをちゃんと見ていなかった。
ちゃんと見たと言えるのは1997年の「あぐり」が最後。
2000年代以降、1週間でも真面目に見た期間があったのは「どんど晴れ」、「こころ」、「私の青空」くらいか。
いわゆる人気作の「ちゅらさん」や「ゲゲゲの女房」「ひまわり」は、全く興味が湧かず手をつけずじまい。
あ、それでもゲゲゲの女房はCGが良かったのでたまに見かけたらラッキーくらいには思っていましたが。
こんな朝ドラを語るべきじゃない人間に、まるで雷のように「カーネーション」が振り落とされてきた。
ええ、本当に語る資格なんかないんですよ。
先に種明かししてしまいますけどね。
初めの2か月は多分1週間に1度も見られてません。
3か月目、去年の12月から、ようやく頑張って週2~3回見るようになった位。
年が明けた4か月目からも、結局のところ半分くらいしか見られてません。
あえて録画をかけませんでした。何故かは後段で語りたい。
それでも、なおこの作品が名作であることは分かる。
だから、語らせてください。
この作品が、すっかり根腐れしている連続テレビ小説の枠組内で何を革命し何を創造したのかを。
本当は、作品が完結するのを待ってから書きたかった。
だが、主人公の女優がスイッチするこのタイミングで書いておくべきかもしれないと思い直した。
直前に放送されただんじりのシーンのお陰でテンションが上がっているからかもしれない。
オノマチの笑顔にほだされたからかもしれない。
ついでに言えば、ひさのように斜に構えて朝ドラなんて見ないなんてことを考えておられる御仁に、
いや、これ見逃したら損ですよ、ということを伝えられれば。
この作品は、これまでの朝ドラとはかなり違う性質の物語なのだと。
21世紀に入った今でも、物語を紡ぐ方法はあるのだってことを示してくれたんだと。
*連ドラなのに1話完結型
ということで、以下、その物語を紡ぐ方法というのを箇条書きで羅列していきますよ。
毎日ご丁寧にテレビの前に座れない人のために、今作はその日1日だけ見ても話が分かるように仕立ててある。
これはナレーションシステムを導入してあることが奏功しているはずだ。
語るべき事象、発生した物事を映像に重ねてナレーションで補完することで、過不足なく物語に必要な情報を出していく。
大きな物語は1週間かけて進むのだが、小さなエピソードは毎日1つずつ何かしら片付いていく。
そのために、1日だけ見てもフラストレーションが溜まることがない。
小さなカタルシスだったり、小さなホロリだったり、何かしら、「今日は見て良かった」と視聴を納得させる仕組みがある。
だから、無理なく見ていられるし、見続けているとさらに満足感が高まる。のだろう。多分。
この手法は既に30分~1時間ドラマ枠では確立している。15分に縮めることができたのが凄いという話。
だから、敢えて録画せず今に至る。
見逃す事への不安感はない。
むしろどちらかといえば、臨場感を味わいたいから放送視聴にこだわった。
だから最近では出先でワンセグ視聴した挙句、まさかの号泣で泣きはらした顔晒して取引先に出向いたりとかしたわけだが。
*落語にもできる筋回し
その筋の専門家から怒られそうな仮説だが、物語のまわし方が多分、落語的にしてある。
印象的なシーンを例にとると、主人公・糸子が紳士洋服店で始めた女性用の布販売が繁盛していく様子。
1人の女客が家族を連れてきて、それから友達を連れてきて、その友達がさらに子供を連れてきて、
その輪が「おばちゃんのつながりが、たてたて、よこよこ」に広がっていく。
こういう繰り返しを重ねていくことで迫力が増す妙、落語でよく耳にする気がする。
ついでに言えば、こういうシーンの時に必ずかかる変拍子でちょっとケルティックな曲が、
さらにテンポ感を高めて良い効果を生み出している。
あと、音楽はさすがにかからなかったが、戦時中に昼夜なく襲ってくる空襲警報と、防空壕に逃げ込むシーンも、
繰り返しによる迫力増強が半端なかった。
*食事シーンの多用
2011年にあって、何が幸せなのかを語ることは極めて難しくなってしまった。
とりわけ、幸せを不条理な形で奪われた人々が大勢居る中で、上辺だけの幸福感は時として害悪にさえなり得る。
そこに来てこの作品は、食事のシーンをこれでもかという程に挿入してきた。
戦前、戦時中から戦後まで小原家の食卓は常に豊かだった。
親兄弟、洋装店の店員達、そして近隣の商店街の人々がわいわいと騒ぎながら食べ物を頬張る様子は、
誰しもがそれぞれ心の中に抱えているだろう、何らかの幸せの記憶と重なる所があるはずだ。
このシーンに登場する料理が半端なくおいしそうに作りこんである点も評価が高い。
物がないはずの戦時中におせちを頂くシーンの華やかさに、思わず飽食のこちら側が舌なめずりしたくらい。
最近では入院した玉枝に差し入れする弁当に詰め込んでいた出汁巻き卵と海苔巻きがそれはもう艶やかで
その日思わずコンビニで海苔巻きを買ってご飯にしたくらいの出来栄えだった。
ええ、作りませんよ。そんな面倒な<おい
そういう共感を作り出すことで、時代も暮らしぶりも全然現在の人々とは異なる作中人物との距離感を一気に縮めてかかってきた。
*朝っぱらから焼夷弾のようなシーンの連続投下
その日一日を台無しにしてくれそうな重いシーン・セリフも躊躇なく突っ込んで来る姿勢に感服した。
多分、朝ドラを録画視聴、もしくは1週間まとめて90分連続で週末に放送する枠で見ている人が少なくないことを織り込んでいる。
いつから織り込んでいるのかは、前作までをちゃんと見ていないのでよく分からないが、
今作は朝に放送するドラマであることを根底から捨てているとしか思えない。
物語の節目では必ず朝に主人公が目覚めるシーンが織り込まれており、
そこは意識的に朝ドラであることを主張しているのかもしれないが、
物語が進む場面はたいてい夜だった。
これはもうわざとそうしてあったとしか思えない。
証拠シーン:
その1)独立開業を志す糸子を泥酔した父・善作が全力平手打ち
糸子が自分の給金で買ってきたクリスマスケーキを囲んで妹たちとささやかなクリスマス会をしようとしていた矢先、
泥酔してきた父が帰宅。糸子を一人前と認めようとしない父に対して、
「毎晩酔っぱらってるお父ちゃんより今はうちの方がよっぽどこの家支えている」と啖呵を切る糸子を、
父、全力平手打ちで部屋の際までぶっ飛ばした挙句、
「こんなもんがなんぼのもんじゃ!」とクリスマスケーキを卓袱台に逆さに叩き付けて退散。
妹全員号泣する中、祖母・ハルさんがケーキをもう一度表に反して皿に乗っけて
「ほれ、食べれる、食べれる、ちょっとへしゃげただけや、味変わってへんて」と箸で号泣する糸子に食べさせる。
その2)傷心の玉枝が糸子に最後通牒を突き付ける「あんたの図太さは毒や」
戦争で何らかのショックを受けて心を病んで岸和田に戻ってきた髪結い玉枝の次男・勘助を元気にさせたくて、
勘助の初恋の人と引き合わせた糸子。それが逆効果で勘助はまさかの自殺未遂を図る。
その事を知らせに来た玉枝が糸子を突き放す捨て台詞。
「世の中みんなアンタみたいに勝ってばっかしじゃない、もっと弱くてもっと負けている、
悲しくて自分が惨めで、それでも生きていかなきゃならないから、どうにかこうにかやってるんや、
家族も皆元気で商売もうまくいってるあんたに、そんな人の気持ちが分かるわけないやろうな」
こんな事を朝っぱらからテレビの向こうから面と向かって言われたら一日凹んで動けなくなること必定。
大抵の人は自らを省みるだろう。
自分の無神経さで他人を傷つけたかもしれない自覚は誰しもが心の底に抱えているはずだから。
一部には「よくぞ言ってやった」てカタルシスを覚えるひねくれた向きはあるかもしれないが。
クリスマスケーキのシーンも、小林薫が本気で小娘を殴り飛ばしている図に後味悪くなった人々も少なからずいるはずだ。
これらのシーンはこの作品には不可欠であったし、それだけの説得力のある映像だったが、
極めてさわやかでなく賛否両論分かれるかもしれないシーンを朝から注ぎ込む勇気に、ただただ脱帽。
*現代に通じるメッセージの設定
全ての物語は、2011年のあの日以降、紡ぐことが大層困難になった。はずだ。
あの日にまつわる事さえ軽々に触れにくくなってしまった今、
恐らく物語の紡ぎ手達は様々な手法であの日に対する何らかのメッセージを織り込もうと考えているのだろう。
今作においても幾度か陰に陽にそれらが描かれていた。
その3)東京の戦災浮浪児への思い遣り
敗戦直後の東京に買い出しに来た糸子たちが泊まった旅館に空き巣が乱入。何と、その正体はやせ細った浮浪児達。
糸子は逃げ遅れた少女が自分の布団の中に逃げ込んでいるのを発見するも
そのまま手を握って一晩隠し通す。すると翌朝、帯の中に隠し持っていた大金をその子に持ち逃げされていた。
意気消沈の糸子、当初買いたかった布は買えないまま、我が子達にお菓子だけ買って帰宅。
浮浪児少女に思いを馳せて独白する。
「生き延びや、おばちゃんたちがもっともっとええ世の中にしてやるさかい、生き延びや」
その4)何もなくさないと決めた糸子
娘3人が東京やら海外やらで活躍するなか、岸和田で1人年老いる事を受け容れた糸子の決意表明。
「相手が死んだだけで何も失くさへん、決めたもん勝ちや」
宝物を抱えて生きていく、と続く糸子の決意は、モデルの小篠綾子さん自身の言葉である可能性もあるのだが、
今この年に語られると、別の色合いをもって響く言葉である。
巨大な喪失の後に、人が再生に向かうには何が必要なのか。
東北の人々と大阪のおばちゃんとは精神構造が違うかもしれず、心持ちを重ねることは相応しくないのかもしれない。
だが、喪失の事実とそれにまつわる感情を受け止める心は、
常に決めたもん勝ち=どのような結論でも、そのように受け止めようと思った心のありようそのものが尊重されるべきなんではないだろうか。
そして。
おばちゃんおいちゃんたちがもっと良い世の中にするから、どうか生き延びてくれ、被災地の子供達よ。
最後の1か月間は、老いた糸子がなお華やぐ様子が描かれるもよう。
丁度モデルの綾子さんがコシノ3姉妹が世界に活躍すると同時にメディアに露出し始めた時期と重なる。
モデルの記録映像・インタビューがあまたある中で、どのような創作物に仕立て上げてくるのか、
紡ぎ手の意気を信じて全裸待機中。
今回のエントリを書くにあたって、
日頃、見られなかった日のエピソードを振り返るのにお邪魔している
NHK連続テレビ小説カーネーション あらすじ&感想を綴るブログ
を参照しました。
手前の土俵で大変失礼ながら、感謝の意を表明したく、ここに記載いたします。