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朝の光(聖書の言葉)

第1問 「瓦を磨く」 無門関から 

第1問 「瓦を磨く」 無門関から



馬祖道一(ばそどういつ)は毎日座禅ばかりしていた。

そこへ師匠である南嶽懐譲(なんがくえじょう)がきていった。

「何のために座禅をしているのだ」

「仏になるためです」

すると南嶽は,落ちていた瓦を拾って磨き始めた。

「師よ,何をなさっているのですか?」

「瓦を磨いて,鏡にしようとしておる」

「瓦を磨いても,鏡になるわけないではありませんか」

「ならば聞くが,座禅をして仏になるのか?」

「同じことなのですか?」

「牛車が動かなくなったとき,おまえは牛を打つのか,車を打つのか」

-宗門葛藤集-



  ○



「人が義と認められるのは,律法の行ないによるのではなく,

信仰によるというのが,私たちの考えです。」

(ローマ3:28)


禅の公案と聖書の言葉の比較をしました。

わたしの提案は,この言葉しかないというのと,

内容が対応するのではないかという程度の比較のものもあります。

今後の研究課題です。

聖書に興味を持ちを,読む助けになればと思います。



「信仰によって追い求めることをしないで,

行ないによるかのように追い求めたからです。

彼らは,つまずきの石につまずいたのです。」

(ローマ9:32)



この公案は,救われるためには,業が必要かということに読み代えました。

救いを,義認(神に良しと認められる)に限るなら,

業は必要でないというのが,パウロの信仰の中心です。

それだけでなく,業によって救いを得ようとするなら,大きな過ちであるとします。

これが救いの,基本です。


ルターの強調した,救いは「信仰のみ」によるということです。

プロテスタントでは,救いに信仰プラス業が必要と言ったとき,異端とみなしています。



「人は律法の行ないによっては義と認められず,

ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる,

ということを知ったからこそ,

私たちもキリスト・イエスを信じたのです。

これは,律法の行ないによってではなく,

キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。

なぜなら,律法の行ないによって義と認められる者は,

ひとりもいないからです。」

(ガラテヤ2:16)

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