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バターン死の行進

2012年04月10日 21時22分06秒 | 歴史

バターン死の行進

2012-04-10 21:19:53 | 歴史

バターン死の行進(バターンしのこうしん、Martsa ng Kamatayan sa Bataan)は、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍捕虜民間人が、収容所に移動するときに多数死亡したことを言う。全長は120キロで、その半分は鉄道で運ばれ、残りを3日で歩いた。1日平均20キロの3日間の行進であった。


フィリピンでは、バターン半島が陥落した4月9日を勇者の日 (Araw ng Kagitingan) として休日に定めている。
2008年12月と2009年2月に、藤崎一郎駐米大使が、バターン行進の生存者で作る団体「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」に対して日本政府を代表し、バターン死の行進について「村山談話」に則って公式に謝罪した。また2010年9月13日には岡田克也外務大臣が元捕虜と外務省で面会し、現職の外務大臣として初めて謝罪している。

 

経緯

守備隊の降伏 


1941年12月23日、台湾から派遣されたフィリピン攻略の主力部隊である本間雅晴中将率いる第十四軍がルソン島リンガエン湾に上陸した。フィリピン防衛の任に当たっていたのはダグラス・マッカーサー率いるアメリカ極東陸軍(米比軍)であった。マッカーサーは12月24日マニラの無防備都市宣言を行った後マニラから撤退、バターン半島とコレヒドール要塞に立てこもった。米軍は撤退途中、人影があれば撃ち殺し、村があれば機銃掃射して皆殺しにした。日本軍は翌1月2日にマニラの無血占領に成功した。その後、日本軍はコレヒドール要塞を攻撃し、3月12日、マッカーサーはコレヒドール島を脱出した。


4月9日、日本軍はバターン半島を死者130名、負傷者6808名を出して占領した。降伏したエドワード・P・キング少将率いるバターン半島の米比軍は、約7万6千名もの多数が捕虜となった。これは日本側の2万5千名との捕虜数予想を大きく上回るものであった。米軍部隊は、日本兵に使われるのは業腹だからと、多くのトラックを破壊した。壊さなかった部隊は死の行進を歩むことなくそれで収容所まで行った[1]。なお、コレヒドール要塞はその後も籠城戦を続けていた。

 

日本軍の捕虜護送計画と実態 

 

死の行進のルート

 

日本軍の捕虜後送計画は総攻撃の10日前に提出されたものであり、捕虜の状態や人数が想定と大きく異なっていた。捕虜は一日分の食料を携行しており、経由地のバランガまでは一日の行程で食料の支給は必要ないはずであった。実際には最長で三日かかっている。バランガからサンフェルナンドの鉄道駅までの区間では200台のトラックしか使用できなかったが、全捕虜がトラックで輸送されるはずであった。しかし、トラックの大部分が修理中であり、米軍から鹵獲したトラックも、経戦中のコレヒドール要塞攻略のための物資輸送に当てねばならなかった。結局、マリベレスからサンフェルナンドの区間88キロを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった。この区間の行軍が「死の行進」と呼ばれた。

 

米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将はタルラック州カパスのオドンネル基地に収容所を建設した。米比軍のバターン半島守備隊の食料は降伏時には尽きており、日本軍も捕虜にまわす食料の余裕は無かった。さらに炎天下で行進が行われたために、約60Kmの道のりで多くの捕虜が倒れた。このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われる。

当初の捕虜輸送案
区間距離備考
1.マリベレス~バランガ 約30km  
2.バランガ~サンフェルナンド 約53km トラック200台での輸送(一部のみ)
3.サンフェルナンド~カパス 約48km 鉄道での輸送
4.カパス~オドネル 約12km  

この表のように、捕虜が歩くのは1と4の区間だけであり、バランガとサンフェルナンドには野戦病院を設置し、その他数キロごとに、救護所や休憩所を設置して傷病兵を手当てする計画であったが、上記のように、当初日本軍が想定していた事態を大きく上回った。

捕虜の扱い

トラックで運ばれたものや行進の先頭にいたもの以外に対し、多くの虐待行為があったと言われる。この背景として、捕虜になることを恥ずべきものとする風潮が影響していた。しかし、死者が増えた要因は現地の指導的立場にあった辻政信中佐にあった。辻は「この戦争は人種間戦争である」として、「アメリカ人兵士は白人であるから処刑、フィリピン人兵士は裏切り者だから同じく処刑しろ」と部隊に扇動しており、独断で「大本営から」のものとする捕虜の処刑命令を出していた。今井武夫大佐の記録によれば、4月9日午前11時ごろ、第65旅団司令部から電話で、大本営命令と称して米比軍捕虜を射殺せよという命令が届き、ことの重大性から今井は書面による命令を要求した。この命令に文書がなく、本物かどうか疑わしいため、現場では無視したり逆に捕虜を釈放したとの証言も多くある。しかし命令は絶対であるとして、実行したものもいた。本間中将はこれらの事情についてまったく知らなかった。

収容所にたどり着いたのは約5万4千人で、約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労、その他殴打、処刑などで死亡したものと見られている。米軍の死亡者は2300人と記録されている。監視の日本兵は少なく、逃亡は容易だったとされる。フィリピン人の場合は、現地の民衆の間に紛れ込めばわからないので、脱走者が多かったとされている。

戦後のマニラ軍事裁判等において、本間や捕虜移送の責任者であった第14軍兵站監河根良賢少将は死の行進の責任者として有罪の判決が下り処刑された。

 

 

 


正露丸の歴史

2012年02月16日 04時01分23秒 | 歴史

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歴史 






1930年代の征露丸の広告



明治のはじめ、日清戦争において不衛生な水源による伝染病に悩まされた帝国陸軍は、感染症の対策に取り組んでいた。陸軍軍医学校の教官であった戸塚機知三等軍医正は、1903年にクレオソート剤がチフス菌に対する著明な抑制効果を持つことを発見する(これに関しては異説もあり、正露丸の元祖だと主張している大幸薬品は、陸軍よりも1年早い1902年に、大阪の薬商である中島佐一が忠勇征露丸を開発して販売を開始したと主張している)。


ドイツ医学に傾倒していた森林太郎(森鷗外)ら陸軍の軍医たちは、チフス以上に多くの将兵を失う原因となった脚気もまた、未知の微生物による感染症であろうという仮説を持っていた。そのため、強力な殺菌力を持つクレオソートは脚気に対しても有効であるに違いないと考えて、日露戦争に赴く将兵にこれを大量に配付し、連日服用させることとした。ちなみに、明治34年の陸軍医学雑誌ではクレオソート丸と記載されていたが、明治37・38年の陸軍医学雑誌に「征露丸」という記載が現れる。その後、日露戦争後にはクレオソート丸に戻るまで4年間だけ「征露丸」という学術名称として広く軍医の間で使用された。「征露」という言葉はロシアを征伐するという意味で、その当時の流行語でもあった。


しかし、まだ予防的投薬という概念も一般には浸透していない時代のことであり、特異な臭気を放つ得体の知れない丸薬は敬遠されて、なかなか指示通りには飲んでもらうことがなかった。そこで軍首脳部は一計を案じ、その服薬を「陛下ノゴ希望ニヨリ」と明治天皇の名を借りて奨励することとした。この機転によって、コンプライアンスは著しく向上し、下痢や腹痛により戦線を離脱する兵士は激減したといわれる。しかし、当然のことながら軍医の期待した、脚気菌(そもそも存在しない)に対する効果は一向にあらわれなかった。戦意高揚を重視してビタミンに欠ける白米中心の美食(当時としては)にこだわった陸軍は、日露戦争においても全将兵のおよそ3人に1人に相当する25万人が脚気に倒れ、27,800人が死亡した。一方で海軍は、早くから脚気が栄養障害に起因する疾患であると見抜き糧食にパンや麦飯を採用し、脚気による戦病死者を一人も出していない(当時はビタミンBが未発見であり、世界に先駆けて脚気の栄養不足説を裏付ける結果となった)。


このように、脚気に対してはまったく無力であったものの、征露丸の止瀉作用や歯髄鎮静効果は、帰還した軍人たちの体験談として多少の誇張も交えて伝えられた。また、戦勝ムードの中で命名の妙も手伝い、「ロシアを倒した万能薬」は多くのメーカーから競い合うように製造販売され、日本独自の国民薬として普及していった。


また、その薬効のあらたかなるところは戦前の日本勢力圏においては広く知れ渡っている。現在もなお台湾中華民国)や中華人民共和国などアジア諸国からの渡航者の土産物として珍重されているという。


軍の装備品としての配給は、日露戦争終結後の1906年に廃止されたが、その後も継続して常備薬として利用されてきた。2007年には、自衛隊の国際連合ネパール支援団派遣時の装備品として復活している。


日露戦争ならびに第二次世界大戦終結後、国際信義上「征」の字を使うことには好ましくないとの行政指導があり、「正露丸」と改められた。しかし、奈良県日本医薬品製造株式会社だけは、現在も一貫して「征露丸」の名前で販売を続けている。


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