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枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

筑豊の華やかな香り・・飯塚、嘉穂劇場

2014-10-18 | 古いもの、昔の人
          この地には大正10年、大阪・中座を模して建てられた「中座」があった所。
          火災や台風による倒壊の後、昭和6年「嘉穂劇場」として再建されました。
          当時、筑豊は石炭炭鉱で栄え、その労働者を客の中心に、大衆演劇や歌手の
          公演などで賑わったといいます。
          その後、昭和30年代後半の石炭産業の衰退もあり経営危機に陥ります。
          経営者、伊藤英子の奮闘と多くの著名芸能人の支援により持ちこたえ、
          国の登録有形文化財の指定も受け、今に至っているのです。
          木造2階建、廻り舞台やセリを有し、1、2階の桟敷合わせて最大1200人を
          収容することが可能だといいます。

          昭和の雰囲気をふんだんに残した狭い通りを行き、劇場の前に。
          赤い絨毯を歩いて座布団の敷かれた桟敷に座り、舞台に・・
          嘉穂劇場は、嘗ての筑豊の華やかな香りをそこはかとなく感じさせてくれる
          芝居小屋なのです。











































































炭鉱王の華麗な住まい、旧伊藤伝右衛門邸

2014-10-13 | 古いもの、昔の人
          きっと、NHK連続テレビ小説(9月に終了した)の所産でしょう。
          そこは観光バスが何台も寄って、大変な賑わいとなっていました。
          私もせっかく近くに来たのだから・・と見ておくことにしました。
          福岡県飯塚市にある「旧伊藤伝右衛門邸」。
          明治の末、石炭エネルギーの供給地、筑豊で炭鉱王の一人と呼ばれたのが
          伊藤伝右衛門。明治44年、柳原伯爵家の娘燁子(あきこー白蓮)を花嫁に
          迎えるため改築したのが今に残るこの邸です。
          和様折衷の邸宅は、どの部屋も細部にまで拘った華麗で贅を尽くした造りです。
          多くの部屋から、今は国指定名勝ともなっている壮大な庭園を見渡せるのも
          特徴と言えましょう。特に、2階の白蓮の居室は日本建築の技法をふんだんに
          採り入れたもので、伝右衛門の力の入れようも想像できるものです。
          このあたりを中心に、私なりに目を惹いた邸の表情を載せておきます。












































































昔、炭鉱があった町、福岡県田川

2014-10-07 | 古いもの、昔の人
          福岡県田川市。昔、炭鉱があった街、今その場所は石炭歴史博物館になっています。
          遠くからでも2本の大煙突が見えます。これは、竪坑の動力として用いた蒸気機関の
          排煙用煙突、明治41年の設置です。
          今は用も無く立ちつくし、寂しそうです。
          近くには竪坑の捲揚機も見えます。
          博物館には、明治、大正、昭和にわたった手掘りの様子や機械堀りの装置が
          展示されています。
          屋外に再現展示された炭鉱住宅は特に目を惹きます。
          炭鉱ができたため街が開かれた。ここはそんな場所です。職住近接は炭鉱に働く人
          を募るための条件でした。炭坑の厳しい労働条件の一方で、住宅を始めとする
          厚生福祉施設は整っていた所が多かったと言われます。
          炭鉱に勤務する管理部門の職員と現場作業の鉱員の住宅には大きな差があった
          とも言われるのですが、ここに見る昭和期の住宅は当時の一般の住宅事情から
          見ても決して悪くないと思われます。
          私が、昭和30年代、土門拳の「筑豊のこどもたち」で見た「炭住」のイメージとは
          離れたものがあります。少なくとも、ここではそのように展示されています。
          大煙突を振り仰ぎながら、少々の戸惑いを感じておりました。



 大煙突























 手掘り坑道の様子





 炭鉱住宅















































松山、渡部家住宅を見る

2014-06-18 | 古いもの、昔の人
          松山市東方町の渡部家住宅。(国重文)
          この建物は、四国遍路の道の近くにあり、私は札所47番八坂寺から寄りました。
          
          渡部家の三男が、藩主の命により入り庄屋としてこの地に入り、万延元年(1860)
          に着工、慶応2年(1866)に上棟した住宅。
          二階建表門(長屋門)、東に白壁造りの倉、西に座敷庭を配し周囲を土塁で囲っています。
          主屋は本瓦葺ですが、主屋根の一部に茅葺の越屋根を配して、農家であることを示した
          と言われます。主屋内は、北側を内向き部屋とする典型的な農家の配置を踏襲していますが、
          随所に武家屋敷としての仕掛けと造りが取り込まれています。
          土間部分から見上げる大梁の材の大きさは大庄屋の力を示すものと言われます。
          全体に、質実剛健といった印象を持たされる気持ちの良い住宅でした。

          この住宅、本来は土、日にしか公開されていないのですが、たまたまボランティアの方々
          が清掃に入っておられました。教授風の方もおられ、解説付で見学させていただくことが
          できました。老遍路姿の余禄でしょうか。ありがとうございました。

          門前の桜がきれいでした。そう・・もう3ケ月も前、春の日でした。





































































竹久夢二の生家、その裏山の道

2014-02-19 | 古いもの、昔の人
          岡山県瀬戸内市邑久町。
          大正ロマンを代表する詩人画家と後に讃えられる竹久夢二の生家が、
          郷土美術館分館として残されています。
          夢二(本名:茂次郎)は、16歳までの日々をここで過ごしたようです。
          美術館の庭には          
           「泣く時はよき母ありき 遊ぶ時はよき姉ありき 七つのころよ」  
          の歌が刻まれています。
          生家の前の小さな川、小さな小さな茂次郎橋が。その名の由来。
           「花のお江戸ち゛ゃ夢二と呼ばれ 郷土(くに)へかへれば へのへの茂次郎」

          生家の茂次郎の部屋を見て、遊び場であった裏山に続く道を行き、
          大師堂や廃屋や墓所や国司丘の椿の木を辿ります。
          多感で寂しがりやであったであろう夢二少年の心を偲ぶ落葉の道でした。