今でこそヒネくれた大人になってしまっているが、
ひさにも子供と呼ばれる時代はそれなりにあった。
当時はあまり社交的な性格ではなかったので、心の友は専ら私のままごとの相手をする架空の誰かさんと、本。
でも当時からやっぱりヒネくれた性格だったので、本は絵本よりは活字が多い童話や児童文学を貪り読んでいた。
で、必然的に松谷女史の寓話集に行き着いた。
彼女の童話や民話集には闇が住んでいる。
かちかち山の兎や狸、山姥やら鬼やら異界の者が放つ残酷とは趣の異なる闇。
人に灯る闇、もしくは人が放つ影を隠さずに書いてある、ということになるのか。
極めて牧歌的な表紙に惹かれて買って貰った童話「モモちゃんシリーズ」も例外ではなかった。
当時シリーズは4冊目まで出ていた。
4冊目「ちいさいアカネちゃん」のあおり文句は次の通り。(amazonから転記)
モモちゃんとアカネちゃんは、あたらしいうちへひっこししました。ねこのプーもいっしょです。おねえちゃんのモモちゃんは、どんなかつやくをするでしょうか。あかちゃんのアカネちゃんが、どんなふうにおおきくなっていくかしら。
基本的にはモモちゃんとアカネちゃんの成長物語。
猫がしゃべったり靴下が会話したり、色々メルヘンで楽しい想像の世界が多いんだけれども。
3冊目から奇妙な闇が本に影を落とし始める。
毎夜毎夜、靴だけしか帰ってこないおとうさん。
靴にお風呂も晩ご飯もすすめるわけにいかなくって、途方にくれるおかあさん。
で、おとうさんの身を案じて外に出たおかあさんが迷い込んだ魔女の家。
その魔女は「あんたたちは絡み合った2本の木だ」と1つの植木鉢を指し示す。
「歩く木」と「育つ木」が1つの植木鉢に植えられて、枝も根もがんじがらめになっていて、
互いの養分を吸い取っているので、このままだと2つとも死んでしまう、
だから2つの植木鉢に植え替えしないと。
魔女が植え替えてみると、2つの木とも生き生きとし始める。
ただ、歩く木は小さな金色のヤドリギを肩に乗せたまま植木鉢から飛び出して、森の方に向かって消えていく。
それを見てしまったおかあさんは、「いえに帰らなきゃ」と必死で我が家への道をひた走る。
この闇が子供心に恐ろしく、意味もよく分からなくて、擦り切れるくらい読み返した。
確か小学2年生くらい、読み返し百回目くらいになって、突如涙が溢れ出す箇所へと変わった。
未だ靴だけタタキにある挿絵と、ヤドリギが光っている植木鉢の挿絵は脳に焼き付いている。
しかしまさか、ご自身の実話だったとは松谷さん。
当時はガキだったので、ヤドリギが何の暗喩か分からなかったが、今ならはっきり分かる。
当時は世間を知らなかったので、どうしておとうさんがモモちゃん、アカネちゃん、おかあさんの乗る引越しのトラックを道で見送っていたのかよく分からなかったが、今ならはっきり分かる。
その背景が、「小説・捨てていく話」にある程度書かれている。
形式は短いエッセイがだいたい時系列に連なっているだけのシンプルなもの。
「小説」なのは、この手の話は夫婦の片側から見た話でしかなく真実は違うかもしれないという彼女の謙遜なのか、小話という意味の「小説」なのかははっきりしない。あるいは両方の意味があるか。
「捨てていく話」なのは、「歩く木」=夫=捨てた方である一方で、夫への複雑な感情を捨てきれない彼女が心を整理していく仮定として書かれた随筆だからなのだろう、と推察する。
内容は童話では書かれえない男と女の事情、なんてまとめるには重過ぎる。
それでも、闇を孕みつつも美しい小石のような、匂い立つ文章に引き込まれた。
そして、子供時代に誰かさんがかけた謎かけが、ここにめでたく完結した。
女史のいわゆる「アカネちゃん」にパパのことを書いてと言われて書いたのが一連のシリーズだったそうで、上記の魔女と植木鉢のくだりは実際に彼女の「アカネちゃん」にも「おきゃくさんのパパ」にも見せたそうだ。
「おきゃくさんのパパ」がそれを読んで口にした感想も「捨てていく話」には書いてあって、やっぱりこの人は「歩く木」だったのだと納得。
そしてやっぱり滂沱してしまった三十路のひさ。
ちなみに、モモちゃんシリーズは「アカネちゃんとおきゃくさんのパパ」(なんつータイトルだ……)「アカネちゃんのなみだの海」の2冊が出て完結したそうで。
こちらも読んでみたいのだが、滂沱しそうでなあ……。