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枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

西海の教会堂を訪ねて その14 崎津教会堂(天草)

2018-05-18 | 教会・天主堂を訪ねて
2009年の上五島の天主堂への旅。その折より、更に下五島や天草の天主堂を訪ねたいと思っていました。それを実現することができました。天候にも恵まれ、西海の海も山も海辺も輝いていました。その中で、心に沁みる天主堂の姿と、その背後の歴史の中の人の血と涙の跡を垣間見たように思いました。実際の行程とは逆ですが、天草から下五島へと紹介させていただきます。

江戸時代の初め、天草は島原とともに最も多くのキリシタンが住んだ所と言われます。ザビエルが鹿児島に上陸してから17年の後、30歳で商人から聖職に転じたポルトガル人、アルメイダ修道士の西九州各地への熱心な布教活動に負うところが大きいとされます。アルメイダは医師でもあり、病院や孤児院の設立など福祉への献身が人の心を捉えたのでしょう。後にマカオで司祭となったアルメイダは、再び日本に来て、崎津に近い天草の静かな浦で59年の生涯を閉じます。長年の労苦により、80歳をこえる風貌であったと伝えられています。
しかし、この天草の地、明治以降に蘇った天主堂は、大江、崎津の二つを数えるばかりなのです。1637年、あの島原の乱で原城に籠ったキリシタン3万5千人のほぼ全員が殺戮されたためなのです。天草の二万の人口は8千人になったと言われます。
島原の乱は、搾取に抵抗した農民一揆という面もあるのですが、最近の発掘などの調査の結果は、宗教的熱狂による一種の開放闘争であったという面を押してるようです。この痛みは、今もなを天草の人々の心の中で消えることがない・・と言われます。反乱軍に加わらなかった島の西南の辺縁の地の僅かな信徒が信仰を守り続け240年の後、フランス人神父を迎えたのです。


崎津は、アルメイダ修道士により最初の天主堂が建てられ、天草での布教の中心となったと伝える地。現在、天主堂のある場所は、庄屋の屋敷であったところ。天主堂の祭壇のある場所で厳しい踏絵が年ごとに行われたといいます。
今の天主堂は、明治18年以降3度目の再建で、昭和10年フランス人ハルプ神父のもとで献堂。設計施工は鉄川与助。鉄川24棟目の御堂。前部はRC造、後部は木造のコラボレーション。鉄川としては珍しく、ゴシック様式を明らかに踏襲した外観。それに反して、内部はリブ・ヴォールトの天井にデザイン化されたユリの花を飾る優しい佇まいなのです。
床には、一面畳が敷かれ、その上に折りたたみ椅子が置かれていました。(内部は撮影禁止)
しかし、何といってもこの天主堂の特徴はその立地でしょう。山に囲まれた羊角湾の畔、漁港の街の家並に囲まれて建つ天主堂は他に類を見ません。天主堂の裏山には、仏教徒とキリスト教徒が混在する墓地があります。毎朝、港を出る船人は、漁の安全を祈念して、必ず天主堂に頭を下げるといいます。港の人と共にある天主堂なのです。(2010年5月)


















































西海の教会堂を訪ねて その13 船隠教会堂、浜串教会堂、福見教会堂(五島、中通島)

2018-05-17 | 教会・天主堂を訪ねて
上五島、北の玄関、有川から島を縦断して奈良尾に行く道。その12では、島の西側の入江を縫う国道384号の道を辿りました。今度は島の東側の道、県道22号を行きます。こちらは、海岸が切り立った崖で、道はその上、高い所を走っています。ですから、道から見渡せば、そこは格別の海の風景です。





















所々の入江に集落があって、そこに行くにはくねくねとした道を下って行かなくてはなりません。鯛ノ浦を出て南下すると、船隠、浜串、福見と集落が点在します。
浜串は、けっこうな人家がある漁港ですが、後の二つは小さな漁村。いずれも住民のほぼ100%がキリスト教の信徒だといいます。
船隠。江戸時代キリシタンが船を隠して潜んだ所だったのでしょう。そんなことを思わせる地名です。ほんとに小さな漁村。数十軒の家、それも最近は空家が目立つといいます。真っ白なコンクリートの天主堂。昭和31年に建てられたものです。滅多に無いと思われる村外からの訪問者も、村の人から声をかけていただけるのです。そんな静かで、暖かい人の住む所です。
浜串。ここには、明治32年、初代の天主堂が建ったそうです。現在の聖堂は、昭和42年の建立。コンクリート製のやや味気ない素振りを見せています。ここの住民の殆どは、大型巻き網船の乗組員。1ケ月沖に出て操業。満月の頃に帰港し教会に集うといいます。教会はさぞ賑やかな集会場となることでしょう。
浜串港口に、希望の聖母像があります。航海の安全を祈り、出船、入船を見守っています。

福見。小さな平地と畑がありますが、多くの住民は漁業に拠っているようです。大正13年、献堂されたレンガ造の立派な天主堂があります。傷みが著しいようで、聖堂の半分は、コンクリートで補強されているようです。窓や扉は、すべてアルミ製に取替えられています。ちょっと残念な気もしますが・・。
祭壇の前におられたシスターから「こんにちは・・」と声を戴きます。朝昼夕、シスターの手によって鳴らされるアンゼラスの鐘の声が、小さな村に響き渡るといいます。そんな、上五島の海の傍です。



希望の聖母像














岩瀬浦付近の海




福見付近の海




福見天主堂


























上五島、中通島の旅は終りました。
行きの海は凪のように静かでしたが、帰りはけっこう荒れた海でした。船底に叩きつける波の圧力と音に、時々驚かされながら・・夢のような、多くの天主堂の姿と、親切に道を教えてくれた人、話しかけに気安く応じてくれた人、シスターの柔らかな表情・・、そんなことを思い出していました。・・やがて、軍艦犇めく佐世保の港です。(2009年11月)





西海の教会堂を訪ねて その12 中ノ浦教会堂(五島、中通島)

2018-05-17 | 教会・天主堂を訪ねて
上五島、中通島の北の玄関、有川から島を縦断する国道384号に沿って、南の玄関、奈良尾まで、半ばを過ぎた辺り、美しい入江に面して白い天主堂が見えてきます。大正14年献堂の中ノ浦天主堂です。素朴な木造の天主堂ですが、昭和41年に正面入口と鐘塔部分が増築されています。同時に堂内の天井にも手が入れられたようで、信者席部分の折上天井と内陣部分のリブ・ヴォールト天井が同居しています。それでいて、内部空間に大きな破綻はなく美しく仕上げられているように感じます。外面も素朴で、当初からと思われる側面入口の造作も見事です。
このお堂、内部に入ったときの印象、一瞬、鉄川与助の設計と思いました。そうではないようですが、話によると、鉄川が大正9年頃、下五島の久賀島に建てた細石流(さざれ)天主堂(平成3年の台風で崩壊、現存せず)によく似ていると言われます。残された写真を見ても納得できます。ことによると、鉄川の天主堂の影響を色濃く受けたお堂なのかもしれません。
お堂の横に、一際美しいマリア像があります。

付記:猪ノ浦天主堂

有川から南へ向う国道384号で青方を過ぎ、西に向う道に分岐。静かな山の中の道を経て、細い猪ノ浦の入江に面した寂しい集落、そこにある天主堂を訪ねました。実はここには、昭和22年古い民家を移築した天主堂があったのです。ある写真家の撮ったその天主堂の佇まいが、あまりに素晴らしいものであったので、心に残っていました。もしや、その片鱗でも残っていないかと・・。
空しい期待でした。新しい簡素な教会堂の前で、管理されている女性(おそらくシスター)とお話しました。「ああ、昔のお堂、傷みが激しくてねー、もう20年も前になるでしょうか・・多くの方の寄付を戴いてこの教会が出来ました。古いものはもう何も・・」
古いものに感傷をもとめるのは、旅のよそ者。私は、申し訳ないことを言ってしまったようです。「どうも、すいませんでした・・」、祭壇に手を合わせてそこを去りました。(この天主堂の写真は載せません)(2009年11月)

























































西海の教会堂を訪ねて その11 頭ケ島天主堂(上五島、頭ケ島)

2018-05-15 | 教会・天主堂を訪ねて
頭ケ島(かしらがじま)は、今でこそ橋で中通島と繋がっていますが、天主堂が建てられた当時は、早い潮流の瀬を船で越えなくてはなりませんでした。大正8年の献堂。鉄川与助が建てた13棟目の天主堂。島で採れる砂岩を使った鉄川唯一の石造。現在でも石造の天主堂は西日本では、ここしかないそうです。
私にとって、今回の上五島の天主堂の中でも、最も期待の大きかったお堂。まず、外観の重量感、石の持つ独特の表情に圧倒されます。そして、その扉を引いて堂内に入れば、そこは優しさの極みの世界なのです。
天井は、木造船の船底の肋材をイメージするとも言われる、二重の持ち送りハンマービーム架構で折りあげられた独特の形。そこに散らされる鉄川の天上の花。それは、椿にも菊にも見えるのですが、鉄川の故郷の地を歩いて見れば、それが椿のイメージ化であることを確信します。それほどに、島ではどこにでも椿が咲いているのです。
この天主堂は、フランス人神父の影響から解き放され、鉄川が最初に到達した独自の世界・・と評されることがあります。しかし、この工事は資金難から、二度の中断を含め11年を要しています。ということは、着工は、青砂ケ浦天主堂と同時期ということなのです。晩年の鉄川は、この天主堂のことを、一番懐かしみ、また多くを語ったといいます。工事の苦労ととともに、その成果に最も自信を持ったお堂であったのでしょう。
青砂ケ浦天主堂とともに、上五島にある二つの国指定重要文化財の一つ。

天主堂は頭ケ島の海岸の谷の底にあります。お堂の前の白浜の集落は10戸足らず。これが、島の家の殆どです。海岸には、十字架が並ぶ広い墓地があります。永遠に残る天主堂を・・と望み、自ら石を運び、積んだ人々はここで眠っています。

天主堂の門前に、立派な家と陶器の展示場がありました。招き入れられて、見せていただきます。陶器の間には、百合と薔薇、そして天主堂の写真も飾られていました。50歳過ぎとお見受けしたご主人。「島の土で焼いています・・3年前、妻と一緒に、香川県から越してきましてね・・」訪れる人も少ないこの地、でもきっと、この天主堂の前は、長年の憧れの天地であったことでしょう。遠くをみるような、穏やかな輝くご主人の目が印象的でした。(2009年11月)





























































































西海の教会堂を訪ねて その10 旧鯛ノ浦教会堂(五島、中通島)

2018-05-13 | 教会・天主堂を訪ねて
上五島、鯛ノ浦は、昔より特に熱心なキリスト教信者の多い地域と言われます。明治14年に既に聖堂がありましたが、明治36年に建替えられたのが、現在旧鯛ノ浦天主堂と呼ばれる建物です。設計はペルー神父と推定され、野原棟梁のもと若い鉄川与助も建造に参加したといいます。本体は木造瓦葺です。
現在正面に見える赤いレンガ造りの玄関(ポルチコと呼ばれます)、それは鐘楼も兼ねていますが、昭和21年増築されたものです。この部分は鉄川与助の施工。長崎の原爆爆心地の近くで全壊した浦上天主堂のレンガが使用されているといいます。この旧浦上天主堂のドーム部分は元々鉄川の施工。原爆で40mも飛ばされても、壊れずそのまま残ったそうです。鉄川が籠めた思いようなものを見る気がします。
昭和54年、新しいコンクリートの教会堂が隣に建てられ、旧天主堂は今は資料館として使用されています。内部に入ると、外観からは想像できない壮大な空間です。特に、多少汚れが目立つものの、リブ・ヴォールト天上の美しさには目を見張らされます。

天主堂の横には、五島所縁の功労者の銅像があります。明治18年事故により殉教したプレル神父、二十六聖人の一人ヨハネ五島草庵、ドミンゴ森松次郎、そして、多くの宗教画や聖像、レリーフを残した中田秀和画伯です。4人の銅像の横の崖に沿ってルルドがあります。中田秀和の設計、監督により昭和38年に完成したもの。キリスト教徒が、無原罪の御宿りの聖母と呼ぶ マリア像とそれに手を合わせる少女、あまりに美しいその面差しに・・心打たれます。(2009年11月)