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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

外神田三丁目末広町会

2007-05-13 09:51:21 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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末広町【すえひろちょう】は、明治2年(1869)に「神田平永町(かんだひらながちょう)・神田山本町(かんだやまもとちょう)・柳原岩井町(やないはらいわいちょう)・麹町平川町(こうじまちひらかわちょう)の代地」を合併し、設立しました。

 末広町【すえひろちょう】と五軒町【ごけんちょう】(現在の末広町交差点付近)にあった辻番所【つじばんしょ】は御府内【ごふない】随一との評判でした。辻番と言えば、川柳【せんりゅう】に『辻番は生きた親父の捨て所』とあるように、大概【たいがい】、老人と決まっていました。しかし、この辻番所では番人を雇う際に、武芸【ぶげい】の心得のあるものを厳選して選考し、日々稽古を怠【おこた】る事がなかった、といわれています。事件があれば六尺棒【ろくしゃくぼう】で応戦し、逃亡者がいればその棒を投げて足に絡ませて倒していたそうです。

 また、明治5年(1868)5月の薩長連合軍【さっちょうれんごうぐん】と彰義隊【しょうぎたい】との戦いの始まりは、この辻番所前【つじばんしょまえ】で開かれたものである、といわれています。

 町会の該当区域は、外神田三丁目5~10番地、及び14~16番地となっています。


 大正15年、神田名匠【めいしょう】、「だし鉄【てつ】」作の神輿です。大きさは2尺3寸です。屋根金梨【きんなし】造りで、神田神社氏子町会で現存する神輿の中では一番古い神輿です。



外神田一丁目万世橋町会

2007-05-13 09:44:42 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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萬世橋の名前は、明治6年(1873)、昌平橋【しょうへいばし】よりもやや下流に架けられた「萬代橋【よろずよばし】 」に由来します。いつからかこの橋は「まんせいばし」と呼ばれるようになりました。

 江戸時代、この界隈【かいわい】は、下谷御成道【したやおなりみち】へ出る道筋にあり、人々の行き交う町でした。またここは神田川河岸【かんだがわ かし】で、年貢米【ねんぐまい】や野菜などを運び込む水運の拠点でもありました。江戸時代の地図にある「神田通船屋敷【かんだつうせんやしき】」は、幕府が手がけた見沼代用水【みぬまだいようすい】の難工事【なんこうじ】を成功させたことにより、時の将軍より用水路【ようすいろ】の通船【つうせん】を許可された高田家【たかだけ】の邸地【ていち】でした。神田におきましても由緒ある名家の一つです。

 当時、武家地【ぶけち】だった神田仲町【かんだなかちょう】と神田花房町【かんだはなぶさちょう】は、享保【きょうほう】年間(1716~1736)に町屋【まちや】となり、商人や職人が移り住むようになりました。また、神田花田町【かんだはなだちょう】は、明治2年(1869)、武家地だった花房町代地【はなぶさちょうだいち】と須田町代地【すだちょうだいち】をあわせ、両町から一字ずつ取ってできた町です。地元の萬世橋町会は、戦後その3つの町にまたがって成立した町です。昭和39年(1964)、これら3つの町は外神田一丁目【そとかんだいっちょうめ】に変わり、現在に至っています。

 町会の該当地域は、JR秋葉原電気街口周辺の、外神田一丁目1番地8~14号、2番地、4番地9~17号、10~17番地となっています。


当町会の御輿は、昭和35年、宮本重義【みやもと しげよし】の手によるものです。神田祭においても、比較的大きな神輿となっています。ご堪能ください。
総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。
神輿所は電気街口を出た駅前にあります。



外神田五丁目元佐久町会

2007-05-13 09:40:11 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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佐久町【もとさくちょう】も栄町【さかえちょう】と同じように小笠原藩邸【おがさわらはんてい】でした。明治3年に秋葉原の火除け地【ひよけち】となる際に、神田佐久間町一丁目【かんださくまちょういっちょうめ】及び神田柳屋敷【かんだやなぎやしき】の代地として小笠原家屋敷跡【おがさわらけ やしきあと】に移転してきました。

 この時に、神田元佐久間町【かんだもとさくまちょう】の町名が生まれました。「元【もと】」という名前は、新たに生まれたこの町を神田佐久間町【かんださくまちょう】と区別するために付けられました。

 明治44年(1911)に、元佐久間町【もとさくまちょう】と改称【かいしょう】されましたが、昭和22年、千代田区ができたときに、町名は再び神田元佐久間町【かんだもとさくまちょう】となりました。

 町会の該当区域は、外神田五丁目2・5番地となっています。


 当町会の神輿は昭和5年に宮惣【みやそう】の手により生まれたものです。歴史ある神輿とともに、宮入れを行います。



外神田五丁目栄町会

2007-05-13 09:38:05 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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外神田五丁目栄町【そとかんだ5ちょうめ さかえちょう】はかつて、神田栄町【かんださかえちょう】と呼ばれ、江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいた地域でした。

 この界隈【かいわい】が大きく様相を変えたのは明治維新後のことです。明治2年(1869)12月、神田相生町【かんだあいおいちょう】から出た火事によって、現在の外神田【そとかんだ】周辺は焼け野原となってしまいました。そこで明治新政府は、神田竹町【かんだたけちょう】 、神田平河町【かんだひらかわちょう】 、神田松永町【かんだまつながちょう】などに、防火のための空き地(火除地【ひよけち】)を設置し、鎮火神社【ちんかじんじゃ】(秋葉神社【あきばじんじゃ】)を建立【こんりゅう】しました。それらの町に住んでいた人たちがこの界隈に移転させられ、神田栄町【かんださかえちょう】となりました。「栄【さかえ】」という名前は、新たに繁栄するように、との願いから付けられました。

 明治44年(1911)、町名は神田を取り、栄町【さかえちょう】と改称【かいしょう】しますが、昭和22年に、神田区と麹町【こうじまち】区が合併して千代田区が成立した際、ふたたび神田栄町【かんださかえちょう】となりました。そして昭和39年、住居表示の実施で神田亀住町【かんだかめずみちょう】や神田元佐久間町【かんだもとさくまちょう】とともに、現在の外神田五丁目【そとかんだごちょうめ】となりました。

 町会の該当区域は、外神田五丁目1・6番地となっています。


 当町会の神輿は昭和54年製作のものです。皆様の心に強く迫る宮入りをします。
ご声援お願いします。



宮本町会

2007-05-13 09:33:14 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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宮本町【みやもとちょう】は、明治2年(1869)に神田明神門前町【かんだみょうじんもんぜんちょう】となったのち、明治5年(1872)には境内【けいだい】などの社地【しゃち】を編入して、神田宮本町【かんだみやもとちょう】となりました。江戸総鎮守【そうちんしゅ】のお膝元【ひざもと】で生活することを誇りとする住民の心意気が形になった名前です。

 宮本町には昔日「開花楼【かいかろう】」がありました。ここは、海抜40メートルの高台に建っており、見晴らしの良さと江戸前の料理が好まれ、通人【つうじん】、粋人【すいじん】が集う場所として知られ、東京名所図会【とうきょうめいしょずかい】など、多くの書物に残されています。また、単に料理屋として著明であるばかりではなく、書画店【しょがてん】や古書市【こしょいち】、見本市【みほんいち】等、当時としては貴重な文化事業が再三開催されました。さらには、東京帝大【とうきょうていだい】(現在の東大)、東京商学校【とうきょうしょうがっこう】(現在の一橋大学)、明治法律学校(現在の明治大学)等の学舎【がくしゃ】が近いことから教授陣及び学生達の会合場所として利用されていました。また、ここの大広間で、文豪【ぶんごう】の島崎 藤村【しまざき とうそん】の結婚式が行われました。

 また、「開花楼【かいかろう】」では『ヘナチョコ』という言葉が生まれました。この言葉の由来は、創業者の坂本【さかもと】氏が、明神下の崖下から、何を思ったか「ヘナ土【つち】」を持帰り、酒猪口【さけちょこ】を作り、宴席で披露しました。しかし、不思議なことに、その猪口【ちょこ】に注いだ酒がいつの間にか消えていました。なぜならば、素材がヘナ土なので、素焼き同様、酒がしみ出てしまうからです。それを見た一同は大喜びで、ヘナ土の猪口だから『ヘナチョコ』と命名されたと言われています。以来、開花楼のヘナチョコは通人【つうじん】に知られ、用の足さないものを評して「ヘナチョコ野郎」「ヘナチョコ文化」と言うようになりました。

 町会の該当区域は、外神田二丁目16~19番地、7番1号・4号の一部となっています。

 当町会の神輿は、昭和35年、宮惣【みやそう】の製作によるものです。迫力があり、力強い当町会の神輿にご注目下さい。