「アビリット」(安定剤)を毎日飲み始めてからも、
体調は、良い日があったり悪い日があったり、波があり、
飲み続けて、どんどん良くなる、という実感が得られないのが、辛いところでした。
「明日は、気分のいい一日になりますように」と、毎夜祈りながら眠りにつきました。
比較的、普通に近い精神を保って過ごせる日もあれば、
朝から、辛くて辛くてたまらず、どうしてよいか分からず、
耳をふさいで思わず叫びたくなるような感情を、辛うじて押さえ続けながら過ごす日もありました。
T病院で、特別に話を聞いてくれた看護師さんのAさんが、
「私も、産後おかしくなったことがある。毎日綱渡りのような感じよね。」と仰いましたが、
その「毎日綱渡り」という表現が、まさに、そのとおりで、なんと上手い表現だろうと思ったものでした。
この気が狂いそうな「つらさ」と、常に発熱しているかのような倦怠感、動悸やほてり以上に、
最も辛かったのが「わが子恐怖症」(←私が勝手にネーミング)でした。
よく、産後うつについて調べると、症状のひとつに「赤ちゃんをかわいいと思えない」などと書いてありますが、
私の場合は、そんな生易しいものではありませんでした。
授乳時だけだった動悸は、「娘が泣き出すたび」になり、「娘を見るたび」になり、「娘のことを思うたび」になりました。
娘の姿が目に入ると、心臓が跳ね上がって、汗が滲み出すようになりました。
今となっては、どういう思考回路でそうなってしまうのか、不思議としかいいようがありませんが、
その時は、とにかく娘が怖くて怖くてしかたありませんでした。
朝起きると、娘と一緒に寝てくれていた夫が少し前に起きていて、
オルゴールメリーを付けている、その音楽を聞くと、もう心臓がドキドキして気分が悪くなりました。
いやおうなく「娘がいる」現実をつきつけられている、という感じでした。
メリーを付けているということは、もう娘は目が覚めているのか、どうしよう、と身構えてしまう。
夫だけが起きていて、娘がまだ眠っている朝は、若干ほっとしました。
夫が、眠ったままの娘を食卓の側に連れて来ようとすると、私はむしょうに怖くなり、
「こっちに連れて来ないで。眠っている時はなるべく眠ったままにしておいて。」と懇願しました。
夫は、そんな私と娘を心配しながら出勤していく、という感じでした。
毎日、実家の母や姑が、私の様子を心配して頻繁に来てくれていましたが、
仕事や用事で来れないで、私と娘の二人きりで居る時は、私は、娘を避けるように過ごしていました。
ミルクとオムツを替える以外は、娘を見ないようにしていました。
いつか児童虐待を報じた新聞記事で、
子どもを衣装ケースに入れてマンションのベランダに出していた、というものがあったのを思い出していました。
それを読んだ時は、なんとひどいことを、と思いましたが、
私が今やっていることは、結局おなじ「育児放棄、ネグレクト」ではないか、と思い、落ち込みました。
マンションの部屋とベランダ、1階の娘の居る部屋と2階の私が逃げている部屋、その違いだけ。
どうにかこうにか、必要最低限のミルクとオムツ替えを、恐怖と戦いながらやっているだけのこと。
もし、夫や母や姑が居なくて、私がシングルマザーだったら、この家でなくてマンションの1室だったら、
そう思うと、真っ暗な気持ちになりました。
実際、何度も「子どもを産んだという事実は消せない。」「今後一生、この子が居る。」
「出産前の状況には戻れない。」「この状況を変えるには、私が死ぬかこの子が死ぬかしかない。」
などというようなことを、ぐるぐるぐるぐる、頭の中で考えていました。
自殺しようとはしませんでしたが、何度も、自分の葬儀の場面を妄想しました。
なんで、こんなに自分の子どもが怖いのか。
普通、産後うつで、こんな、子どもが怖いなんていう状況になるのだろうか。
私は、人と違って、特別に「母」に向いていない性格なのかもしれない。
そういえば、昔から「お母さんごっこ」なんて興味なかった、年下の子の面倒見もよくなかった。
身体が勝手に拒絶反応をしているのかもしれない。
そしたら、もう一生治らないで、この子が居る限り、ずっとこの苦しい身体と精神のままかもしれない。
でも、この子と離れて暮らすことはできない。
どうやったら、怖いと思わずにこの子の世話ができるのか、
ペットだと割り切ってみようか、ミルクとオムツ替えを機械的にこなすだけ、とひらきなおればいいのか、
そんなことまで考えました。
母親なら、なにも考えないで無条件に我が子を愛せるものなのに、私はなぜ、
これは、産後うつじゃない、適応障害みたいなものなのかもしれない、
そんなことばっかり毎日毎日、真剣に悩みました。
実家にいるとき、時折、眺めていた「育児百科」を見るのをやめました。
この子が、3ヶ月になったら、6ヶ月になったら、などと、先を想像するのが物凄く怖くなっていました。
離乳食なんて作れる自信がない。その時になったら、一体どうしよう。
チャイルドシートに赤ちゃんを乗せて、スーパーに行って、ベビーカーに乗せて買い物するとか、
普通のお母さんたちがやっていることが、離れワザのように思えていました。
しまいには、町内を歩く幼稚園児や小学生を見ただけで、動悸と吐き気がするようになっていました。
「この子がこれからだんだん大きくなっていくと思うと、たまらなく怖い。」
ある日、母にそう打ち明けると、母は呆れた顔で、
「大きくならずにどうするのよ。だいたい今のこともろくにできないのに、なんでそんな先のことを考えるの。」
と言いました。
その言葉に、私は、救われました。
そうだ、先のことを考えるのは、一切やめよう。「今日だけ」のことを考えて過ごそう。
この思考で、私は、自殺せずに済んだといえます。
とにかく「今日だけ」しか考えない。先のことを考えたら果てしなく絶望してしまうので。
だから、ある日の診察日、看護師さんのAさんが
「もうすぐ娘さんも微笑み返したり、声を出して反応したり、するようになりますよ。」と言ってくれた時、
私は、慌てて「先のことは一切考えないようにしてるんです。」と、Aさんの言葉をさえぎりました。
必死でした。
体調は、良い日があったり悪い日があったり、波があり、
飲み続けて、どんどん良くなる、という実感が得られないのが、辛いところでした。
「明日は、気分のいい一日になりますように」と、毎夜祈りながら眠りにつきました。
比較的、普通に近い精神を保って過ごせる日もあれば、
朝から、辛くて辛くてたまらず、どうしてよいか分からず、
耳をふさいで思わず叫びたくなるような感情を、辛うじて押さえ続けながら過ごす日もありました。
T病院で、特別に話を聞いてくれた看護師さんのAさんが、
「私も、産後おかしくなったことがある。毎日綱渡りのような感じよね。」と仰いましたが、
その「毎日綱渡り」という表現が、まさに、そのとおりで、なんと上手い表現だろうと思ったものでした。
この気が狂いそうな「つらさ」と、常に発熱しているかのような倦怠感、動悸やほてり以上に、
最も辛かったのが「わが子恐怖症」(←私が勝手にネーミング)でした。
よく、産後うつについて調べると、症状のひとつに「赤ちゃんをかわいいと思えない」などと書いてありますが、
私の場合は、そんな生易しいものではありませんでした。
授乳時だけだった動悸は、「娘が泣き出すたび」になり、「娘を見るたび」になり、「娘のことを思うたび」になりました。
娘の姿が目に入ると、心臓が跳ね上がって、汗が滲み出すようになりました。
今となっては、どういう思考回路でそうなってしまうのか、不思議としかいいようがありませんが、
その時は、とにかく娘が怖くて怖くてしかたありませんでした。
朝起きると、娘と一緒に寝てくれていた夫が少し前に起きていて、
オルゴールメリーを付けている、その音楽を聞くと、もう心臓がドキドキして気分が悪くなりました。
いやおうなく「娘がいる」現実をつきつけられている、という感じでした。
メリーを付けているということは、もう娘は目が覚めているのか、どうしよう、と身構えてしまう。
夫だけが起きていて、娘がまだ眠っている朝は、若干ほっとしました。
夫が、眠ったままの娘を食卓の側に連れて来ようとすると、私はむしょうに怖くなり、
「こっちに連れて来ないで。眠っている時はなるべく眠ったままにしておいて。」と懇願しました。
夫は、そんな私と娘を心配しながら出勤していく、という感じでした。
毎日、実家の母や姑が、私の様子を心配して頻繁に来てくれていましたが、
仕事や用事で来れないで、私と娘の二人きりで居る時は、私は、娘を避けるように過ごしていました。
ミルクとオムツを替える以外は、娘を見ないようにしていました。
いつか児童虐待を報じた新聞記事で、
子どもを衣装ケースに入れてマンションのベランダに出していた、というものがあったのを思い出していました。
それを読んだ時は、なんとひどいことを、と思いましたが、
私が今やっていることは、結局おなじ「育児放棄、ネグレクト」ではないか、と思い、落ち込みました。
マンションの部屋とベランダ、1階の娘の居る部屋と2階の私が逃げている部屋、その違いだけ。
どうにかこうにか、必要最低限のミルクとオムツ替えを、恐怖と戦いながらやっているだけのこと。
もし、夫や母や姑が居なくて、私がシングルマザーだったら、この家でなくてマンションの1室だったら、
そう思うと、真っ暗な気持ちになりました。
実際、何度も「子どもを産んだという事実は消せない。」「今後一生、この子が居る。」
「出産前の状況には戻れない。」「この状況を変えるには、私が死ぬかこの子が死ぬかしかない。」
などというようなことを、ぐるぐるぐるぐる、頭の中で考えていました。
自殺しようとはしませんでしたが、何度も、自分の葬儀の場面を妄想しました。
なんで、こんなに自分の子どもが怖いのか。
普通、産後うつで、こんな、子どもが怖いなんていう状況になるのだろうか。
私は、人と違って、特別に「母」に向いていない性格なのかもしれない。
そういえば、昔から「お母さんごっこ」なんて興味なかった、年下の子の面倒見もよくなかった。
身体が勝手に拒絶反応をしているのかもしれない。
そしたら、もう一生治らないで、この子が居る限り、ずっとこの苦しい身体と精神のままかもしれない。
でも、この子と離れて暮らすことはできない。
どうやったら、怖いと思わずにこの子の世話ができるのか、
ペットだと割り切ってみようか、ミルクとオムツ替えを機械的にこなすだけ、とひらきなおればいいのか、
そんなことまで考えました。
母親なら、なにも考えないで無条件に我が子を愛せるものなのに、私はなぜ、
これは、産後うつじゃない、適応障害みたいなものなのかもしれない、
そんなことばっかり毎日毎日、真剣に悩みました。
実家にいるとき、時折、眺めていた「育児百科」を見るのをやめました。
この子が、3ヶ月になったら、6ヶ月になったら、などと、先を想像するのが物凄く怖くなっていました。
離乳食なんて作れる自信がない。その時になったら、一体どうしよう。
チャイルドシートに赤ちゃんを乗せて、スーパーに行って、ベビーカーに乗せて買い物するとか、
普通のお母さんたちがやっていることが、離れワザのように思えていました。
しまいには、町内を歩く幼稚園児や小学生を見ただけで、動悸と吐き気がするようになっていました。
「この子がこれからだんだん大きくなっていくと思うと、たまらなく怖い。」
ある日、母にそう打ち明けると、母は呆れた顔で、
「大きくならずにどうするのよ。だいたい今のこともろくにできないのに、なんでそんな先のことを考えるの。」
と言いました。
その言葉に、私は、救われました。
そうだ、先のことを考えるのは、一切やめよう。「今日だけ」のことを考えて過ごそう。
この思考で、私は、自殺せずに済んだといえます。
とにかく「今日だけ」しか考えない。先のことを考えたら果てしなく絶望してしまうので。
だから、ある日の診察日、看護師さんのAさんが
「もうすぐ娘さんも微笑み返したり、声を出して反応したり、するようになりますよ。」と言ってくれた時、
私は、慌てて「先のことは一切考えないようにしてるんです。」と、Aさんの言葉をさえぎりました。
必死でした。