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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

須田町北部町会

2009-05-10 14:39:24 | 平成21年 神田祭
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須田町北部町会は昭和8年に設立しました。
 
この辺りには、かつて、甲武鉄道(現中央線)の始発駅である、万世橋駅(現交通博物館)があり、東京で一番交通の便利な場所でした。
須田町交差点の雑踏ぶりは「親知らず子知らず」と称されるほどで、大正初年(1912)に、交通巡査が日本で初めて立ったのもこの須田町交差点であったと言われています。
 
また、須田町北部町会には出世稲荷神社という、誰もがあやかりたい名前を持つ神社があります。
創立の頃より、町内の鎮守神であったと言われています。
現在の社殿は昭和3年に完成したもので、毎年9月15日に祭祀を行っています。
 
町会の該当区域は須田町一丁目1・3・9~25番地までの奇数番地と、淡路町一丁目2・4番地、淡路町二丁目2~12までの偶数番地となっています。


当町会の神輿は、昭和16年に製作しました。
伝統を重ねてきた神輿同様、我々担ぎ手も強い気持ちで担ぎ続けます。



淡路町二丁目町会

2009-05-10 14:29:34 | 平成21年 神田祭
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江戸時代、この界隈は、武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。
永井信濃守の屋敷が松平伊豆守の屋敷となり、のちに若狭小浜藩酒井家の上屋敷となりました。

明治5年(1872)、ここに神田淡路町二丁目という名前が正式に付けられました。
町名の由来とされる淡路坂は、鈴木淡路守の屋敷があったためと言われています。
 
明治初期、現在の淡路公園の場所に、明治後期の日本を代表する知識人を輩出した共立学校(後の開成学園)が創設されました。ここでは正岡 子規や南方 熊楠などが学びました。
また町内には一時期、『たけくらべ』などで知られる女流作家で、歌人でもあった樋口 一葉も住んでいました。

淡路町は文化の町となり、その新進の気風は町並みにも表れていました。
大正末期から昭和初期にかけては、昌平橋近くに活動常設館(映画館)の名門である神田シネマパレスがあり、多くの人で賑わっていました。
 
町会の該当区域は淡路町二丁目1~29番地までの奇数番地となっています。


当町会の神輿は、昭和52年の宮本重義の手によるものです。
神田明神氏子町会のどこにも負けないような担ぎをします。
応援宜しくお願いします。




多町一丁目町会

2009-05-10 14:28:29 | 平成21年 神田祭
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多町一丁目は江戸時代には、神田堅大工町と呼ばれ、大工職・左官職・屋根屋等の職人が多く住む町であった、と言われています。
また江戸名物と言われた「纏屋治郎右衛門 」の店があり、江戸でただ一軒の纏屋でもありました。
町火消【まちびけし】しの旗印たる「纏」はいずれもこの店で作ったものであり、「いろは四十七組」はもとより、他の地方の分までも一手に手掛け、その名は広く知れ渡っていたと言われています。
 
町会の道路下には、東京都指定史跡【しせき】である「神田下水」が埋設されています。
この下水は明治17年に、一般市民の衛生や都市環境を改善する目的で、近代工学に基づいて建設された我が国初の近代下水道といわれています。その構造は現在の下水道管とは異なり、レンガで積まれ強固に築かれています。
 
町会の該当区域は内神田三丁目7・12~14・17・18・22・23番地となっています。


当町会の神輿は昭和27年、宮本 重義の作品です。大きさは2尺あり、白木造りとなっています。
明神下から大鳥居までの女性だけの巡行は必見です。熱気と興奮の宮入は当連合の四番をつとめます。



内神田鎌倉町会

2009-05-10 14:01:44 | 平成21年 神田祭
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天正18年(1590)に徳川家康は江戸城へ入り、「鎌倉町」の付近は江戸城の築城工事の際、資材の荷揚げ場となっていました。多くの材木石材が相模の国(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町が「鎌倉町」と名付けられたと言われています。

鎌倉町は400年以上の歴史がある江戸最古の町の一つです。

町内にある御宿稲荷神社は、小さいながらも江戸が都市化する以前から祀られている数少ない神社の一つです。

家康公がはじめて江戸に来たときに、一夜を明かした家の庭に祠があり、後に幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進されたため、世に御宿稲荷神社の大神と祀られるようになりました。

町会の該当区域は内神田一丁目一番5~9・12・14号、5~8番及び内神田二丁目1~7、内神田三丁目1~4となっています。


当町会の神輿は朱色の飾網が美しい、2尺5寸の大神輿です。
昭和38年に宮本 重義により作られました。
担ぎ手の緑色の半纏と神輿の鮮やかな対比をお楽しみ下さい。
綺麗な担ぎ方が当町会の自慢です。



司一町会

2009-05-10 13:45:59 | 平成21年 神田祭
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司一町会は、江戸時代には商人や職人の家が立ち並んでいた町でした。時代を経てもそれは変わりなく、呉服関係、印刷、製本などの職人たちが多く住む町でした。特に建築関係では、町内の職人だけで家が一軒建てることができた言われるほどです。また、商店も大きな店ではなく、生活に必要な八百屋や魚屋などが多く、人情味豊かな町でした。

明治に入ると、「三河町二丁目、皆川町、蝋燭町等」に再編されました。
さらに関東大震災後に4つの町が合併し「司町一丁目」が誕生しました。
 
司町の名前は神田神社の平田盛胤宮司の命名によるもので、「司」は「者の頭領なれば、未来永劫栄ゆること疑いなし」という意味を持つことから名付けられました。

昭和22年、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立したときに「神田司町一丁目」となり、さらに昭和41年に内神田一丁目と、内神田二丁目となり現在に至っています。
 
町名は「内神田」になりましたが、住民組織である町会では「司」の名前を引き継ぎ「司一町会」として存続しています。今ではオフィスビルが多くなりましたが、人情味豊かなとても楽しい町会です。
 
町会の該当区域は美土代町及び内神田一丁目9~11・16~18番地及び内神田二丁目10~12・15番地となっています。


当町会の神輿は、昭和31年、宮本重義の手により作られました。大きさは台輪寸法2尺2寸です。蕨手の所に、銀の龍をあしらった優美な神輿です。
担ぎ手からは「楽しく担げる神輿です」と言われるような、町会と同じように人情味溢れる神輿です。また、数年前には子ども神輿と山車を修復しました。特に山車は昭和9年の大祭に皇太子殿下ご生誕を記念して作られて以来の大修復となりました。