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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

神保町一丁目町会

2009-05-10 12:50:08 | 平成21年 神田祭
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江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。
明治5年(1872)に表神保町 、裏神保町などの町が誕生し、大正11年(1922)には通神保町と改称した後、表神保町、表猿楽町等とともに、昭和9年(1934)に神保町一丁目となりました。
さらに昭和23年(1948)、神田区と麹町区が合併して千代田区ができると、現在の神田神保町一丁目になりました。
 
町名の由来は、元禄年間(1688~1704)のころ、旗本の神保 長治が広大な屋敷をかまえ、そこを通っていた小路が「神保小路 」と呼ばれるようになったためと言われています。

神保町一丁目町会は、靖国通りの南側にあり、町の東西に古書店街で有名な「神田すずらん通り」が走っています。
この通りの名前は街路灯がスズラン式に変わったことから名付けられました。
街路灯が変わった理由は、明治20年頃、この辺りの道は「おばけ横町」や「怪物横町」と呼ばれたくらいに、人通りのない恐い道であり、暗く恐い道を少しでも明るくしようとしたものであったと言われています。
現在ではそのスズラン灯も無くなってしまいましたが、その名前だけは今も変わらずに残り、広く愛されています。
 
神保町は神田すずらん通りに代表されるように、『本の街』とも言われています。
大型新刊書店や大小無数の古書店がひしめいて、独特の雰囲気を醸し出しています。

町会の該当区域は、神保町一丁目1~41番地までの奇数番地、101・103・105番地となっています。


平成15年江戸開府400年を記念し、浅草、宮本卯之助商店より新調しました。
台座2尺3寸、重量330キロ、担ぎ手200名で宮入します。
神田中央連合の宮入参拝の帰途、午後2時頃より駿河台下交差点にて神田中央連合が集結し、神輿振りが行われます。



神田猿楽町町会

2009-05-10 12:27:28 | 平成21年 神田祭
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猿楽町は古来、芸術文化に関係の深い町です。

今でいう「能楽」は、江戸時代には「猿楽」として、武士達に親しまれていました。
「猿楽」は芸術性を高め、江戸幕府の儀式の際に用いる音楽・舞踊に指定されました。
猿楽師の一人で、徳川家康と縁が深かった観世座家元、観世太夫や、一座の人々の屋敷が現在の神田神保町一~二丁目から西神田一~二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町」という町名が生まれたと言われています。

他にも、文学では、夏目 漱石が青春時代にこの地の近くに住み、町内の錦華小学校(現お茶の水小学校)に在籍していました。芥川 龍之介も恩師の下宿がこの町内にあったため、たびたび訪れていたといわれています。音楽においては、現在の東京音楽大学のもとである、東洋音楽学校が明治40年、猿楽町に設立され、日本の音楽文化近代化に多大な影響をもたらしました。また、猿楽町は経済同友会代表幹事、北城 恪太郎氏、脚本家、大石 静さんが生まれ育った町でもあります。
 
猿楽町と駿河台の間に、男坂・女坂と呼ばれる2つの階段があります。いずれも大正13年(1924)につくられた坂で、男坂は七十三段、女坂は八十二段を数えます。どちらの坂も一気に上ると息が切れるほどの急傾斜ですが、女坂の途中には踊り場があり中休みできるのに対して、男坂のほうは踊り場がなく、より厳しい上りになっています。そのため、七十三段の坂は「男」、少しゆるやかで長い坂は「女」と呼ばれるようになったとのことです。

 町会の該当区域は、猿楽町一・二丁目全域となっています。 


当町会の神輿は、名工といわれた後藤直光氏によって、昭和8年に作られた由緒あるものです。
台輪寸法2尺の繊細で豪華な彫刻は、今では見受けることのできない見事なものとなっています。

この神輿は町会員や他の地域から馳せ参じる家族・親族、神輿好き、神輿同好会メンバー等、約300名によって担がれています。



小川町連合

2009-05-10 12:16:59 | 平成21年 神田祭
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小川町連合は小川町三丁目西町会、小川町北部一丁目町会、小川町北部二丁目町会、小川町北三町会の4つの町会の連合となっています。

戦前小川町全地域は一つの町会であったが、靖国通りを境に北部と南部の二つに分離され、その後昭和22年に小川町北部町会が四町会に分割され、今の状態になりました。

小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからとも言われています。
江戸城を築いた室町時代の武将、太田 道灌が「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。

明治時代、小川町には西洋料理店やビリヤード場、小川町警察署などがあり、学生たちで賑わう街でした。
また、町内で生まれ過ごした昭和期の小説家、永井 龍男を輩出した街です。

町会の該当区域は小川町一・二・三丁目のほぼ全域となっています。


戦後、子ども達にとってこれといった楽しみが無かった頃、神田祭は非常に待ち遠しいものでした。
当初町会には、子ども神輿と中神輿、そして太鼓の山車があり、子どもの数も多かったので活気に満ちていました。
しかし、子ども達も大きくなってくると大きな神輿が欲しくなり、有志が集まり趣意書を作り、毎月の定額積み立てを2年間続け、ついに昭和61年3月に2尺5寸の大神輿を調製しました。
それ以来、祭の度に町会員やその知人が多数集まり、賑やかに楽しくお神輿を担いでいます。



神田大和町会

2009-05-10 12:02:31 | 平成21年 神田祭
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この地が「大和町」と呼ばれるようになったのは、享保年間(1716~1736)の頃です。
内神田にあった大和町の人々が移ってきたため、大和町代地となりました。

幕末のころには、この町から隣の東竜閑町にかけて、駄菓子問屋が数百軒ほどが軒をつらね、ずいぶん賑わっていたと言われています。
またここには、蝋燭や、べっこう細工、箪笥などをつくる職人も多く住んでいました。

明治2年(1869)、大和町代地は合併して、神田大和町となりました。

明治44年(1911)に町名は大和町と変わりますが、昭和22年、神田区と麹町区が合併し千代田区になると、ふたたび神田大和町に戻ります。
そして昭和40年、住居表示の実施により周辺の町の一部と合併して岩本町二丁目になりました。

町会の該当区域は、岩本町二丁目13~17番地、19番地となっています。


当町会の神輿は、昭和13年に浅草、宮本 重義により作られました。
台座2尺、唐破風屋根、金梨地塗り、二重勾欄神輿。屋根裏以下総白木造りで、塗り神輿に比べ、大変に凝った彫刻を数多く施しています。
戦災も乗り越え神田でも数少ない貴重な神輿です。
町内一丸となって宮入れを行います。是非、ご注目をしてご覧になってください。