
末広町【すえひろちょう】は、明治2年(1869)に「神田平永町(かんだひらながちょう)・神田山本町(かんだやまもとちょう)・柳原岩井町(やないはらいわいちょう)・麹町平川町(こうじまちひらかわちょう)の代地」を合併し、設立しました。
末広町【すえひろちょう】と五軒町【ごけんちょう】(現在の末広町交差点付近)にあった辻番所【つじばんしょ】は御府内【ごふない】随一との評判でした。辻番と言えば、川柳【せんりゅう】に『辻番は生きた親父の捨て所』とあるように、大概【たいがい】、老人と決まっていました。しかし、この辻番所では番人を雇う際に、武芸【ぶげい】の心得のあるものを厳選して選考し、日々稽古を怠【おこた】る事がなかった、といわれています。事件があれば六尺棒【ろくしゃくぼう】で応戦し、逃亡者がいればその棒を投げて足に絡ませて倒していたそうです。
また、明治5年(1868)5月の薩長連合軍【さっちょうれんごうぐん】と彰義隊【しょうぎたい】との戦いの始まりは、この辻番所前【つじばんしょまえ】で開かれたものである、といわれています。
町会の該当区域は、外神田三丁目5~10番地、及び14~16番地となっています。
大正15年、神田名匠【めいしょう】、「だし鉄【てつ】」作の神輿です。大きさは2尺3寸です。屋根金梨【きんなし】造りで、神田神社氏子町会で現存する神輿の中では一番古い神輿です。