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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

東神田町会

2009-05-10 10:59:13 | 平成21年 神田祭
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現在の東神田界隈には、橋本町、江川町、富松町、久右衛門町といった町がありました。

橋本町の町名は、牛馬の売買や仲買をする幕府の博労役の橋本源七がこのあたりに土地を与えられたことに因んだ、と言われています。
この町の南に接する馬喰町 (現・日本橋馬喰町)にも博労が住んでおり、馬市が盛んに開かれていたそうです。

江川町は宝永年間(1704~1711)に開かれた町で、伊豆韮山の代官江川家の屋敷があったことから名付けられた町です。

富松町、久右衛門町は、享保3年(1718)の火災の後、神田川北岸よりこの地に移ってきた町です。

大正12年の関東大震災後の復興計画にあたり、江戸時代から長く続いてきた町名が大きく変わることになりました。
昭和9年(1934)に、橋本町、江川町、富松町、久右衛門町が合併して東神田になり、昭和13年(1938)に東神田町会が成立しました。

町会の該当区域は、東神田一丁目1~5番地、12~17番地、東神田二丁目8~10番地となっています。


東神田町会の神輿は昭和29年、行徳、浅子 周慶作です。
台輪2尺7寸。他所に例の無い東神田型。鳳は一万円札裏面、国宝、宇治平等院鳳凰堂屋根錺に範を採る、所謂、浅子型です。
神田随一の華麗な町神輿として夙に知れ渡り、NHK「美の壺・File64・神輿」にも出陳致しました。
この度、美しい大・小花万度を先触れとして、賑々しく宮入り致します。



室町一丁目会

2009-05-10 10:55:10 | 平成21年 神田祭
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室町一丁目は、昭和7年に、「旧室町一丁目・二丁目」等の町が合併して、室町一丁目となりました。

日本橋魚河岸、呉服屋、両替店が栄え、現在にまで至り、老舗となっている店も多く、商業・金融の中心地となっています。
 
宝町一丁目内にある「三越」は、延宝元年(1673)に越後屋号で旧本町一丁目に店を出し、「店前現銀無掛値 」の看板を掲げ、現金による正札販売商法と、切り売り商法の新商法によって今日になすまでとなりました。

明治37年「三井の越後屋」を二字につめて「三越」と改めたと言われています。

町会の該当区域は、日本橋室町一丁目全域となっています。


総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。大神輿は昭和13年、後藤 直光作です。
大きさは2尺8寸、平屋台、三方胴羽目です。
扇木や厚手の鋳物、彫金で細工され、木彫を施さない神輿です。
鳳凰の翼が大きく、首が長いことも特徴の一つです。
日本橋の橋の上や、三越本店前での神輿ぶりは大興奮!
必見です!!



神田同朋町会

2009-05-10 10:40:08 | 平成21年 神田祭
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同朋町会は、明暦の大火以前までは寺地でしたが、明暦の大火(1657)後に寺地を外に移し、幕府同朋衆の屋敷としました。
「同朋」というのは、室町時代に始まり、幕府の雑務、茶事を務めた僧体の小史のことを言います。
江戸幕府では、城中における大名の案内・更衣・刀剣の上げ下げ・茶弁当の世話をし、将軍外出の際には、長刀を持って従っていました。

同朋町会北隣の妻恋坂を挟んで妻恋神社があります。
この神社は同朋町と文京区の妻恋町(湯島三丁目)の二町会で昭和52年から共同管理しています。
同朋町は妻恋神社の氏子町会にもなっていて、平成8年3月に新調した神輿の屋根紋には、妻恋神社、神田明神両方の御紋を付けて、同年5月の神田明神例大祭に「担ぎ初め」をしました。

また、「南総里見八犬伝」の著者として有名な、曲亭馬琴(滝沢馬琴)は、文政7年(1824)に、九段中坂からこの同朋町に移り、天保7年(1836)までこの町に住んでいました。

 町会の該当区域は、外神田二丁目10~15番地、蔵前橋通りをはさんで6丁目1・2番地及び3番地3・4・7・8号となっています。


当町会の神輿は平成8年に新しく作り直しました。
宮本 重義の作品です。
当連合の中でも、一番新しい神輿です。
美しい仕上がりの中にも下町の落着きを調和した風情になっています。



宮本町会

2009-05-10 10:32:52 | 平成21年 神田祭
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宮本町は、明治2年(1869)に神田明神門前町となった後、明治5年(1872)には境内などの社地を編入して、神田宮本町となりました。
江戸総鎮守のお膝元で生活することを誇りとする住民の心意気が形になった名前です。

宮本町には、明治10年(1877)創業、開花三十六席にも選ばれた「開花楼」がありました。
ここは海抜40メートルの高台に建っており、見晴らしの良さと江戸前の料理が好まれ、通人、粋人が集う場所として知られ、東京名所図会など、多くの書物に残されています。
また、単に料理屋として著明であるばかりではなく、書画店や古書市、見本市等、当時としては貴重な文化事業が再三開催されました。

明治の国分学者、福羽 美静が開花楼の全盛を詠んだ詩を紹介します。
「にぎわしき 花の都のその花を 見れば心も また開けつつ」

町会の該当区域は、外神田二丁目16~19番地、7番1号・4号の一部となっています。


本年度は葛飾区・亀有五丁目東町会の神輿をお借りして担ぎます。この町会は亀有香取神社の氏子神です。神輿は昭和29年、浅子 周慶の作で、平成21年の春にリニューアルされました。



外神田一丁目万世橋町会

2009-05-10 10:22:59 | 平成21年 神田祭
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外神田一丁目の一帯は、神田川に架かる橋の名に因んで万世橋と呼ばれています。
万世橋の名前は、明治6年(1873)、昌平橋よりもやや下流に架けられた「萬世橋 」に由来します。
完成時は「よろずよばし」と命名されていましたが、いつしか「まんせいばし」という音読みが一般化しました。
また、万世橋は日本初の石橋でもあり、眼鏡橋と呼ばれたりもしています。

当時、武家地だった神田仲町と神田花房町は、享保年間(1716~1736)に町屋となり、商人や職人が移り住むようになりました。
また、神田花田町は、明治2年(1869)、武家地だった花房町代地と須田町代地を合わせ、両町から一字ずつ取ってできた町です。
地元の万世橋町会は、戦後、その3つの町にまたがって成立した町です。
昭和39年(1964)、これら3つの町は外神田一丁目に変わり、現在に至っています。

電気街として有名な秋葉原もこの万世橋地区内にあり、戦前からすでに電気部品やラジオなどを扱う問屋や小売店がありました。

町会の該当地域は、JR秋葉原電気街口周辺の、外神田一丁目1番地8~14号、2番地、4番地9~17号、10~17番地となっています。


当町会の御輿は、昭和35年、宮本重義の手によるものです。
神田祭においても、比較的大きな神輿となっています。
ぜひご堪能ください。
総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。
神酒所は電気街口を出た駅前にあります。