隠れ家-かけらの世界-

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私たちの愚かでかわいい悪あがき?~映画『列車に乗った男』より~

2008年01月05日 15時40分12秒 | 映画レビュー
■『列車に乗った男』 (2004年作品)

  ○監  督  パトリス・ルコント
  ○出  演  ジャン・ロシュフォール/ジョニー・アリディー


★今の自分とまったく違う自分だったら
 大人は誰でも(たぶん)、まったく違う生き方を選んだ自分を想像することがある。自分が選んだ道を悔いているか、それに満足しているか、それによってもその想像は趣が違ってくるだろうし、受け取り方も異なってくるかもしれない。それでもどちらにしても、想像することはあるだろう。今の自分とまったく違う自分だったら…、と。
 この映画は、そういう人の心理を、ありふれているはずの気持ちの流れを、抑えた調子で、でもステキなドラマの匂いを漂わせて描いている。
 定年退職して古い館に住む元フランス語教師は、道をはずすことなく、定められた人生を平穏に生きてきた。饒舌に過去を語りながら、もっと無軌道に女性との浮き名を流しながらゆらゆらと生きてきたならば、と思いを巡らせる。自分には不可能だと思いながら、そういう人生を空想して思いをふくらませる。
 一方の中年の男は銀行強盗を仲間と画策して、元教師のいるさびれた街にやってきたようなやつだが、実は落ち着いた穏やかな生活に憧れを抱いている。偶然出会ってその屋敷に泊まることになった夜、「スリッパを貸してほしい」と申し出るところに、その思いが集約されている。室内履きを履くような、そんな暮らしは彼の今までの人生にはなかったのだろう。


★会話の中に浮かび上がる人生
 会話がいい。というより、会話しかない、と言うべきだろう。
 特に何かが起こるわけではないのだから、二人の会話からしか、それぞれの過去や人生観や人となりはわからない。
 自らの過去をダラダラと話すわけでもないのに、小さなエピソードや相手への問いかけなどから、二人の人生が浮かび上がってくる。
 饒舌な元教師の言葉にちりばめられたアイロニーや比喩も味わいがあるけれど、寡黙でぶっきらぼうな流れ者の短い言葉にも人生が隠れている。
 そうやって、3日間の短い共同生活のなかで、二人の人生が確かに交差する。それがちょっとも不自然じゃなく、無理なくこちらに入ってくるところがすごい。会話だけなのに。
 なんでも2つそろえて用意している計画性のある元教師の日常。それを彼は普通のことのように語るけれど、流れ者の耳には新鮮に届く。そしてパンを買いに行った彼が2本のバゲットを持ち帰り、「なぜ2本?」と尋ねた元教師に、「計画性」という単語を使って答えるシーンがいい。


★最期のあとに
 元教師の心臓の手術の日と、流れ者の銀行襲撃の日。
 それがこの映画のラストであり、二人の男の最期の日。
 命を落とした男たちの脳裏に浮かぶ光景。
 刑務所の外ですれ違う男二人。元教師の投げる屋敷のカギを受け取る流れ者の男。
 列車に乗って旅に出る元教師、屋敷の居間でピアノを弾く流れ者の男。
 自分がたどらなかった人生をどんな形にせよ手に入れて、男たちの最後の人生が輝き始める錯覚と満足。
 悲しいけれど切ないけれど、どこからかかすかに聞こえてくる「人生賛歌」のつぶやき…。そんな味わいのあるラストシーン。



 二人の役者が最高です。
 元教師のジャン・ロシュフォール、流れ者のジョニー・アリディー。
 原題は、『L' HOMME DU TRAIN』。文字どおり「列車に乗った男」だ。この映画は、流れ者の男が「列車に乗って」街に来るところで始まり、元教師が「列車に乗って」街を出るところで終わる。
 でもL' HOMMEは単数形だし、私の勝手な解釈としては、「列車に乗った男」であり、「居間でピアノを弾く男」ということなんだろうな。私たちの中に潜むあきらめと無限の憧れ…。愚かだけれど限りなくいとしい悪あがき…。

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