勘太郎爺奮闘記

滞在合計26ケ国、21年の海外生活が終りました
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2008年 南京・金陵

2018-11-18 | 建物・風景

2008年 南京・金陵

金陵(JinLing・ジンリン)

 

南京市の南に、50万年前に住んでいたと言われる南京原人が発掘された遺跡があり、観光地となっているが、行ったことがない。 

実際、南京博物館の展示などで学ぶと、長江下流・長江デルタの新石器時代(BC6000~)の遺跡などの展示が見られるが、南京の歴史は太伯・虞仲兄弟の子孫がこの地に城を築いたことに始まる。春秋時代に呉(BC585頃~BC473)。「臥薪嘗胆」、「呉越同舟」などの故事成語はこの時代の話ですね。 

戦国時代は(~BC223)に支配される。この頃の地名が「金陵」で現在でも、金陵は南京の別名となって使われている。

 

三国時代になると、呉の孫権が、229年に都をおき、「建業」と称した。南京駅前にある玄武湖で水軍を鍛え、「赤壁の戦い」で蜀の劉備玄徳と共に、魏の曹操軍を破った話は有名ですね。 孫権は、南京の紫金山の麓の梅の名所の梅花山にある陵墓に葬られたとされているが、詳細は不明。

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南京駅から玄武湖を介して市内を眺めた写真。

 

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梅花山にある孫建像

 

六朝の時代(280年~589年)は南京が首都であった。隋、唐~元(~1368)の時代は、南唐(937~975)を除き、一地方だった。

 

紅巾の乱から立ち上がった朱元璋(洪武帝)が、1368年に、中国を統一し、明を起こし、この地を首都とする。

1421年永楽帝により北京へ遷都され、「南京」と呼ばれる。 洪武帝は紫金山中腹にある明考陵に葬られている。明考陵は北京にある「明の13陵」と共に、世界遺産となっている。

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上:明考陵 下:明考陵神道

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辛亥革命により清朝が打倒され、1912年1月1日、南京にて、孫文が中華民国の成立を宣言するとともに、初代臨時大統領就任のための宣誓をおこなった。 孫文は1925年に北京で客死し、南京の紫金山の中腹にある中山陵に葬られている。 

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中山陵

 

1927年4月には蒋介石の国民政府の首都となった。   

 

南京の市街地は、明の初期に建設された周囲約34kmの城壁に囲まれている。(城壁の内部の面積は横浜市鶴見区よりやや小さい。) 

 

この城壁の東に位置する「朝陽門」は孫文(孫中山)の国葬を行う為に、1929年に封鎖され、北側に「三民主義」を意味する3つのアーチを持つ「中山門」が建設された。

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現在の中山門

 

1937年(昭和12年) 12月13日、旧日本軍はこの中山門より南京に入城し、総統府に日の丸を掲げる。

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松井石根を大将とする中支那方面軍(上海派遣軍と第10軍の2軍編成)である。 この日以降に南京事件や南京大虐殺などと呼ばれる旧日本軍による略奪、虐殺が行われたとされている。 この松井大将は、極東国際軍事裁判(東京裁判)にて、「南京事件」の責任を問われて、死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。 1978年、他のA級戦犯と共に靖国神社に合祀された。 

(中国人にとっては、この松井は、南京大虐殺の総責任者であり、日本軍による非道の象徴的人物として位置付けている。このような人が合祀されている靖国神社に、日本国の首相、国会議員たちが、参拝するのを見ると、いかに彼らが説明、言い訳をしようと、違和感を覚えざるを得ない。) 

 

12月13日には南京では毎年追悼行事があり、朝には街中にサイレンが鳴り響きわたる。 12月13日が「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」とすることが決まり、国として追悼日に格上げされた。

 

 

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