真島昌利 『夏のぬけがら』(1989年)
★私の感性バロメーター
この前、『音楽と人』の10月号でクロマニヨンズの甲本ヒロトのステキなインタビューを読んで、久しぶりに真島昌利のソロアルバム 『夏のぬけがら』 を聴きたくなった、と書いたんだけど…(ココです)。聴きました。
仕事帰りのホームで電車を待ちながらイヤホンを耳にいて、そして流れてきた 「夏が来て僕等」。
昔、初めて聴いたとき、私はこの曲を自分の 「感性バロメーター」 にしようと思った。
生きていればいろんなことがあるだろう。忙しくて、音楽なんて聴く余裕をなくすこともあるだろう。音楽が重い疲れを忘れさせてくれるなんて、そんな絵空事を信じる気にはなれなかったし。だから、そういうときは音楽なんて縁のない暮らしをするんだろうなあ、って。
それでも、もしどこからかこの 「夏が来て僕等」 が聞こえてきて、それで心が震えたなら、ちょっとだけでも震えたら、ああ、私はまだ大丈夫、そう自分に言ってやろう…。
そんなふうに決めたんだ。
★「終わりなき午後の冒険者」
流れるようなギターが聞こえてきて、そしてちょっとしゃがれたマーシーの声が歌う。
誰もがたぶん心の中に大事にしていて、忘れているときのほうが多いけれど、でも何かの拍子に蘇ってくる夏の風景。自分のまわりに広がる世界だけで十分満足できて、あふれる光や太陽や青空をきれいだとは思いながら、でもことさらに貴重なものだなんて知らなかった頃。 マーシーの声は、そういう景色の中に 「私」 もいたことを思い出させてくれる。
この歌には、夏の友達がたくさん詰まっている。「アイスクリーム」「花火」「夏草」「高校野球」「宿題」…。「高校野球なんか見ないで」、「宿題は机で待ってる」んだけどね。「給水塔」などどいう無味乾燥なはずの単語さえ、ここではなぜかせつない。
そういうものが鮮やかなメロディーに乗って、大げさではなく、でもありふれていない風景や匂いや声を生き返らせてくれる。
「終わりなき午後の冒険者」(このフレーズがいい!)たちは、「誰もが秘密をもつ汗ばんだ季節」を通って、「成長のドアを足で開けた」。
珠玉の言葉たちが澄んだメロディーに守られて、乾いた風を吹かせる。せつないけど甘くはなく、柔らかだけどヒリヒリする…。癒されるどころか悲しみに追い込まれるような、そういう凄絶な大人の歌だと思う。
★捨て曲無し?
ずっとあとになって、スピッツの草野マサムネ (ブルーハーツフリークで有名) がこのアルバムについて「捨て曲無し」と書いているのをみたことがある。
「捨て曲」 というのがどういうものかはよくわからないけれど、でもこのアルバムには、「夏が来て僕等」以外にも、語れる曲ばかりなのは確かだ。
「風のオートバイ」 はピアノをバックに、マーシーのしゃがれ声が美しい。「ぎりぎりのキッスをしよう」を想像したりした。冷たい雨に打たれて、夢が破れても 「終わらない旅」 を見せてくれる。
「花小金井のブレイクタウン」 は、飾らない言葉の行列で、懐かしい街を歌う。寂しくて、やりきれないくて、でもマーシーの優しさがあふれている。「夏がうずくまっていた」「春は酔っぱらってた」 を歌うマーシーの声は泣いているようだ。
「アンダルシアに憧れて」は、どうしようもない袋小路の青春 (この言葉は似合わないけど、ほかに思いつかない)を、「青春アミーゴ」より危険に、そしてセクシーに悲しく歌う。
これって、捨て曲無しってことなのかな。
★大丈夫そう
電車に乗らずにホームの先端でこの曲を聴いていた私は、まだ 「大丈夫」そう?
帰れない場所だから、戻れない時間だから、だからせつないんだよ!と言われると、そうなのかもしれないけれど。
スピッツの 『三日月ロック』 の最初に流れる 「夜を駆ける」。これも私のバロメーターかもしれないな。
今夜も帰りは 『夏のぬけがら』 にしよう。
★私の感性バロメーター
この前、『音楽と人』の10月号でクロマニヨンズの甲本ヒロトのステキなインタビューを読んで、久しぶりに真島昌利のソロアルバム 『夏のぬけがら』 を聴きたくなった、と書いたんだけど…(ココです)。聴きました。
仕事帰りのホームで電車を待ちながらイヤホンを耳にいて、そして流れてきた 「夏が来て僕等」。
昔、初めて聴いたとき、私はこの曲を自分の 「感性バロメーター」 にしようと思った。
生きていればいろんなことがあるだろう。忙しくて、音楽なんて聴く余裕をなくすこともあるだろう。音楽が重い疲れを忘れさせてくれるなんて、そんな絵空事を信じる気にはなれなかったし。だから、そういうときは音楽なんて縁のない暮らしをするんだろうなあ、って。
それでも、もしどこからかこの 「夏が来て僕等」 が聞こえてきて、それで心が震えたなら、ちょっとだけでも震えたら、ああ、私はまだ大丈夫、そう自分に言ってやろう…。
そんなふうに決めたんだ。
★「終わりなき午後の冒険者」
流れるようなギターが聞こえてきて、そしてちょっとしゃがれたマーシーの声が歌う。
誰もがたぶん心の中に大事にしていて、忘れているときのほうが多いけれど、でも何かの拍子に蘇ってくる夏の風景。自分のまわりに広がる世界だけで十分満足できて、あふれる光や太陽や青空をきれいだとは思いながら、でもことさらに貴重なものだなんて知らなかった頃。 マーシーの声は、そういう景色の中に 「私」 もいたことを思い出させてくれる。
この歌には、夏の友達がたくさん詰まっている。「アイスクリーム」「花火」「夏草」「高校野球」「宿題」…。「高校野球なんか見ないで」、「宿題は机で待ってる」んだけどね。「給水塔」などどいう無味乾燥なはずの単語さえ、ここではなぜかせつない。
そういうものが鮮やかなメロディーに乗って、大げさではなく、でもありふれていない風景や匂いや声を生き返らせてくれる。
「終わりなき午後の冒険者」(このフレーズがいい!)たちは、「誰もが秘密をもつ汗ばんだ季節」を通って、「成長のドアを足で開けた」。
珠玉の言葉たちが澄んだメロディーに守られて、乾いた風を吹かせる。せつないけど甘くはなく、柔らかだけどヒリヒリする…。癒されるどころか悲しみに追い込まれるような、そういう凄絶な大人の歌だと思う。
★捨て曲無し?
ずっとあとになって、スピッツの草野マサムネ (ブルーハーツフリークで有名) がこのアルバムについて「捨て曲無し」と書いているのをみたことがある。
「捨て曲」 というのがどういうものかはよくわからないけれど、でもこのアルバムには、「夏が来て僕等」以外にも、語れる曲ばかりなのは確かだ。
「風のオートバイ」 はピアノをバックに、マーシーのしゃがれ声が美しい。「ぎりぎりのキッスをしよう」を想像したりした。冷たい雨に打たれて、夢が破れても 「終わらない旅」 を見せてくれる。
「花小金井のブレイクタウン」 は、飾らない言葉の行列で、懐かしい街を歌う。寂しくて、やりきれないくて、でもマーシーの優しさがあふれている。「夏がうずくまっていた」「春は酔っぱらってた」 を歌うマーシーの声は泣いているようだ。
「アンダルシアに憧れて」は、どうしようもない袋小路の青春 (この言葉は似合わないけど、ほかに思いつかない)を、「青春アミーゴ」より危険に、そしてセクシーに悲しく歌う。
これって、捨て曲無しってことなのかな。
★大丈夫そう
電車に乗らずにホームの先端でこの曲を聴いていた私は、まだ 「大丈夫」そう?
帰れない場所だから、戻れない時間だから、だからせつないんだよ!と言われると、そうなのかもしれないけれど。
スピッツの 『三日月ロック』 の最初に流れる 「夜を駆ける」。これも私のバロメーターかもしれないな。
今夜も帰りは 『夏のぬけがら』 にしよう。
ありがとうございます。
古い文章を読むとちょっと恥ずかしいのですが、でもコメントをいただけるなんて本当にうれしいです。
ありがとうございます!
私も今でも大好きで、やはり夏に聴いて、そのたびに胸を震わせます。ワタシ、まだ大丈夫そうです・・・。
そうです、そうです。爆弾ジョニーのフロントマンのかたはヒロト、マーシーからの影響を認めているし、対バンもやったそうですね。
「終わりなき午後の冒険者たち」・・・なんとも言えない、イメージの広がる表現ですよね。
スピッツ好きな福岡市民とは、盤石ではないですか!
本当にありがとうございました。
今年も「夏のぬけがら」の季節がもうすぐですね。
あのアルバムは本当に傑作だと思います。自分は毎年夏前に聴きます。聴くたびに、切なく懐かしくなります。
ちょっと前に、爆弾ジョニーというバンドが「終わりなき午後の冒険者」という曲をリリースしたけど、あれってコレですよねえ?
誰に話してもわかってもらえんので…。
スピッツも大好きです。
草野マサムネと同じ福岡市民です。