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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

内神田旭町町会

2009-05-10 13:29:45 | 平成21年 神田祭
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江戸時代、この辺りは出羽秋田藩藩主佐竹 義宣及び能楽師幸若太夫の屋敷地でした。
天和2年(1682)の大火でこの付近一帯が焼失した後、佐竹氏は下谷三味線掘(現台東区)に移転し、跡地は町人地となり永富町二~四丁目、新革屋町代地、元乗物町代地の一部となりました。
明治2年(1869)、これらの地域は「旭町」と改名されました。
「旭町」の由来は佐竹氏の家紋「扇に日の丸」に因んでいます。

町内にある『佐竹稲荷神社』は寛永12年(1635)に創られました。
同町の鎮護の神として丑寅の一隅に安置されていましたが、大震災後の区画整理の際に現在地(内神田三丁目10番地)に移されました。

昭和41年に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。

町会の該当区域は内神田二丁目8・9・13・14・16番地、内神田三丁目5・6・8~11・15・16・24番地となっています。


旭町の旧町である、永富町では天下祭の神田祭では竜神の山車を出していました。その故事にちなんで、旭町神輿には神田明神、竜神山車、花笠の町衆が彫刻されている、非常に珍しいものです。昭和27年、宮本重義作です。



「江戸人の文化」 ~江戸総鎮守・神田明神を知る~

2009-05-10 13:24:28 | 平成21年 神田祭
神田明神にございます、神田明神資料館のご紹介をさせていただきます。

現在、神田明神資料館(かんだみょうじん しりょうかん)では、平成21年 資料館特別展として、
「江戸人の文化」 ~江戸総鎮守(えどそうちんしゅ)・神田明神を知る~ が開催されています。
1300年の歴史ある神田明神は江戸文化の全ての根元です。
そして江戸文化には今の東京の全てがあります。
「江戸総鎮守」として江戸幕府・徳川将軍はもちろんのこと、
江戸庶民にいたるまで多くの人々からの篤い崇敬を受けた神田明神。
そんな神田明神や神田祭、江戸文化に関する絵巻、古文書、浮世絵などを大公開しています。
開館日時は、平成21年7月26日の日曜日までです。ただし、開館日は土日祝日のみです。
開館時間は、10時~16時です。
拝観料は大人の方は300円、学生子供の方は200円となっています。
なお、神田祭ガイドブックご持参の方は、お一人様100円割引にてご入館いただけます。
ぜひ、足をお運びください。


大手・丸の内将門塚保存会神輿

2009-05-10 13:12:26 | 平成21年 神田祭
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江戸時代、この界隈は、江戸の中心地として発展し数々の大名屋敷が立ち並んでいました。
また、この地には神田明神の創祀の場所である、「将門塚」がありました。

ここ丸の内一帯が大きく変貌を遂げたのは明治23年(1890)になります。
陸軍が一帯を三菱社に払い下げて以後、三菱社が大規模な再開発をしました。
地域内の道路整備を行い、続々と洋風の建築物を建てていきました。
赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせるようであったと言われています。

さらに大正3年(1914)には東京駅も完成しました。
第一次世界大戦による空前の好景気を追い風とし、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長を遂げたのです。

このような歴史を持つこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和4年に、丸ノ内一~三丁目という町名が誕生してからのことです。
そして昭和45年、町名の表記が片仮名の「 ノ」(丸ノ内)から平仮名の「の」(丸の内)へと変更され、現在に至っています。

当町会は、この地域に所在する企業・団体及び商店等を会員として、昭和32年に設立されました。

当町会の該当区域は、丸の内一・二・三丁目、大手町一丁目及び二丁目となっています。


平将門公を思わせる勇壮な姿を、とくと御覧下さい。
この神輿は、史蹟将門塚保存会の参与法人会員を務め、大手町・将門塚の隣接する三井物産株式会社より地域社会との交流・史跡旧跡の保存・伝統文化の継承による町おこし・社会貢献活動の一環として史蹟将門塚保存会に寄贈された神輿です。
一般的な神輿の形式とは異なる「入母屋造」で台輪3尺5寸の大神輿です。
当町会内で働く男女、総勢950名の担ぎ手により宮入りします。
日本有数の大手企業人の心意気を宮入参拝の担ぎで魅せます!



錦連合(錦三神輿)

2009-05-10 13:00:19 | 平成21年 神田祭
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錦連合は「錦町二丁目町会、錦町三丁目町会 、錦町三丁目第一町会 、小川町三丁目南部町会」の4つの町会の連合となっています。

 「錦町」の名前の由来は、かつて、「一色 」という旗本屋敷が二軒あったことから、あわせて「二色 」または「二色小路」と呼ぶようになり、明治に入り「錦町 」と改められました。

 これらの町会は、明治以降、教育機関が立ち並ぶ文教の町として発展を続けました。

 かつては学習院大学、一橋大学の前身である高等商業学校がありました。また、「英吉利法律学校(現中央大学)」もこの地で開学しました。明治10年(1877)には、東京開成学校と東京医学校が合併し「東京大学」が創立されました。電機学校(現東京電機大学)は、昭和に入りこの町内に移ってきました。その他、「東京外国語大学 」や「学習院」、「共立女子大学」など多くの優秀な学校がひしめきあっています。

町会の該当地域は、錦町二丁目、錦町三丁目全域、小川町二丁目1・3・5番地となっています


 錦連合は毎回、900~1000人前後の担ぎ手が参加する、大変大きな連合神輿です。御輿二機宮入の熱気もさる事ながら、午後2時頃から予定されています、神田中央連合の駿河台下交差点での神輿振りも必見です。



錦連合(錦二神輿)

2009-05-10 12:52:04 | 平成21年 神田祭
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錦連合は「錦町二丁目町会、錦町三丁目町会 、錦町三丁目第一町会 、小川町三丁目南部町会」の4つの町会の連合となっています。

 「錦町」の名前の由来は、かつて、「一色 」という旗本屋敷が二軒あったことから、あわせて「二色 」または「二色小路」と呼ぶようになり、明治に入り「錦町 」と改められました。

 これらの町会は、明治以降、教育機関が立ち並ぶ文教の町として発展を続けました。

 かつては学習院大学、一橋大学の前身である高等商業学校がありました。また、「英吉利法律学校(現中央大学)」もこの地で開学しました。明治10年(1877)には、東京開成学校と東京医学校が合併し「東京大学」が創立されました。電機学校(現東京電機大学)は、昭和に入りこの町内に移ってきました。その他、「東京外国語大学 」や「学習院」、「共立女子大学」など多くの優秀な学校がひしめきあっています。

町会の該当地域は、錦町二丁目、錦町三丁目全域、小川町二丁目1・3・5番地となっています


 当町会の神輿は錦二と錦三の神輿を交互に使用していますが、今回はなんと、三十数年ぶりに両方の御輿で宮入します。すぐこの次に宮入する御輿にも是非ご注目ください。