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枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

歴史の香りと風情・・竹原の商家で

2015-01-24 | 古いもの、昔の人
          竹原の重要伝統的建築物群保存地区には、江戸期以来の多くの商家が
          残されています。
          そのなかの一つ、松坂邸は文政年間の建設、明治12年に改築されたもの。
          製塩業や問屋業を営んだ商家。内部も公開されています。
          入口で、「失礼ですが・・」と問われ、今回は無料で入場できました。
          ありがたいような、寂しいような・・
          豪邸という感じではなく、商家としての経済力を背景とした文化の香りと
          何ともいえぬ風情が感じられる家でした。
          小さな庭に面した座敷に座って、長い時間を過ごさせていただきました。
          箪笥の上に置かれた雛人形ひとり・・その奥の方から多くの人の語り声が
          聞こえたように思ったものでした。











































































江戸から昭和を生きてきて・・広島県竹原

2015-01-17 | 古いもの、昔の人
          「人がえっと来るようになってのー・・」
          店の主人はちょっとうれしそうでした。
          NHKの連続テレビ小説の効果は絶大のようですね。

          広島県竹原の街。
          江戸時代の製塩業に始まり、廻船業、酒造業などの発展により栄えます。
          本川掘の左岸に沿って江戸中期から明治にかけての商業建築が並び、
          国の重要伝統的建築物群保存地区に指定されています。
          その街並みは滅多に出会うことができないほど立派なものです。
          私にとっては、何度か目の訪ねですが、新しい年の始めでもあり、
          心躍らせて、その家々のなかを歩くことができました。
          保存地区の外れにあった古い蔵や、それに妙に印象に残った写真館の
          建物も加えておきましょう。

















































































藩士の力の源泉、鹿児島県出水の武家屋敷

2014-12-25 | 古いもの、昔の人
          薩摩藩は藩内の地方統治制度として、多くの藩士を郷士として住み着かせ、
          小さな城下町を形成させる「外城制度」をしいていました。その場所は「麓(ふもと)」
          と呼ばれました。
          薩摩藩が肥後国と国境を接する地に設けられた「出水麓」は、国境を守るという
          意味合いからも麓のなかでも最大規模のものであったといわれます。
          1599年から30年をかけて整備が続けられました。

          広い道路で整然と区画された出水麓、今は「重要伝統的建築物保存地区」に
          指定され、その面影に接することができます。
          街を歩いていると、集まって街路の周囲を清掃する人々の姿を見かけました。
          内部を公開している武家屋敷にお邪魔して、お住まいの方の説明を聞きながら
          見学することができました。
          清々しく、力強いその佇まい。やがて、新しい日本の国造りの中核を担って
          働くこととなった藩士の、その力の源泉を感じとれたように思ったものでした。


















































































芝居小屋への熱い思い、山鹿、八千代座

2014-12-19 | 古いもの、昔の人
          明治時代の終り頃、熊本県山鹿は菊池川の水運と豊前街道による水陸交通の
          要所で、温泉場としても賑わっていたといいます。
          山鹿と言えば、金銀の紙で作られた山鹿燈籠を、女性達が頭の載せて踊る、
          あの燈籠祭りが有名であるかもしれません。
          この街の旦那衆が組合をつくり、明治43年(1910)に建てたのが芝居小屋
          「八千代座」でした。明治、大正、昭和を通じて、歌舞伎、浪花節、活動写真、
          コンサートなどにに利用されてきました。昭和前期の出演者には、松本幸四郎、
          長谷川一夫、辻久子、谷桃子、淡谷のり子の名も見られます。
          昭和30年代以降の、人々の娯楽嗜好の変遷により昭和48年に閉鎖。
          建物の老朽化も進むなか、それを惜しむ人々により昭和61年復興運動が起こります。
          昭和63年に国重文指定の後押し、平成8年の大修理を経て、平成13年に竣工式、
          再出発を果たし現在に至っているのです。

          1階は木の棒で仕切られた枡席と桟敷席、2階は桟敷席よりなり、建設当時の
          定員は1階830人、2階444人。(当時の人は小さかった・・枡席1区画に8人。)
          現在は約650人を収容します。
          ドイツ製の車輪で動く回り舞台とセリ、花道にはスッポンを備えています。
          天井全体を占める広告画には驚かされます。旦那衆が組合をつくって建設した証。
          建設当時の広告が復元されています。その中央には復元された真鍮のシャンデリア。

          台湾(中華民国)からの団体が、舞台に並んで日本の歌を唄い写真に収まっていました。
          九州に残る古い芝居小屋。私にとっては9月の飯塚、嘉穂劇場に次ぐ2つ目の訪問。
          雄弁な解説に耳を傾け、天井いっぱいの広告を見上げ、芝居小屋への熱い思い
          を感じたものでした・・

















































































日本人の心が蘇る・・旧数山家住宅

2014-11-02 | 古いもの、昔の人
          英彦山神宮への昔からの参道筋に数山家住宅はありました。
          福岡県田川郡添田町津野。
          なだらかな山を背に南面してたつ古民家。疎らな家々の奥にその姿を初見するとき、
          その美しさには声をあげるほどです。
          近所の方の話によると、25年を経た茅葺き屋根の葺替えが終わったばかりだと。
          生活のない家では屋根の草むしりもなく、何といっても、中で火を焚き茅を燻らす
          ということが無いことが、屋根の寿命を縮めるようです。
          説明書きによると、桁行10間半、21.3m、梁間7.9m、寄棟造、直家。
          解体工事の際発見された墨書きより天保13年(1842)の建築と想定されています。
          当時の民家としては大型に属します。おそらく庄屋さんの家。
          東寄り5間半が床上部、西寄り5間が土間。広く取られた土間も特徴。土間には、
          くら、みそべや、まや。床上部は、ひろま、なかのま、ざしき、ちゃのま、なんど、
          おくなんど、の6間。囲炉裏の置かれたひろまの床は竹の根太の上に藁床。
          他の部屋は畳敷き。天井は竹編みむしろ敷き土置きの大和天井。(梁や下地床
          を見せる天井を「大和天井」と呼ぶようです。)部屋ごとに手法を変えた天井と
          なっています。

          昼間まだ暑さが残る日でしたが、家に入るとひんやりとした感じなのです。
          樹木に囲まれた山裾の環境と、深く分厚い茅葺屋根が齎すものでしょうが・・
          利便性に慣れ、温暖化の進行した現代。こういう家に生活するのは無理でしょうが。
          でも、この美しく素晴らしい家は、きっと貴重な遺産です。
          長い年月をかけて育んできた日本人の心を思い返すために・・そう思いました。