




戦後の混乱期昭和22年に北海道道東釧路にある炭鉱のハーモニカ長屋で6人兄妹の3番目として生まれました。
当時はまだ炭鉱独特の友子制度(互助会のようなもの)が残っていて親分子分の杯を交わす儀式がまだあった時代です。
長屋は隣の家とはベニヤ板一枚で隣の話し声が聞こえる位で、冬は布団が吐く息で真っ白くなるような、バラック長屋でした。
小さい頃の忘れられない大きな思い出に十勝沖地震があります。学校の集合煙突が倒壊したり、ボタ山が崩れて多くの人が亡くなったことと、兄たちも小さかったのですが暖房に使う石炭を拾いにソリを引いて行っていたのが地震に遭遇し泣きながら帰ってきました。
私も幼稚園に入園する前で当時は5円店と言って子供相手の駄菓子屋の柱につかまって泣いていたところ父親がフンドシ姿で迎えに来てくれたことが思い出されます。
小学校時代は炭住に住む子供達は皆そうでしたが、チリ紙で鼻をかむといったこともなくいつも洋服の袖で鼻をこするためいつもピカピカに光っていました。
遊びは何でも作って遊びました
竹馬・・・・・とは言っても竹がないので木の棒で作っていました。
ガッパ・・・・缶に紐を通して上に乗る
リング・・・・自転車のタイヤを外して針金で作った棒で押してリングを転がす
竹鉄砲・・・・ほうきの柄を利用してボーガンのようにして木の実を先につけて飛ばす
カンテラ・・・缶の中間に釘を刺してロウソクを立てて懐中電灯の代わり
釘差し・・・・5寸釘を順番に地面に刺して刺した通りに線を引き蜘蛛の巣状に広げて行く
パッチ・・・・メンコとも言う遊びでバッファリと言って思いっきり地面にパッチを叩き付けて
風の力で相手のパッチをひっくり返して勝ち!
土台の上に置いたパッチを土台の外に飛ばして勝ち
カッピン遊び・瓶の蓋を指で飛ばし(ビリヤードのような遊び)当たったら相手のものを取る
竹とんぼ・・・これも竹箒の柄を利用してナイフで切って作りました
そのほかにも沢山あったような気がします、少し忘れたのかな?

炭鉱に勤めて20年ほど経過した頃、人間ドックでHB抗原ウイルスに感染していると診断されました。
子供の頃の予防接種か、小学校で集団でツベルクリン反応検査の際には同じ注射器の使い回しや消毒の不十分で感染したか?
その後、肝炎の抗体を作る為インターフェロンを打つが抗体が出来ず徐々に肝臓の機能が悪化しいつも疲れた状態で週に一度のサイクルで点滴を受けていたが、肝硬変に移行し肝臓を経由して流れる血液が肝臓を経由出来なくなり食道のそばを通る血管が食道内で破裂して大量出血による下血で意識を失う。
緊急入院し食道の静脈瘤を固める治療が始まりました。
意識がある中で食道内に注射して硬化させるので、痛さでかなり辛いものがありました。
その後、総合病院へ転院し肝臓に3cmのガンが2個出来ているのが発見され、足の付け根より静脈にカテーテルを挿入し肝臓に抗ガン剤の注入治療を受けました。
しかし肝硬変は進行しこのままでは余命2年の宣告を受けました。生きる為には肝臓移植しか助かる方法がないとの事で家族と話し合い、息子が自分の肝臓を移植しても良いと申し出てくれて息子がドナーとなり肝臓を移植する決断をしました。
北海道大学病院で再度診察を受けると、肝硬変が進行し1年の生存率が25%とあまり時間がないことがわかり早急に生体肝移植を受けることになりました。
いよいよ、手術当日家族、兄弟、親戚に励まされ手術に臨みました。ドナーの息子が8時15分に先に手術室に行き、9時30分にお腹を切り移植の準備が出来た状態で、次に私が10時に手術室に行き、麻酔を受けて気がついたのは翌日14日の夕方ICUのベットでした。手術が終わったのは14日の朝5時30分頃だそうです、手術中は妻や妹達が時々報告される手術の進行状態をハラハラしながら見守っていてくれました。
麻酔が覚めて最初に逢ったのは妻と娘でしたが、何故か涙が止まらなかった。
息子も翌日には傷が痛むのを無理して私の所まで逢いに来てくれましたが、ドナーの肝臓の2/3を私に移植した為、顔は黄疸が出て真っ黄色になっていました。
手術後水分が取れない為、唇が乾ききって喉はカラカラで看護婦さんに脱脂綿に水分に含ませて唇に付けて貰った時に思わずその脱脂綿に噛みついた程です。
ICUを16日に出て一般病棟の一人部屋に移ることが出来ました。
病室では長いこと寝ていたせいか腰と背中が痛み何度も冷やしたり暖めたりさすって貰ったりしたが一晩中激痛のため寝ることが出来ず当直の看護師さんは大変だったと思います。
移植後は肝臓を斜めに出来ない為30度以上体を横にしたり起きあがることも出来ませんでした。
翌日に主治医の許可を得て看護師さんの力を借りて起きあがる事が出来てから背中の痛みも随分楽になりましたが、鏡で背中を見せて貰うと背中一面に内出血で真っ黒になっていました。
手術後4日目から歩行訓練と肺機能を高める為ラッパのようなものを吹く練習です。
術後体内から出血した血液を抜くためのドレーンの袋やチューブを点滴を体中に一杯ぶら下げて歩く姿は異様でした。
病室に来てから数日間は幻聴と幻覚に悩まされました。長い時間麻酔で寝ていたからなのか分かりませんが、不思議な経験でした。
又、ドナーの息子の肝臓が一般の人の1.5倍もあり1kg近く移植したので、免疫力を下げる為通常の10倍と多量の薬の飲むことになり、その為なのか頭痛がひどく座薬や痛め止めの薬も効かず強い鎮静剤をして貰いましたが、せいぜい効くのは1~2時間でした。
薬の副作用で味覚障害がおき何を食べても砂を噛むような味で、食事は殆ど手を付けれず、改善するまで一月ほど掛かりましたが。
今は何でも美味しく食べることが出来ます
移植手術を受ける為には、一定期間手術後も毎週北大病院へ通院しなければなりません。北大病院の近くにアパートを借りて妻と娘と孫が付き添いの為来てくれていました。
入院中は、一人でいると何かと憂鬱になるところですが、毎日一歳半になる孫がお見舞いに来てくれましたが感染予防の為、部屋には入れませんので、部屋の入り口のカーテンの下からヒョッコリ顔を覗かせて
「爺ちゃんこんにちわ」と言ってくれることが何よりの喜びで、孫は親と一緒に札幌にいた1ヶ月半の間毎日病院まで通って来てくれました。
お陰で入院中の憂鬱から大分救われました。
家族は慣れない札幌での生活で体調を崩したりで大変だったと思います。


写真は北大構内の銀杏並木
妻と散策に良く行きました・・・綺麗ですよ
移植術後46日に退院することが出来ました、退院後は毎週1回、診察と点滴に通院しましたが、後は妻と二人でアパートでテレビを見たりして過ごしていましたが、友人知人が札幌には居ず、長年釧路から離れたことがない夫婦にとって、札幌での生活は苦痛でしたが、自転車を買って妻と二人で北大構内やらアパート周辺の散策や買い物に行くようになってからは気分転換が出来るようになりました。
病院の通院の間隔も広がってきたので12月の末に釧路に帰って来ることが出来ました。
今は4週間隔で釧路から北大病院へ通院しており、体調もすっかり良くなりアルバイトの仕事も出来るようなるまでに回復しております。
当時この手術は保険の適用がありませんでした、(現在は病気の内容により保険適用になる)高額医療の補填もなく全て自己負担のため入院手術費用、札幌での生活資金などで多額の資金が必要でしたが、兄弟、親戚、友人等多くの人に支援され生体肝移植を受けたおかげで今生きてる自分がいると感謝しております。

写真は術後3年を経過して私と息子の肝臓をCTで撮したもので私と息子の肝臓の写真を並べて丁度一個の肝臓の形になります。(左私 右息子)
ちなみに体積は昔の容量になっているそうで、肝臓の形状が同じに戻る人もいるそうです。