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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

岩本町三丁目町会

2009-05-10 11:53:25 | 平成21年 神田祭
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岩本町は「旧岩本町と東龍閑町と東松下町の一部」が合併して、昭和8年に誕生しました。
 
江戸時代の初め、この界隈は沼地で、雁渊や笹原と呼ばれていました。

この地域に最初に住んだのは、大名や旗本などの武士たちでした。
江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄えはじめます。
さらに神田川の南側の柳原土手の周辺では、古着を扱う露店が集まるようになりました。

その伝統は、明治維新後も引き継がれました。
明治14年(1881)、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる古着の大市場が開設されます。
「岩本町古着市場」と呼ばれたこの市場には、多いときには400軒もの古着屋が軒を連ねていたといわれています。

その後は、戦前、戦後を通じ既製服の一大集散地となり、全国のデパートや小売店にはこの町から出荷された商品が並びました。

現在は数こそ少なくなってきましたが、岩本町三丁目を支え、町の礎を築いてきたのは繊維業者であり、岩本町は日本の繊維業界とともに発展してきた町です。 

町会の該当区域は、岩本町三丁目及び神田岩本町全域となっています。


当町会の神輿は、東京浅草の当代一級の神輿師、宮本 重義氏の第一号特注品です。
昭和28年5月に完成しました。台輪幅は2尺5寸、高さは7尺8寸になります。
作風は唐破風漆塗神社型、鳥居他、昇り龍、降り龍彫刻、極彩色仕様となっています。
豪華絢爛で神田明神氏子、百八ヶ町でも最高の傑作となっていると自負しています。



岩本町一丁目町会

2009-05-10 11:41:16 | 平成21年 神田祭
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岩本町一丁目は、かつて東福田町、材木町、東今川町、亀井町の4つの町に分かれていました。

これらの町は昭和40年7月の住居表示の実施により、合併して現在の「岩本町一丁目」になりました。かつて町内を流れていた「竜閑川」は終戦後に三度埋められ、現在に至りますが、江戸の頃より変わらないのは、この川筋を神田と日本橋の境界としていたことです。
現在は千代田区と中央区の区境となっています。

町の北側を通る「金物通り」の名前が示すように、かつては金物問屋が軒を並べて、竜閑川を利用した木材の運搬とともに物流の中核地でした。

町会の該当区域は、岩本町一丁目全域となっています。


当町会の神輿は昭和31年、市川行徳の神輿師、十四代浅子 周慶により造られました。
台輪寸法2尺3寸の大神輿で、黒漆塗りの屋根には神田明神の御神紋が光ります。
約300人の担ぎ手により宮入りを行います。
その後、秋葉原中央通り「お祭り広場」の神輿天国に参加します。昨日、5/9は14時30分から神田東紺町会・神田松枝町会・神田大和町会と、連合渡御を行いました。



神田東紺町会

2009-05-10 11:27:25 | 平成21年 神田祭
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江戸時代、この界隈は、町人と武士の屋敷が混在している地域でした。
このあたりにあったのは、神田紺屋町三丁目 、神田紺屋町一丁目代地、本銀町会所屋敷 、神田佐柄木町代地、永富町二丁目代地といった町々でした。

明治2年(1869)にこれらの町が合併して「東紺屋町」となりました。
「紺屋」という町名は、江戸時代から明治時代にかけて、紺屋頭の拝領地であり、藍染職人が住んでいて、染物業が盛んであったことに由来しています。

昭和22年、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名の頭に「神田」が付き、神田東紺屋町となりました。
その後、昭和40年の住居表示の実施の際に、神田東紺屋町の一部は神田松枝町 、神田大和町 、神田東松下町の一部、神田元岩井町の一部と合併して、岩本町二丁目となりました。

当町会の該当区域は、東紺屋町及び岩本町二丁目1~4番地となっています。


当町会の神輿は浅子 周慶により造られました。
大きさは2尺と、町会と同じく、決して大きくはありませんが、神輿を取仕切る青年部と担ぎ手総勢300名が一体となり、宮入りでの勢いは他町会に決して引けをとりません。
そして、なんといっても青年部の ”帯”、五分田柄東紺の”扇子”、首にかけた”掛け寄り”、そして頭に巻いた”東紺の手拭”、等に注目して御覧下さい。
我々、東紺町会のチームワークは”神田一”です!



東神田豊島町会

2009-05-10 11:19:26 | 平成21年 神田祭
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東神田豊島町は、かつて豊島町と呼ばれていました。

豊島という町名の由来は、町奉行が「この一帯が属している豊島郡には豊島村という地名がすでにあるが、それとは別に豊島町という町名があってもいいだろう」として名付けられたという説があります。

江戸時代、このあたりには「比丘尼横丁」や、髪油として美男葛の油を売る店もあったことから俗に「桂横丁」と呼ばれた通りもありました。
そのほか、銘茶屋、菓子屋、水油仲買等がありました。

明治になると、旅館、砂糖商等が集まり、大変賑わっていました。
その賑わいが現在にも続いていて、大変活気のある町会となっています。

当町会の該当区域は、東神田一丁目6~11番地、東神田二丁目1~7番地、岩本町三丁目6番地8~13号、14号の一部、11番1・2・3号の一部となっています。


当町会の神輿は浅子 周慶によって造られました。
台座3尺となっています。
数年前に修理と化粧直しを行い、さらに、その輝きを増しました。
また、濃緑色加工を施した渋めの大鳥(鳳凰)に特徴があります。
総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。



神田松枝町会

2009-05-10 11:07:32 | 平成21年 神田祭
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この界隈は、昭和40年代のはじめまで神田松枝町と呼ばれていました。
名前の由来は、江戸城の大奥にいた「松ヶ枝」という老女の名に由来するという説があります。

旧松枝町あたりを中心にして、江戸のころまで、「お玉が池」という広大な池がありました。
桜の名所だったことから、当初は「桜ヶ池」と呼ばれ、池畔に茶屋が建っていました。
「お玉」というのは、この茶屋にいた看板娘の名前です。

景勝地・お玉が池の周辺には、江戸の文人や学者が多く暮らしていました。
その一人である伊東玄朴ら蘭方医達が、安政5年(1858)、種痘館を設立しました。
このお玉が池種痘所が、いまの東大医学部の出発点であると言われています。
 
町会の該当区域は、岩本町二丁目5~7番地、10~12番地となっています。


当町会は神輿ばかりではなく、山車にも御注目下さい。
当町会の山車は唯一宮入りする羽衣の山車です。
昭和13年に製作された極彩色の神輿とともに新調された金色に輝く冠をつけ、宮入りする姿をぜひご期待下さい。
なお人形の面も近年若き能面作家により新調された作品です。ご注目ください。