
宮本町【みやもとちょう】は、明治2年(1869)に神田明神門前町【かんだみょうじんもんぜんちょう】となったのち、明治5年(1872)には境内【けいだい】などの社地【しゃち】を編入して、神田宮本町【かんだみやもとちょう】となりました。江戸総鎮守【そうちんしゅ】のお膝元【ひざもと】で生活することを誇りとする住民の心意気が形になった名前です。
宮本町には昔日「開花楼【かいかろう】」がありました。ここは、海抜40メートルの高台に建っており、見晴らしの良さと江戸前の料理が好まれ、通人【つうじん】、粋人【すいじん】が集う場所として知られ、東京名所図会【とうきょうめいしょずかい】など、多くの書物に残されています。また、単に料理屋として著明であるばかりではなく、書画店【しょがてん】や古書市【こしょいち】、見本市【みほんいち】等、当時としては貴重な文化事業が再三開催されました。さらには、東京帝大【とうきょうていだい】(現在の東大)、東京商学校【とうきょうしょうがっこう】(現在の一橋大学)、明治法律学校(現在の明治大学)等の学舎【がくしゃ】が近いことから教授陣及び学生達の会合場所として利用されていました。また、ここの大広間で、文豪【ぶんごう】の島崎 藤村【しまざき とうそん】の結婚式が行われました。
また、「開花楼【かいかろう】」では『ヘナチョコ』という言葉が生まれました。この言葉の由来は、創業者の坂本【さかもと】氏が、明神下の崖下から、何を思ったか「ヘナ土【つち】」を持帰り、酒猪口【さけちょこ】を作り、宴席で披露しました。しかし、不思議なことに、その猪口【ちょこ】に注いだ酒がいつの間にか消えていました。なぜならば、素材がヘナ土なので、素焼き同様、酒がしみ出てしまうからです。それを見た一同は大喜びで、ヘナ土の猪口だから『ヘナチョコ』と命名されたと言われています。以来、開花楼のヘナチョコは通人【つうじん】に知られ、用の足さないものを評して「ヘナチョコ野郎」「ヘナチョコ文化」と言うようになりました。
町会の該当区域は、外神田二丁目16~19番地、7番1号・4号の一部となっています。
当町会の神輿は、昭和35年、宮惣【みやそう】の製作によるものです。迫力があり、力強い当町会の神輿にご注目下さい。