「愛国心」を学校で教えることが是か否かの前に・・・

2006年03月22日 | Weblog
愛国心「容認できない」 日教組が法改正に反対決議 (共同通信) - goo ニュース
 愛国心は「国を愛する心」だろうけど、ここで言う「国」とは何か?をきちんと定義しておかないと、おかしな事になるんでは無かろうか。分かりやすく書けば「『国』とは『○○』である。だから好き♪」の○○に該当する部分をきちんとしておくって事。○○は個々人によって違うだろうし、違っても良いけど、はっきりと言えるようにするのが大事だと思う。
 ○○が「日本に住む人」「今の社会」「自然」でも良いし、極端に言えば「天皇制」でも良いでしょう。そこは思想・信条の自由だ。
 でも、○○が曖昧だと、いざ!という時に困ると思う。

 ライブドアによるニッポン放送買収騒動を思い出して欲しい。社員も、タレントも、そして(恐らく)ライブドアも、ニッポン放送を色々な意味で愛していただろう。だけど、愛していた理由、言い換えると「『ニッポン放送』とは『▲▲』である。だから好き♪」の▲▲が社員とライブドアで違っていたから、結局は「会社とは誰のもの?」なんて根源的な疑問が出てくるし、揉めたのだ。

 ま、それ以上に、何にせよ「愛すること」を学校教育で教えるってのも何だかおかしいと思うけど。「愛する」って、誰からも強制されることなく、自然にそういう気持ちになるもんではないのか。また、相手にそういう気持ちになってもらおうと努力するのが本来の姿だと思うけど。初めに「愛すること」ありきじゃないと思うけど。
 穿った見方をすれば、そうしないと愛してもらえない国ってのが間違ってるんと違うのかなぁ・・・。

 最後にもう一つ。「愛国心」で愛する「国」ってのは、やっぱり日本国なんだろうか。これは「日本国」と「その他の国」を区別するのが前提なんだけど、現実を鑑みると、その区別自体が無意味なんではないだろうか。だって、日本の食糧自給率(カロリーベース)は30%程度、エネルギー自給率は4%程度(原子力を加えても20%程度)だもん。食べ物もエネルギーも他国が存在することで初めて日本が存在するのだ。そんな状況で「日本国」と「その他の国」を区別するのにどれだけの意義があるんだろうか?(いや無い。反語表現だ)。
(あらあら、ちょっと仏教っぽくなりましたか)。
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