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枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

西海の教会堂を訪ねて その19 貝津教会堂、井持浦教会堂、西端の地へ(下五島、福江島)

2018-05-26 | 教会・天主堂を訪ねて
国道384号が福江島の北岸から西岸に沿って向きを変えるところ、三井楽町貝津に貝津教会堂があります。この地には大正12年創建された天主堂がありましたが、現在の建物は昭和37年に増改築されたもの。美しいステンドグラスを持つ素朴な感じの御堂です。
教会堂の前で一人の旅人にお会いしました。これから大瀬崎まで歩くとか。






















貝瀬を過ぎ島の西岸に出ると、そこは高浜ビーチ。見渡せば濃淡二色に塗り分けられた海の色、白砂、波・・その永遠の様に魅せられます。







道は国道から県道に変わり、福江島最西端の地、玉の浦へ。そこには井持浦教会堂があります。明治28年に建立された御堂で、島内の木造御堂から煉瓦造御堂への転換のハシリになったとも。大正13年の増築により当初の雰囲気が変わってしまったともいわれます。境内に明治32年に建設された日本最古のルルドがあります。本場ルルドの奇跡の泉から霊水を取り寄せたといいます。







島の西端、それは五島列島の西端でもありますが、はすぐ傍、大瀬崎。この辺りの人の手が殆ど入っていないような自然の姿に浸ります。



大瀬崎灯台



















玉の浦への道の途中、立谷(たちや)に寄りました。ここは明治の黎明期、天主堂の一つ立谷天主堂があったところ。天主堂は平成3年台風により倒壊しました。残された写真を見ると和風の民家の内部にリブ・ヴォールトの天井を設えた驚異の御堂。(旧五輪天主堂をさらに素朴にしたような・・)何処か、何故か限りない懐かしさを感じるのです。
緩やかな星山を背にした天主堂跡には、聖母像と石碑が置かれていました。近くには信徒の墓地もありました。人に出会うこともない立谷への道を戻ります。(2010年5月)



立谷付近の海岸




立谷の道




聖母像














西海の教会堂を訪ねて その18 水ノ浦教会堂(下五島、福江島)

2018-05-24 | 教会・天主堂を訪ねて
水の浦天主堂は、楠原に近くやはり福江島の北部ですが、複雑な地形の入江に面した小高い丘の上に位置します。島の唯一の国道、384号を行くと純白の天主堂が目に入ってきます。心ときめく出会いです。

堂崎(奥浦)や楠原と同様、水の浦の信徒も大村からの移住者の子孫であり、明治の禁教令撤廃に至る経緯も同様の道を辿ります。ただ、水の浦のことを語る多くの人は、信徒のために尽した二人の人の名を欠かさないようです。今も、天主堂を見おろす墓地の一番高い所で眠っているのですから・・

長崎に大浦天主堂(フランス寺)が出来た翌年(慶応3年、1867)水の浦の帳方(隠れキリシタンにおいて教会暦を操る組織の最高責任者)水浦久三郎は秘かに大浦に辿り着き神父に祝福を受けて帰還します。
神父からもらった聖具を皆に配布し、信徒であることを表明するに及び、明治2年、久三郎を含む数十人が捕えられ、拷問により棄教を迫られる・・それは、明治4年まで続いたといいます。
明治6年2月、禁教令は撤廃されますが、その一月後、久三郎は70年の生涯を閉じます。令撤廃のことを知っていたのかどうか・・。久三郎の遺志は娘に引き継がれ、明治17年、33歳の水浦カネは自らの生家をおんな部屋(修道院)とするのです。その修道院は今も天主堂の近くで引き継がれています。


この地区には、早くも明治13年天主堂が建てられていたといいますが、老朽化と狭隘のため昭和13年、今の御堂が再建されました。鉄川与助の設計・施工、26棟目の御堂。現存する最大規模の木造天主堂。鉄川のリブ・ヴォールト天井を持つ天主堂の最後のもので、随所に自らが蓄積してきた様々な技術と心を注ぎ込んだであろう、その跡をしっかりと感じます。
平面は三廊式ですが、側廊部に比して主廊部を広くとっているため、極めてダイナミックな空間が造られています。リブ・ヴォールト天井も高く、その美しさは比類のないものです。正面を見ると、特異な曲線が上部を飾る入口、三つの縦長の尖頭窓、広い平面に縦桟木をあしらい軒下の装飾帯に繋げる・・側面も同様、その巧みなデザインに唖然とします。
天主堂の南、山の斜面に沿って広がる信者墓地、その途中には、袴姿で天上を仰ぐヨハネ五島の像もあります。その墓地の道を上りながら、振り返れば、民家と肩を接して建つ御堂、その背後には紺碧の海が・・
純白の姿に、木造特有の柔らかな優しさを秘めた天主堂、きっと鉄川が残した最上の贈り物の一つに違いない・・という思いがしたものでした。(2010年5月)










































































西海の教会堂を訪ねて その17 楠原教会堂(下五島、福江島)

2018-05-23 | 教会・天主堂を訪ねて
楠原は、福江島の北部、海岸より少し入った内陸の地。堂崎天主堂のコメントにも記したことですが、この地は江戸中期(寛政9年、1797)大村藩の農民の五島移住地の一つです。ここでは、牧場作りが仕事で、密生した楠の林を開墾、樟脳を製造しながら整地して牧場にしたのです。勤勉な開拓民の努力により、五島一の馬数を有するまでになったといいます。
キリシタンであることを秘匿した移住でしたが、大村と違い当時はキリシタン弾圧もなく、住民にとってはこの上ない暮らしであったようです。
以前にも紹介しました、「五島へ、五島へと皆行きたがる。五島はやさしや土地までも・・」と俗謡に歌われた・・その時代です。
それは、幕末維新の頃、暗転します。長崎、大浦に宣教師再来の報と呼応するように、住民はキリシタンであることを表明し始め、藩や国の取締側も、また旧来からの郷民も過酷な弾圧に転ずるという、皮肉とも思える結果を生んだのです。当時のこの地区の信徒は800人と言われます。
天主堂の近くに、明治元年の弾圧で教徒が投獄された楠原牢屋敷跡があり、碑が見られます。

明治6年の禁教令撤廃と時を経ずして、神父がこの地を訪れますが、今に見るこの天主堂が建ったのは、約30年の資金の蓄積期間の後、信徒の労務奉仕を得て、大正元年のこと。コンバス司教により献堂。堂崎天主堂の完成後、鉄川与助を含む同じグループにより設計・施工されたと見られています。鉄川の作品と見做せば、4棟目の天主堂となります。
平面は三廊式。内部立面は単層構造。天井はリブ・ヴォールト。煉瓦造(鉄川の天主堂に共通に見られる長手積みと小口積みが交互のイギリス積み)正面部分が建物本体とは独立した、看板建築のように見えるとの評もあるようですが、鉄川が明治43年に完成した青砂ケ浦天主堂とのデザインの共通性は明らかですし、実際に堂前に立つと、その煉瓦面の美しさ、迫力には圧倒される思いです。ただ、昭和43年、全体のデザインを無視した内陣(祭壇部)のコンクリートによる増築には、残念がる声が多いようです。
海辺に建つ天主堂の多い五島にあって、内陸の農村地帯、田畑と農家と同じ立場を持つこの天主堂。老朽化の進む中、美しい姿を保持した維持保全を望まずにはおれませんでした。(2010年5月)
















































西海の教会堂を訪ねて その16 堂崎天守堂(下五島、福江島)

2018-05-22 | 教会・天主堂を訪ねて
この下五島、福江島においても、最初のキリスト教はアルメイダ修道士により伝えられたようです。天主堂の庭に、アルメイダと日本人イルマンのロレンツが五島の藩主に宣教している場面のレリーフがあります。アルメイダは医師でもあり、藩主の病気を快癒させたといいます。それを機会に多くの信者を獲得し、堂崎近くの奥浦に布教所まで与えられています。
そして、時はキリシタン迫害の時代へと・・。天主堂に向かうように、日本二十六聖人の一人、ヨハネ五島が十字架に掛けられている像があります。教徒以外の者にとっては、目を背けたくなるような残酷な像です。ヨハネ五島はその時、19歳だったといいます。
長い「隠れ」キリシタンの時代です。(五島では「隠れ」といわず「元帳」(教会暦をお帳と呼ぶことに因んで)と呼ばれたそうですが・・)現在の五島の信者の祖先は、江戸時代中期、長崎大村藩から開拓のため、信徒であることを隠し、この島に移住してきた人たちと言われます。
明治初年の狂気のような最後の迫害を越えて、明治6年禁教令が撤廃され、明治10年、フランス人マルマン神父(佐世保沖の黒島に大御堂を建て、その地に眠ったあのマルマン神父・・)が奥浦、そしてこの堂崎に居を構え、信徒発見に努め、明治21年からペルー神父がそれを引き継ぐことになったのでした。ペルー神父はこの地で30年を過ごすことになります。そして明治41年、待望の赤煉瓦のこの御堂を献堂したのです。
堂前の子供達に囲まれたマルマン神父とペルー神父の像、御堂を見つめる表情の優しさが印象的です。


堂崎天主堂は、上記のように明治41年の献堂。今に残る福江島の天主堂としては最も古いものです。平成11年、内外装の補修が行われ、イタリヤ製の煉瓦も輝きを増し、美しい姿に蘇りました。
設計はペルー神父。施工は野原与吉。鉄川与助も工事に参加。鉄川は、ここで西洋建築技術の多くをペルー神父より学び、後の天主堂建築で花開くことになったと言われています。
内部は三廊式、立面は単層構造、リブ・ヴォールト天井。側面の上部尖頭アーチ形窓は、外側両開き鎧戸、内部内開き色ガラス戸で外部に出られる構造。九州に現存する天主堂としては唯一のアメリカ積みの煉瓦(4~5段長手積み、1段小口積みを挟む)を採用。(内部は撮影禁止)

この地は島の北端、岬の先端です。なぜ、このような場所に下五島の中心ともなる天主堂が建てられたのでしょうか。陸路が整備されていない時代、信徒の人達は専ら船を利用したのです。ホラ貝の音がミサの合図でした。以後60余年間、礼拝が続けられましたが、奥浦の街に近い浦頭に教区が移り、更に昭和49年県指定有形文化財となり、ホラ貝の音も絶えて、天主堂としての役割は終えたようです。今は資料館として使われています。

私はこの日、福江島の北の久賀島の五輪を訪ねた午後、海上タクシーでここに 寄りました。船頭さんは、写真を撮るための少しの間船を止めてくれます。ひたひたと波の寄せる浜。ポツンと赤い煉瓦の天主堂がありました。観光としての顔に変わった天主堂、ちょっと寂しそうな表情に見えたものです。(2010年5月)




































































西海の教会堂を訪ねて その15 大江教会堂(天草)

2018-05-20 | 教会・天主堂を訪ねて
大江天主堂は、崎津天主堂に近い天草下島の西南、小高い丘の上にあります。明治以降に天草に建てられた二つの天主堂の内の一つです。

明治40年、この地を訪ねた紀行文「五足の靴」(岩波文庫)にこの天主堂に関し興味深い記述がありますので、引用させていただきましょう。(「五足の靴」は、与謝野寛(鉄幹)が、まだ学生の身分だった太田正雄(木下杢太郎)、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を連れて旅した記録、紀行文)

「「御堂」はやや小高い所に在って、土地の人が親しげに「パアテルさん、パアテルさん」と呼ぶ敬虔なる仏蘭西(ふらんす)の宣教師が唯一人、飯炊男の「茂助(もすけ)」と共に棲んでゐるのである。案内を乞ふと「パアテルさん」が出て来て慇懃(いんぎん)に予等を迎えた。「パアテルさん」はもう十五年も此(この)村にゐるさうで天草言葉が却々(なかなか)巧い。「茂助善(よ)か水を汲んで来なしやれ。」と飯炊男に水を汲んで来させ、それから「上にお上がりまっせ」と懇(ねんご)ろに勧められた。・・」「「パアテルさん」は其(その)他いろいろのことを教へて呉れた。
此(この)村は昔は天主教徒の最も多かった所で、島原の乱の後は、大抵の家は幕府から踏絵の「二度踏」を命じられたところだ。併(しか)し之で以て大抵の人は「転んで」仕舞って、唯この山上の二三十の家のみが、依然として今に至るまで堅く「ディウス」の教へを守ってゐるさうである。・・・それで信者は信者同士でなければ結婚せぬ。縦(よ)し信者以外のものと結婚するとしても、それは一度信者にした上でなければならぬ。いや、今は転んで仏教徒になってゐるものでも家の子の出来た時には洗礼をさせ、又死んだ時にも、表面は一応仏式を採るが、其(その)後更めて密かに旧教の儀式を行ふさうだ。・・」
「・・・此(この)教会に集る人々は、昔の、天草一揆時代の信徒ではなくて、此御堂建設後、二十七年の間に新に帰依したものである。それは、大江村に四百五十三人、それから此の「パアテルさん」が一週間交代でゆく崎津村に四百五十九人あるさうだ。・・・」


その「パアテルさん」、ガルニエ神父は、明治25年から50年間この地に尽し、昭和8年今の天主堂を建てます。当時の金で25000円、神父は生活を極度に切り詰め捻出したといいます。設計・施工は鉄川与助。鉄川21棟目の御堂。RC造。切妻の背面は将来の増築を考慮したもの。
緑の丘に建つ純白の御堂。折上天井、花模様に飾られた暖かな内部は、神父の人柄を表すもののようにも思えます。(内部は撮影禁止)(2010年5月)