屁理屈は大多数の人間には賛同されない理屈(論理)である。屁理屈の集大成が落語の世界である。
打者が打つ、野手が取る、一塁に投げる。足がベースに着く、ボールがミットに収まる。同時である。西鉄・三原脩監督が「同時はアウトではないのか」と抗議するが、塁審は「セーフである」と主張する。二出川球審は塁審と同じ判断である。監督は納得せず、「ルールブックを見せてくれ」「俺がルールブックだ」。これにて一件落着。
皆川睦雄が0-3からど真ん中のストライクゾーンを通過する軽く投げ込んだ直球をボールと判定するから、当然抗議する。二出川は「気持ちが入ってないからボールだ」と一喝した。
稲尾和久には「プロの投手のストライクにど真ん中はない」と言い放った。
二出川球審がホームのクロスプレーをアウトにする。攻撃側から「ノータッチだ」との猛烈な抗議をするが、受け付けない。翌日の新聞写真は捕手のノータッチを証明する。リーグ会長が呼び出し非難するが、二出川は新聞の写真を一瞥し、「会長、これは写真が間違っているのです」と平然と言い放った。「イタチの最後っ屁」の屁理屈であるが何故か面白いのである。
理屈を述べる方法に3段論法があり、説得力がある。
人間は命が尽きる存在である。私は人間であるが故に命が尽きる時が来る。正しい理屈である。
屁理屈は何処かで線を間違えた為に首をかしげる人、笑い出す人、怒り出す人、考え込む人等の人間模様を出現させる。
ある女性は看護師であり、ある看護師は美人であるから、ある女性は美人である。美人の定義が千差万別だから正当な理屈かもしれない。
すべての国会議員は政治家であり、ある政治家はウソをつく故、あるウソをつく人は国会議員である。人は気分良く騙されたいのである。それはウソではない。
本当かどうか自分で検証して判断する以外に策は無い。人の言葉に振り回される自主性の無い行動は無責任である。自己責任で判断行動し、その判断基準は天然自然の法である。
私の理屈でなく、お釈迦様の理屈であるから、決して屁理屈ではないと信じている。
打者が打つ、野手が取る、一塁に投げる。足がベースに着く、ボールがミットに収まる。同時である。西鉄・三原脩監督が「同時はアウトではないのか」と抗議するが、塁審は「セーフである」と主張する。二出川球審は塁審と同じ判断である。監督は納得せず、「ルールブックを見せてくれ」「俺がルールブックだ」。これにて一件落着。
皆川睦雄が0-3からど真ん中のストライクゾーンを通過する軽く投げ込んだ直球をボールと判定するから、当然抗議する。二出川は「気持ちが入ってないからボールだ」と一喝した。
稲尾和久には「プロの投手のストライクにど真ん中はない」と言い放った。
二出川球審がホームのクロスプレーをアウトにする。攻撃側から「ノータッチだ」との猛烈な抗議をするが、受け付けない。翌日の新聞写真は捕手のノータッチを証明する。リーグ会長が呼び出し非難するが、二出川は新聞の写真を一瞥し、「会長、これは写真が間違っているのです」と平然と言い放った。「イタチの最後っ屁」の屁理屈であるが何故か面白いのである。
理屈を述べる方法に3段論法があり、説得力がある。
人間は命が尽きる存在である。私は人間であるが故に命が尽きる時が来る。正しい理屈である。
屁理屈は何処かで線を間違えた為に首をかしげる人、笑い出す人、怒り出す人、考え込む人等の人間模様を出現させる。
ある女性は看護師であり、ある看護師は美人であるから、ある女性は美人である。美人の定義が千差万別だから正当な理屈かもしれない。
すべての国会議員は政治家であり、ある政治家はウソをつく故、あるウソをつく人は国会議員である。人は気分良く騙されたいのである。それはウソではない。
本当かどうか自分で検証して判断する以外に策は無い。人の言葉に振り回される自主性の無い行動は無責任である。自己責任で判断行動し、その判断基準は天然自然の法である。
私の理屈でなく、お釈迦様の理屈であるから、決して屁理屈ではないと信じている。